ヨーロッパの民族間、宗教間の憎悪を乗り越える「実験」であったアメリカが、科学技術の進展に伴い、人間が細分化して、しまいには国家目的を見失い、代わって政治スキャンダルにうつつを抜かすようになったのは、人間の傾向の一面を示すものではないでしょうか?
私がこの国の起源を描き得たことが十分に描き出したのは、私が望んでいることですが、「共に見る」新たなヴィジョンがそれに参加するすべての(あるいは、ほとんどの)人に対して提供できることである、と申し上げてきたことです。すなわち、自分が自分の人生の主人公であり、選ばれているという感じであり、自分の人生に対して自覚的があり、自分の人生には方向付けがあるという感じと、自分の人生には生きるに値する価値があると確かな手応えがある感じです。しかし、もし、学識あるニュース解説の絶望的な声の相棒を臨床の歴史から、ひとつ単純な例を今や探すとなれば、ミライ虐殺に世界の注目を引き付けて、我が国の一部の若者に対する軍事的儀式化を完全に失うことになったことを示した、報道記事から少しばかりの引用をすれば足りるでしょう、と申し上げておきます。すなわち、失われた辺境に立ち、消極的で、困惑し、圧倒された感じが若者たちに広がったことです。それゆえに、多くの若者たちが馴染みのないパターンで1つの激怒に溢れています。この(ミライ虐殺の)出来事において(このベトナム戦争の多くの出来事と同様に)、私どもはわが兵隊さんたちを真っ昼間に見た悪夢の犠牲者に、実際にしてしまったのでした。
当時のアメリカでは、ほぼライブだったベトナム戦争とソンミ村であったミライ虐殺も、今の日本では、リアルな感じを持つことは難しいかもしれませんね。しかし、ここでエリクソンが述べているのは、この事件に対するリアルな感じがつかめなくても、理解できることではないでしょうか?
民主主義の価値観を守るつもりで、ベトナムという、アメリカから見れば辺境と思われるところまで出かけて行って行った戦争も、非武装の民間人を虐殺するという、民主主義とはおよそ相容れない結果をもたらして、軍事的儀式化の可能性を完全に失ってしまいました。「軍事的儀式化」については、5月3日に翻訳した「エリクソンが見た、戦争のもう一つの危険」の中に出てきましたね。本来の青年の儀式化に向かわずに、軍事的儀式化に流れる危険について、その中でエリクソンは警鐘を鳴らしていました。軍事的儀式化の可能性さえ失った若者に残ったのは、辺境を失った感じや元気がなくなった感じ、困惑し圧倒された感じと、馴染みのないパターンで激怒があふれた感じでした。
これは何も、当時のアメリカに特殊なことではなく、今の日本にもバッチリ当てはまることではないですか?
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