マルティンは、どん底で自分の声を見つけることができて、自分を確かにすることができましたし、宗教改革を体現するルターになったのでした。
この言葉の賜物が発達することは、エルフルトの聖歌隊で劇的に大声を上げた時には、ハッキリしませんでした。イエスの前にいるこの受苦的存在を悩ませていたのは、「口を利けなくする」悪霊ではなかったのでしょうか? さらに申し上げれば、この修道士が「まるで雄牛のように」吼えて否定しなくてはならなかったのは、口が利けないことではなかったのでしょうか? 神の御声(自分の声)や神のみ言葉(自分の言葉)の主題は、ルターが自分を確かにする道と絡み合いますし、時代精神とも絡み合うものなのです。
自分を確かにする道を見つけたルターは、内なる自分の声を聴いていたのでしたね。しかし、それは単に自分を確かにする道を見つけることになったのではなくて、その時代以降、自分を確かにする、「新しい道」を提示することにつながっていたのです。個を通してあらわれる普遍、とはこのことでしょう。
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