9月30日付朝日新聞 論壇時評に東京大学大学院教授林香里氏の「親ガチャの運不運 諦めが覆う社会のひずみ」が掲載されました。
『「親ガチャ」という表現、ご存じだろうか。
語源は、硬貨を入れてレバーを回すとカプセル入りの玩具が無作為に出てくる「ガチャガチャ」。ネットのゲームではそれになぞらえて、課金してくじ引きを繰り返し、希少アイテムを入手する「コンプガチャ」という仕組みもあったらしい。若者はこうしたゲームにちなんで、「親のせいで自分の人生が希望通りにいかない」ことを「親ガチャに外れた」などと言うのだそうだ。
そういえば、2000年代に入って、学歴格差社会、ワーキングプア、世襲政治など、どれも「親ガチャ」というやるせない表現に説得力をもたせる現象が次々と指摘されてきた。時代を象徴する、言い得て妙な言葉だなと思う。
社会的弱者の取材を重ねるライターのヒオカは、この言葉がさっそく、テレビのワイドショーなどで取り上げられ、「結局は努力次第」などと「上から目線」の若者批判につながってしまうもどかしさを綴(つづ)っている。こうしたコメントは、世の中には、がんばろうにも、家族の介護や世話、親の借金の返済などを背負い、スタートラインにさえつけない人たちの存在を忘れている。ヒオカは、「親ガチャ」論争で重要なのは、一見個人の問題に見えるものは、実は社会問題なのだと社会の皆が気づくことだと訴える。
社会学者の土井隆義は、「親ガチャ」について長編の論考を寄せている。土井は、現代の若者たちは出自に不満を漏らしながらも、過半数が「現状を変えようとするより、そのまま受け入れたほうが楽に暮らせる」と考えていることに注目している。「親ガチャで外れた」と嘆きながら、人生の満足度も高い――この二つが奇妙に同時進行する日本社会について、反旗を翻そうとすることなく状況を淡々と受け入れる諦観(ていかん)が日本社会を覆っていることを憂える。結局、格差拡大や貧困増大が出生の運不運という宿命論へと回収されてしまうことで得をするのは、無為無策でこの状況を招いた政治家をはじめとする権力者や現状から多大な利益を得ている富裕層なのだ。
冒頭の「親ガチャ」も、思うようにならない人生の嘆きに「親」の影が重ねられていた。眞子さんの結婚では、小室さんのお母さんのことでバッシングがエスカレートしている。言うまでもないことだが、小室さんとお母さんは別人格だ。日本に住む私たちは、親の肩の向こう側に拡がる社会の制度や構造に、もっと目を向ける必要がありそうだ。』
>2000年代に入って、学歴格差社会、ワーキングプア、世襲政治など、どれも「親ガチャ」というやるせない表現に説得力をもたせる現象が次々と指摘されてきた。時代を象徴する、言い得て妙な言葉だなと思う。<との、記述がありますが2001年に発足した第一次小泉内閣は、経済財政政策担当大臣に慶大教授の竹中平蔵を起用してから、新自由主義経済に突入していった時代と符合すると思われます。
「親は選べばないが人生は選べる」という格言がありますが、16歳の時に赤貧生活の中で病死した父親を「親ガチャの不運」と思ったことは一度もありませんでした。近日中に父親と管理人の人生についてエントリーしたいと思います。
(了)