#遊びの目的 #子どものころの課題を解決すること #発達トラウマ障害のパンデミックからもインターメッツォ: エリクソンの叡智: 陽気で楽しい本気 「協調性」=「多数派の暴力」 ナチと管理教育はご親戚筋 改訂版 ナチと言えば、那智の滝。滝その......
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発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典 Weblio辞典
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今宵は, Young Man Luther『青年のころの ルター』 引き続き, P.211,最初からから,5訂版。第2パラグラフの途中から,つまり,15行目途中からもご一緒に。
真実が封印されている大事なことでは,人は,特に子どもは,他の人が本気で思っていることを見抜く,ほとんど無意識的な,並外れて素晴らしい直観力を持っていて,遅かれ早かれ,本当に大切にされたら,忠実に恩返しをしますし,コッソリとひどく嫌われたら,ドンピシャリの仕返しもしてきます。口では耳あたりの良いことを言い,表向きには優しく,どうでもいいことはよくしゃべり,正しいことは押し付ける,という癒しがたい壁によってバラバラになった家族は,互いに怒鳴り合い,互いに口答えし合って,互いにその場の気分を,こまごまと,しかも,そうなるとも知らず知らずに,ぶつけ合います。その場の気分は,身体の不調や病気ではないけれども,現実には,その場の気分によって,互いに心配し合い,互いに非難し合い,互いに悪口を言い合い,互いに殺し合うことになっています。
本気というのは,何も所信を述べることではありませんし,言葉でハッキリと言ったからと言って,聖書の神様を信頼していることになりません。本気とは,生きる力を取り戻す時に,聖書の神様の御心と一心同体になることです。つまり,本気とは,自分の生きる戦いを上手に底上げすることですから,本気か否か手に取るように分かるのは,心から自由にされた寛容で気高いプロの仕事ぶりです。
ルターが聖書の言葉に耳を傾けるときには,あらかじめ正しいことを決めてしまわない耳で,聖書の言葉に耳を傾けました。ルターの,あらかじめ正しいことを決めてしまわないで関わる生き方には,2つの聴き方がありました。1つは,聖書の話し言葉は必ず出来事になるという聴き方と,ルター自身の中で心に響き腑に落ちたものを良しとする聴き方でした。「心の習慣になっているものは全て,聖書の神様があなたに届けたみ言葉です」。心の習慣とはここでは,皆さんが心の中で一番本気で思っていることです。ルターが分かっていたことは,ルターが本気なのは,「聖書の言葉を話し言葉にすることは,自分が心から優しく自分を空っぽにして関わる関わりを始めることです」,という場合です。ここで,「聖書の神様を信頼することと聖書の言葉は,一体となり,息を合わせた2人はこの世の勝ち負けを超えて一心同体になります」と。
(訳注:旧約聖書にある150篇からなる詩集の)詩篇に関する聖書の話の中で25回,ローマ人への手紙(訳注:新約聖書の中にある手紙で,パウロの手紙の中でも最も大切な手紙とされる)に関する聖書の話では一回だけなのに,ルターは,パウロのコリント人への手紙から,関連する聖書の言葉を2ケ所引用しています。最初の聖書の言葉は(訳注:「コリントへの第一の手紙」第1章22節23節25節)
「22実にユダヤ人は徴を求め、ギリシア人は知恵を欲します。
23しかしわれらは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。彼はユダヤ人にはつまずき、異邦人には愚かです。
25それは、神の愚かは人間たちよりも知恵があり、神の弱さは人間たちよりも強いからです。」(訳注:前田護郎訳)
この聖書の神様が愚かで弱いという常識外れは,ルターにとっては神学的に絶対に正しいことなんです。聖書の中では一言も触れられていませんが,ルターは「特別な十字架」ということ,すなわち,十字架を見ないで理解できること,というのがルターの魂の叫びだったんです。
聖書の神様は愚かで弱い。世の中の常識を超えていますね。どういう意味でしょうか?
でも,聖書の神様が愚かで弱いことの象徴である,その十字架をルターはことのほか大切にしたようです。
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