人を大事にすることは、人類全体を大事にすること
人を大事にすることは、それだけの≪本気≫が必要だよね。
p44の8行目の途中から。
親身になって人を大事にすることは、私どもがみんな仲間である、という経験に基づいています。能力、知性、知識の違いなんぞは、すべての人間に共通する、人間の一番大事なところを体得することと比べたら、ちっぽけなこと。人間の一番大事なところを体得するためには、表面的なことから、眼に見えないところへと、≪心の眼≫を移すことですね。表面的なところばかり見ていたら、違いがめだっちゃうでしょ。そうしたら、私どもはバラバラになります。眼に見えないところへと、≪心の眼≫を移せば、私どもが自分を確かにする道を見出すことができます。それがまさに、人類皆兄弟、ということです。眼に見えない中心と眼に見えない中心を繋ぐ関係、上っ面と上っ面との関係ではない、それは、≪眼には見えない中心的な関係≫です。あるいは、シモーヌ・ヴェーユが見事に表現しているように、「旦那さんが奥さんに、『アイ・ラブ・ユー』と、おんなじ話し言葉を言う場合でも、その話し言葉がどのように語られるかによっては、誠に月並みなものにもなりますし、あるいは、誠に心がキュンとするものにもなりますよね。その話し言葉がどのように口にするかは、意思ではいかんともしがたい、人の心の、どれほどの深み から発せられているかによりますね。得も言われぬ不思議な合意によって、その話し言葉は、聞く者の心に、同じ深さで、届けられるのです。このようにして、聞く者も、違いの分かる≪心の耳≫がありさえすれば、その言葉がどれほど尊いものか、すぐにでも分かります」(ちなみに、田辺保さんの翻訳『重力と恩寵』[筑摩書房文庫]では、p114-115)
同じ話し言葉でも、深みがあれば、相手の心の深いところに届けることができる。なんて素晴らしいんでしょう! でも、その深みは何をもって深い、と言えるのでしょうか?
それは、今まで何度も申し上げていることですが、自分が感じている感じ、気持ち、イメージとどれだけぴったりとする言葉を探しているのか、あるいは、自分の最深欲求にどれだけ忠実な言葉なのか、に由るのですね。
子どもの最深欲求と言えば、フロムが先ごろ明らかにしてくれたように「自分を価値あるものと実感したい」ということだけでしょうね。ですから、それに大人が応えるためには、自分の話し言葉が、子どもと同じくらい深い部分と呼応していなくちゃ、伝わりませんよね。上っ面の言葉では、子どもはすべてお見通し。ウソとゴマカシにすぐに気づいちゃう。深い部分から言葉を発しようとすれば、大人はマジになりすよね。顔つきまで変わります。しかし、その時でも、真剣なのに、楽しく陽気である感じが、どんなことよりも大事なんですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます