二夜つづけてのエルプフィルハーモニー詣でとなった。
今宵の演目は、ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番「レニングラード」。テオドール・クルレンツィス指揮南西ドイツ放送交響楽団による来演である。しかし、これがはじめてのエルプフィルハーモニー公演ではなく、少なくとも昨年12月にも公演はあった。なぜそれを知っているかというと、誤って昨年12月のチケットを予約してしまって、お金も切符もふいにしてしまったという苦い記憶があるからだ。
今宵の座席は、15階のKというブロックの前から二列目。もちろん、ホールそのものが15階席まであるわけではない。昨夜聴いた平戸間が12階、つまり、このビルそのものの階が客席にも採用されている、ということに今日気付いた次第。
実質4階席で聴くこのホールの音響は、やはり素晴らしいものがあった。バランスだけをとれば、平戸間前方を凌駕していたと言ってよいだろう。
上から見下ろしながら感じたことは、このホールはまるでベーゼンドルファーだなぁ、ということ。つまり、エルプフィルハーモニーのステージ床と壁が、あたかも、ベーゼンドルファーの共鳴板と木枠のような役割を果たし、ステージ上の演奏を深く、そして暖かく包んでいたのである。オーケストラがどんなに大音量になっても飽和せず、混濁もしない懐の深さはこのホールの大きな魅力と言えるだろう。
クルレンツィスは、紛うことなき天才である。今年のはじめ、ムジカエテルナを率いての来日公演では賛否が分かれたものだが、今宵の演奏はもっと好みを超えた普遍性のあるものだと思う。
ひとつには、オーケストラが南西ドイツ放送交響楽団であること。ムジカエテルナのサークル的、同人的な在り方に較べ、南西ドイツ放響は、オーケストラとしてのポテンシャルが比較にならないくらい高いところにある。
ドイツのオーケストラらしい重厚な響きと揺るぎないアンサンブルの上で、クルレンツィスの狂気が展開されるのであるから、それはそれは凄まじい世界が現れるのだ。
第1楽章、スネアドラムに始まる展開部冒頭の究極の弱音は、ムジカエテルナとのチャイコフスキーを思い出させたが、緊張の持続、精神の高揚、そしてあらゆる抑圧から解放されんとしたとき、それまで座して演奏していた全プレイヤーが立奏に移って聴衆の度胆を抜いた(もちろん、チェロ、テューバなどは除く)。その只ならぬ高揚は祭における群衆の、例えば火を囲んで何かに憑かれたように踊り狂う人々の熱狂すら思い出させた。
その後も音楽に応じ、木管だけが立つ場面、金管だけが立つ場面、あるソロ楽器のみが立つ場合、そして全員が立つ場面が様々に組み合わされてゆくのだが、これが視覚的にも、音楽的にも抜群の効果を上げる。
即ち、立奏するプレイヤー全員がコンチェルトのソリストのように大きな身体の動きや表現の幅を見せるばかりでなく、音の発する位置が高くなるので、明らかにその楽器やセクションの音色が変わるのである。まるで、オルガンのストップを替えるような効果は目眩くばかり。かといって、表現に溺れた造型の崩れなどは一昨年なく、実に堂々としたショスタコーヴィチであった。決して、際物と呼ぶべきものではない。
終演後の聴衆の熱狂も桁外れ。録画して皆さんにお見せしたかったくらい。
わたし自身は、ショスタコーヴィチの15の交響曲を眼前に積み上げられてもなお、ブルックナーの0番を選ぶブルックナー人間ゆえ、感動の大きさは昨夜のエッシェンバッハにあったが、クルレンツィスが本物であることを確認することができたことは喜びたい。
ただ、クルレンツィスのような狂熱の演奏こそ、直接音やプレイヤーの息遣いの聴こえる平戸間で聴き、その直中に1人の当事者として身を置くべきだったかも知れない。チケットを取れただけでも御の字、座席を選ぶ余裕などまるでなかったから、仕方のないことなのだけれど。