昨日のJUDOの続編
武道としての柔道を考える。
前に、読んだか聞いたかした話である。
『戦場では、銃が一番、弾切れ等で銃が撃てなくなった場合に銃剣を使い、銃剣も使えなければナイフを使い、ナイフもなければ徒手の格闘となる』
戦場では、敵を制すると言うより殺傷する事が目的であるから、先の優先順位も致し方なしといえるだろう。
では、柔道は?
武道は、そもそも生死の境で生まれてきたものであろうが、生き死にの物騒な話はこの際やめとして話をしたい。
私の柔道の優先順位としては…
①まずは、相手を投げ飛ばしたい!
②投げたが、不完全であった時に、固め技でキッチリ極める!
と考えている。
柔道では、投げられ&寝かされたら、負けを意味するのが基本にある気がする。
それが、相手を制するに値する投げだったかどうかを「一本」「技あり」「有効」等々で、ダメージのレベルを判定しているのだと思う。
一本は、致命的な投げ、もしくは、完全に自分有利な状況に相手を転ばした場合。
技ありは、致命的ではないが、その後の攻めで何とか相手を制する事の出来る状況に転ばした場合。
有効以下は、「投げる・転ばす」という目的から考えれば、“アリ”と言うレベル。
だから、転ばない事が柔道の考え方の根底にあると考えてはいけないだろうか?
しかし、倒れたとはいえ、技あり以下の場合、致命傷や有利な状況に持ち込めていない訳であるから、それを「固め技」で補い、相手を制するのではないだろうか?
最初から、転がっていくのは、現代柔道では試合運びのテクニックとしてアリなのだろうが、柔道本来(じゃないかもしれないが)の「倒れたくない」という考えからは、乖離しているような気がする。
だって、「巴投げ」、「裏投げ」、「谷落とし」、「横車」などは、捨て身技と呼ばれているでしょ?
「身を捨てて」勝ちを手にする危険と表裏一体の技なのだ!
自分から寝に行くのは危険だということを「捨て身」という言葉を使っている事からも推察が出来るだろう。
やはり、柔道は…
①に立ち技②に固め技(寝技)なのである!
なのに、最近の外国勢の柔道の戦い方ときたら…
巴投げは、アグレッシブさを表現するための「待て」待ちの誘導技でしかなくなっていて、肩車も似たような位置づけになっているように感じた。
先日の柔道の放送を見ていて、ポイント主導、審判の印象主導の戦い方になってしまっている気がした。
あと、「待て」が早い!
エンターテインメント性を考えて、試合展開のスピード化と立ち技主導にしたい気持ちは分からなくもない。
私も柔道は立ち技主導であるべきだと考えている。
しかし、先にも書いただろう?
一本投げ以外は、致命傷でもなく、自分が有利な状態で相手を転ばした訳でもない。
ということは、相手はそれなりに動けるということである。
投げが不完全であった…
では、寝技に移行して、止めを刺してあげよう!
ということで、固め技の出番ではないのか?
しかし、寝技に移行する前に、すぐに「待て」がかかってしまう…
寝かされた方は「寝かされた自分は圧倒的に不利である」という事を認識するために…
倒した方は、極められなかったのであれば、立たせてもう一度投げつけてやるか、固め技で止めを刺す事を判断・意識させるために…
もう少し、寝技の攻防を見守る時間があってもいいと思う。
武道精神・実の戦いの名残りを試合にこれくらいは反映させて欲しい…
私が柔道をしていた時は、寝技に移行すると、なかなか待てをかけてもらえなかった記憶があったので、投げられたくなかったし、寝技は、投げられて不利な状況を回避するためだったり、不完全な投げを補い、キッチリ止めを刺すためで、最初から寝技狙いの試合をしなかった。
あの早い「待て」は、「どうせ待てがかかるから…」と、やりっぱなし技が多くなってしまう弊害があると思う。
だって、自分が寝かされたって、すぐに「待て」の掛け声が救ってくれるから…
少しの間“亀”になれば、これまた「待て」が救ってくれるから…
柔術などの経験者が最近多いので、寝かされる=負けのイメージは少なくなっているとは思うが、柔道発足当時の考え方の一つや、技の構成などは、やはり、寝かされる=負け(死)のイメージであると思う。
斉藤監督は反省していたようだが、立ち技、投げの一本にこだわって何が悪い?
狙っていきましょうよ!
それが、本来の柔道だと私は思う。
柔道着の色を変えられ、ルールも国際化を理由にエンターテインメント主導に変えられ、その上、柔道の「投げの美学」まで捨てる必要はない!
まぁ、今のルールだと、そのスタイルで勝ち抜くことは難しいと思うが、バルセロナやアテネでは、それで多くのメダルを取ってきたではないか!
日本柔道、今後も投げの柔道、日本武道としての柔道スタイルにこだわり続けて、気持ちのいい「投げで勝つ」柔道を今後も見せて欲しい!
JUDO精神より、柔道精神に期待!
武道としての柔道を考える。
前に、読んだか聞いたかした話である。
『戦場では、銃が一番、弾切れ等で銃が撃てなくなった場合に銃剣を使い、銃剣も使えなければナイフを使い、ナイフもなければ徒手の格闘となる』
戦場では、敵を制すると言うより殺傷する事が目的であるから、先の優先順位も致し方なしといえるだろう。
では、柔道は?
武道は、そもそも生死の境で生まれてきたものであろうが、生き死にの物騒な話はこの際やめとして話をしたい。
私の柔道の優先順位としては…
①まずは、相手を投げ飛ばしたい!
②投げたが、不完全であった時に、固め技でキッチリ極める!
と考えている。
柔道では、投げられ&寝かされたら、負けを意味するのが基本にある気がする。
それが、相手を制するに値する投げだったかどうかを「一本」「技あり」「有効」等々で、ダメージのレベルを判定しているのだと思う。
一本は、致命的な投げ、もしくは、完全に自分有利な状況に相手を転ばした場合。
技ありは、致命的ではないが、その後の攻めで何とか相手を制する事の出来る状況に転ばした場合。
有効以下は、「投げる・転ばす」という目的から考えれば、“アリ”と言うレベル。
だから、転ばない事が柔道の考え方の根底にあると考えてはいけないだろうか?
しかし、倒れたとはいえ、技あり以下の場合、致命傷や有利な状況に持ち込めていない訳であるから、それを「固め技」で補い、相手を制するのではないだろうか?
最初から、転がっていくのは、現代柔道では試合運びのテクニックとしてアリなのだろうが、柔道本来(じゃないかもしれないが)の「倒れたくない」という考えからは、乖離しているような気がする。
だって、「巴投げ」、「裏投げ」、「谷落とし」、「横車」などは、捨て身技と呼ばれているでしょ?
「身を捨てて」勝ちを手にする危険と表裏一体の技なのだ!
自分から寝に行くのは危険だということを「捨て身」という言葉を使っている事からも推察が出来るだろう。
やはり、柔道は…
①に立ち技②に固め技(寝技)なのである!
なのに、最近の外国勢の柔道の戦い方ときたら…
巴投げは、アグレッシブさを表現するための「待て」待ちの誘導技でしかなくなっていて、肩車も似たような位置づけになっているように感じた。
先日の柔道の放送を見ていて、ポイント主導、審判の印象主導の戦い方になってしまっている気がした。
あと、「待て」が早い!
エンターテインメント性を考えて、試合展開のスピード化と立ち技主導にしたい気持ちは分からなくもない。
私も柔道は立ち技主導であるべきだと考えている。
しかし、先にも書いただろう?
一本投げ以外は、致命傷でもなく、自分が有利な状態で相手を転ばした訳でもない。
ということは、相手はそれなりに動けるということである。
投げが不完全であった…
では、寝技に移行して、止めを刺してあげよう!
ということで、固め技の出番ではないのか?
しかし、寝技に移行する前に、すぐに「待て」がかかってしまう…
寝かされた方は「寝かされた自分は圧倒的に不利である」という事を認識するために…
倒した方は、極められなかったのであれば、立たせてもう一度投げつけてやるか、固め技で止めを刺す事を判断・意識させるために…
もう少し、寝技の攻防を見守る時間があってもいいと思う。
武道精神・実の戦いの名残りを試合にこれくらいは反映させて欲しい…
私が柔道をしていた時は、寝技に移行すると、なかなか待てをかけてもらえなかった記憶があったので、投げられたくなかったし、寝技は、投げられて不利な状況を回避するためだったり、不完全な投げを補い、キッチリ止めを刺すためで、最初から寝技狙いの試合をしなかった。
あの早い「待て」は、「どうせ待てがかかるから…」と、やりっぱなし技が多くなってしまう弊害があると思う。
だって、自分が寝かされたって、すぐに「待て」の掛け声が救ってくれるから…
少しの間“亀”になれば、これまた「待て」が救ってくれるから…
柔術などの経験者が最近多いので、寝かされる=負けのイメージは少なくなっているとは思うが、柔道発足当時の考え方の一つや、技の構成などは、やはり、寝かされる=負け(死)のイメージであると思う。
斉藤監督は反省していたようだが、立ち技、投げの一本にこだわって何が悪い?
狙っていきましょうよ!
それが、本来の柔道だと私は思う。
柔道着の色を変えられ、ルールも国際化を理由にエンターテインメント主導に変えられ、その上、柔道の「投げの美学」まで捨てる必要はない!
まぁ、今のルールだと、そのスタイルで勝ち抜くことは難しいと思うが、バルセロナやアテネでは、それで多くのメダルを取ってきたではないか!
日本柔道、今後も投げの柔道、日本武道としての柔道スタイルにこだわり続けて、気持ちのいい「投げで勝つ」柔道を今後も見せて欲しい!
JUDO精神より、柔道精神に期待!