福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

シャルル・デュトワ ドイツ復帰公演「兵士の物語」

2019-06-24 23:06:40 | コンサート


ハンブルク最後の夜は、再びライスハレへ。
マルタ・アルゲリッチ音楽祭よりデュトワ指揮のストラヴィンスキー「兵士の物語」を聴くため。休憩前には、アルゲリッチによるバッハのパルティータ2番というのは嬉しいカップリング。



結論から言うと、前半アルゲリッチのバッハが神品だった。1曲目シンフォニア、グラーヴェ・アダージョは、まるで、ロ短調ミサ、キリエの冒頭のように峻厳にそそり立つ音。つづくアンダンテは、上行音型がまさに天を駆け昇る。
アルゲリッチは、まるで孤高の聖女のようであった。昨夜のプロコフィエフで、カンブルランのつくる枠の内外を行き来していたとするなら、今宵のアルゲリッチの魂は、もはや天上世界にあったと言ってよいだろう。
融通無碍のロンドーから躍動する終曲カプリッチョへ移行する際の間のよさなど、まさに天才の業であった。



後半の「兵士の物語」は、シャルル・デュトワが指揮をし、アルゲリッチとの娘アニー・デュトワが語りを務めるという趣向。兵士と悪魔の1人2役は、ルイージ・マイオ。

ルイージ・マイオは、たいへんな達者な役者だが、フランス語の上演で字幕がなかったせいか、客の反応は(哀れなわたしを含め)今ひとつ。途中退席する客も10人以上はあったか?

アニー・デュトワは決して器用な役者とは言えなかったが、それよりも問題は、2人がマイクを利用していたこと。舞台間口の上方ど真ん中に吊されたPAスピーカーは、恐らくは会場のアナウンス用のもので芝居に使うには質的に物足りない。2人が舞台のどこに居ても、いつも同じ場所から聞こえてくるため遠近感が生まれないし、如何にも電気的に増幅されたという台詞が、しかも大きめのボリュームで耳に痛く響いたのだ。

ライスハレはそんなに広い空間的ではないし、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスのような巨大なオーケストラと対峙するでもなし、さらには音楽なしの台詞だけの時間が長いので、マイクは不要だったのではないだろうか?

ルイージ・マイオの声は間違いなく立派だったことから、アニー・デュトワの発声をカバーするための措置なのか? 或いは、音楽ホールの豊かな残響に台詞の明晰さが奪われることを避けたのか? その2つくらいしか、わたしには思いつかない。

肝心の音楽は、もちろん良かったけれど、ヴァイオリン、コントラバス、クラリネット、ファゴット、トランペット、トロンボーン、打楽器という7人だけの室内楽編成ゆえ、大フィルとの「サロメ」や幻想交響曲で見せた「デュトワならでは」というゾクゾクする瞬間には出逢えなかったのは仕方なかろう。

なお、第2部後半、3つの舞曲でバレエを披露したのは、YUKI KISHIMOTOという日本人ダンサー(お名前の漢字が分からずスミマセン)。これが見事。その健康的なエロスで観客の心を惹き付けていたことは嬉しかった。



ところで、本公演はシャルル・デュトワのドイツ復帰演奏会、しかも、旧夫婦とその娘の共演ということで、もっと注目を浴びてもよい筈だが、客席には空席が目立った。2階席だけ見ても3分の1も入っていなかったのでは? 宣伝が足りていないのか? マスコミが敢えて採り上げないのか? 音楽を聴く市民の絶対数が少ないのか? 或いはほかの要因か? 
エルプフィルハーモニーの連日の狂ったような盛況を思うと淋しいことである。



ところで、曲が終わると、わたしの左方向から「ブラヴォー」と女性の声が上がった。なんとアルゲリッチそのひと。どうやら、わたしの4つか5つ隣の座席に居たらしい。うーん、あと数席左の座席を買っておくんだった(笑)。

まあ、PA含め、いろいろ不服のある公演だったが、アルゲリッチがあんなに歓んでいたなら、それで良しとするか。

アルゲリッチ&カンブルランのプロコフィエフ第3!

2019-06-24 10:10:56 | コンサート
エルプフィルハーモニー前のタクシー乗り場に急いだものの、目の前で2台が行ってしまった。しかし、徒歩+バスよりは早かろうと佇んでいると、5分ほど待ってようやくタクシーの影が! いざ、乗ろうと手を上げると、たった今、やってきた二人組ご婦人が、図々しくも割って入ってきて乗り込もうとしたので、心ならずも蹴散らしたことは既に書いたとおり(笑)。まったく油断がならない(先にグイッとタクシーのドアノブを掴んだだけ。念のため)。



ヨハネス・ブラームス・プラッツに建つライスハレは、所謂ヨーロッパの伝統的な音楽ホール。現代の科学と技術の粋を尽くしたエルプフィルハーモニーを生涯最高のホールと讃えたばかりの口で言うのも変だが、こういう昔ながらの木のホールに入るとホッとするのも事実である。



マルタ・アルゲリッチ音楽祭からの1公演で、カンブルラン指揮ハンブルク響によるヴェーベルンのパッサカリア、アルゲリッチ独奏によるプロコフィエフの第3協奏曲、休憩を挟んでチャイコフスキーの第5という魅惑のプログラムだ。



座席はここ。
背もたれに背を付けると、舞台の上手半分は見えなくなる。やや身を乗り出しても3分の1は隠れる。当地では、身を乗り出す御仁が少なくなく、わたしの両隣が豪快に身を乗り出してくれたので、わたしも控え目に乗り出して聴くのに躊躇はなかった。時々、右隣の男性が、メロディーを一緒に歌い出すのには辟易したが(笑)。

第1曲、極上のヴェーベルンを耳にして、ああ、間に合って本当によかった、と思った。

なんという精緻にして、魅惑の音楽であり、演奏であったか。それでいて、頭で考えた冷たい音楽とは無縁。ケント・ナガノの力に任せた演奏の後だけに、わたしには、その優美さ、高貴さが際立って聴こえた。そう、音楽には気品というものが必要なのだ。どんなに激しいときも、どんなに弾けるときも、どんな苦渋のときにも下品であってはならない。

カンブルランは何度か聴いていてもおかしくない存在なのだが、ついに日本で聴く機会を持っていない。どうもわたしの日程と読響のコンサート・スケジュールの相性が悪いらしく、ワーグナー「トリスタン」もメシアン「アッシジの聖フランシスコ」も涙を呑んだのだ。しかし、このヴェーベルンによる出逢いは最高だった。

つづいては、アルゲリッチとのプロコフィエフ。恥ずかしながら、生のアルゲリッチは40年近く昔(正しくはあとから調べます)、小澤征爾指揮の新日フィル定期でチャイコフスキーの第1協奏曲を聴いて以来。あのときは、ボヤボヤしないで着いて来なさいよ、とばかり自由奔放なアルゲリッチに、指揮もオーケストラも翻弄されっぱなしだったのを微笑ましく思い出す。

今回のアルゲリッチも自由ではあるのだけど、その加減が絶妙であった。つまり、カンブルランの描く枠の内でもなく外でもなく、ギリギリの線を出たり入ったり、そのスリリングさが堪らない。技巧は冴え渡り、音色も輝かしく、パッションも一流となれば、終演後の聴衆の熱狂も頷けよう。拍手、歓声、足踏みなど、ライスハレに地鳴りが起こったような騒ぎ。因みに第1楽章終了時にも拍手はあったが、それは聴衆がマナーを知らないというより、コーダ以降の目眩く鮮やかさと興奮に思わず拍手してしまった、という極めて自然な流れに感じられた。



チャイコフスキーの第5も素晴らしいものであった。カンブルランの醸し出す高貴の香りがチャイコフスキーによく似合うのだ。どこまでもコントロールされながら自由を失わないオーケストラ。歌心も満点だ。第1楽章こそ、もう少し緩急を付けた方が効果的ではないかと思う場面もインテンポで通り抜けたが、第2楽章以降はルバートの悉くが自然で美しく、フィナーレのコーダの輝かしさも申し分なし。



6月23日(日)に聴いたハンブルクの3つのオーケストラでは、NDRエルプフィルの実力が頭抜けているのは明白だが、ハンブルク響も相当に高いレベルにあった。とにかく音楽的。残念ながらケント・ナガノ率いるハンブルク・フィルはかなり遅れをとる。

もしかすると、そこがエルプフィルハーモニーというホールの恐ろしいところかも知れない。良いものはそのままに、悪いものもそのままに客席に伝える、という・・。

さて、ただいま6月24日午前10時過ぎ。今宵、マルタ・アルゲリッチ音楽祭よりシャルル・デュトワ指揮のストラヴィンスキー「兵士の物語」他が、我がドイツ・レクイエム旅の締めとなる。開演まで10時間弱、荷造りや買い物などしながら、ノンビリ過ごすとしよう。

第2ラウンド ケント・ナガノのブルックナー9番

2019-06-24 02:04:27 | コンサート
エッシェンバッハ&エルプフィルの終演が13時半頃。ケント・ナガノ&ハンブルク・フィル開演まで2時間半、何をしよう? 



まずは運河沿いのベンチに座ってノンビリ釣人を眺める。風が気持ちよく、このまま15時くらいまでノンビリ過ごしても良かったのだが、ハンブルク響終演後、タクシー乗り場に行列が出来ていたときのため、バス停まで下見に行くことにした。Googleマップによると950メートル、徒歩14分とある。もし道に迷ったりしたら命取りだ。





しかし、これが心楽しい散歩だった。運河そのものも美しいし、こんな橋を渡るのだって嬉しい。





ひとりの幸せ。もし誰か知人に声を掛けられ、現実に引き戻されたら台無しだ。万一、知ってる顔を見掛けたら、物影に隠れて過ぎるのを待つか、急いで人混みに紛れることにしよう。





バス停までは普通に歩いて10分、急げば1~2分詰められるかな? 途中、ニコライ教会にも挨拶できて良かった。

さて、エルプフィルハーモニーに戻ると、入口からホールロビーまで、スマホで動画撮影。このblogには動画が直に貼れない仕組みになっているので、興味のある方はFacebookを覗いて欲しい。







小腹が空いていたので、エルプフィル内のカフェで地元のケーキから林檎ケーキを選んで食べる。余分な味付けのないシンプルさを舌が喜び、十分に昼食変わりになるサイズでお腹も満足。



と、前置きを長々と書いているのには理由がある。

演奏が良くなかったのだ。
否、前半のメシアン「世の終わりのための四重奏曲」(ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ピアノのための)は、瞑想的な美に貫かれ、素晴らしかった。チェロがヴィブラートに頼り過ぎなければなお良かったけど、60分弱という長丁場、4人の奏者は時間と空間を完全に支配、まったく緊張の糸の切れる瞬間はなかったのである。ただ、クラリネットの最弱音によるモノローグの最中に、平戸間客のスマホの呼び出し音の鳴ってしまったのは残念だったが・・。



なお、わたしの座席はサントリーホールで言えば、RAブロックのかなりP席寄りであったが、特に内田光子が選定したというスタインウェイが玉のように美しく響いてきた。サントリーホールのこの位置では考えられないほど、明晰で、生命力があったのである。ここで、誰かのピアノリサイタルを聴いてみたいと思わせたものである。



休憩後、目を付けていた平戸間後方の空席に移り、ケント・ナガノの登場を待った。

聴く前には、「ブルックナーはいくら聴いても疲れない」と豪語していたわたしも、ケント・ナガノのブルックナーにはお手上げだった。

まず、その音楽づくり、というかケント・ナガノの指揮が神経質なこと。さらには、オケの自発性を尊重するよりは従わせるタイプの指揮で音楽が生きていないこと。テューバやティンパニを筆頭にフォルテが下品なほどにうるさい。さらに、ブルックナーの命であるゲネラル・パウゼで何も感じないまま、先を急いでしまう、等々。

指揮そのものにも疑問があった。第1楽章後半、2つ振りか、4つ振りか、迷った場面でアンサンブルが崩壊しかけたことなど、それはただの事故だからよいけれど、フォルテのたびに見せるケント・ナガノの尋常でない力みが、オーケストラに悪影響を与えてしまっているのは根源的な問題だ。

大好きなブルックナーなのに、最初から最後まで、ただの1小節も美しいと感じる場面がなかったのだから恐れ入る。エッシェンバッハの思い出で終わりにしておけばよかった、と言っても後の祭。それも実際に聴いてみなければ、分からなかったことだと自らを慰めているところ。



最後のホルンの響きが消えるや否や、拍手は省略してタクシー乗り場に直行。果たして、ハンブルク響の開演に間に合うのか?