海をゆく蓮葉氷の上に座し 滝に咲く花氷の下に立ち
憲法9条2項がいけないという三島。
軍隊を持つということに変えるべきで、軍隊を持たないということは、日本人に対して死ねと言っているようなものという。
激しく同意。
http://broadcast.kohyu-nishimura.com/2017/01/-ajer20171135.html
軍隊を持つということに変えるべきで、軍隊を持たないということは、日本人に対して死ねと言っているようなものという。
激しく同意。
http://broadcast.kohyu-nishimura.com/2017/01/-ajer20171135.html
幼稚園から大学までーー。安倍晋三首相が2016年10月、自民党の保岡興治憲法改正推進本部長と会談した際、改憲の項目の例として、日本維新の会の憲法改正原案に盛り込まれた「教育無償化」を挙げていたことを毎日新聞(1月11日)が報じた。
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維新の案では、義務教育以外の幼稚園や保育所、高校、大学、専門学校などを想定している。一方で、民進党は「法整備で実現できる」として、教育無償化のために憲法を改正することには慎重な姿勢を示している。
現在の法制度のもとでは、教育費はどこまでが「無償」とされているのか。大学まで無償化するために、憲法改正は必要なのか。憲法問題に詳しい村上英樹弁護士に聞いた。
●憲法で「無償」とされているのは、「小中学校」の「授業料」
「『幼稚園から大学までの教育を無償にするために憲法改正をする必要があるか?』といえば、その必要はありません」
村上弁護士はこのように指摘する。なぜだろうか。
「憲法26条2項が『義務教育は、これを無償とする』と定める意味は、国は義務教育(小中学校)の授業料を取ってはいけないという意味です。
つまり、憲法26条2項の『無償』とは授業料のことと考えられています。それ以外の費用、例えば、教科書代、クラブ活動費や給食費などは、憲法がいう『無償』の対象ではありません。もっとも、教科書は法律で『無償』とされています。
義務教育以外(幼稚園、高校、大学)の授業料をどうするかは、憲法に定めがないので、法律で決めることができます。授業料をとることもできるし、無償にすることもできる、ということです。
ですので、幼稚園から大学までの授業料を無償にするという政策を実現しようと思えば、憲法改正をしなくても法律で実現可能です」
では、憲法にそうした項目をつくることに、何か意義はあるのか。
「憲法を改正して、幼稚園から大学までの授業料を無償にするという意見は、とても教育に積極的な意見です。
『幼稚園から大学までの授業料を無償にする』と憲法に書けば、そのときどきの政府が授業料を取ることにしようと思ってもできないことになります。確かに、国民に対して、手厚い教育を保障するという意味があります。
ただ、現実には、法律を作るのと違って、憲法を改正するには国民投票など特別な手続が必要で時間も相当かかります。数年で実現することは難しいでしょう。
なので、政策として教育無償化を早期に実現するためならば、憲法改正をしなくても、法律をつくって実施することで可能ですし、それが現実的です。
私の意見としても、国民がより充実した教育を受けやすいように無償の範囲を拡大することは賛成です。法律を整備して早期に無償教育が拡大させられたらいいと思います。
その上で、憲法改正して教育無償化の範囲を拡大する定めを作る必要があるかどうかは、時代の流れを見ながらじっくり検討するのが良いと思います」
(弁護士ドットコムニュース)
【取材協力弁護士】
村上 英樹(むらかみ・ひでき)弁護士
主に民事事件、家事事件(相続、離婚など)、倒産事件を取り扱い、最近では、交通事故、労働災害、投資被害、医療過誤事件を取り扱うことが多い。法律問題そのものだけでなく、世の中で起こることそのほかの思いをブログで発信している。
事務所名:神戸シーサイド法律事務所
事務所URL:http://www.kobeseaside-lawoffice.com
おからって美味しいと?
昔、たまたま見かけた時代劇の中で、おから好きの侍が、いつもおからばかり食べているという場面を見て、母に聞いてみたことがあった。
母は、好きな人は好きやろう。
とだけ言って、しばらくして、おからを食べさせてくれた。
ぱさぱさしていた。味はもさもさしていた。ぱさぱさとした中に、味が入り込めない、いくら味付けしたところで味が、逃げてしまうような、底なしの空っぽ。そこにあるはずのものが、抜かれたものには、空虚なパサつきが残るということを知ったのは、それからであった。
豆乳にも豆腐にならなかった、搾り取られた後のものだと知ったのは、それがきっかけであった。
昨日、豆腐屋でおからを分けてもらっていたものに、豆腐と胸肉の余ったものを叩いて細かくしたものと卵などを使って、団子を作ってみた。
おからと豆腐の再融合に鶏と卵の再会の象徴的な団子を作るために。
何かが、足りなかった。
一度、搾り取られたものは、再び取り戻すことができないような、「分離」を知るのである。
一つになっていたものが、分離すると、もう元には戻らない。
不可逆性。
やはり、何かが足りなかった。
豆乳となって流れ出たほとばしる生命の汁気。とでも言おうか。
あるいは、ほかほかとした熱のようなもの。
それが、決定的に欠けていたのだった。
鶏と卵の場合はどうか。
豆乳と豆腐から「おから」がかけているものとするならば、鶏と卵には「殻」がかけていた。
豆を守っていたからの残骸でもある「おから」と、卵を守っていた「から」。
どちらも、一体であった時は、それらを守っていたのであった。
それらを守らなくてもいいところで、「から」は廃棄されるか、かす扱いされるようになる。
国の形にどこか似ていると思った。
国を守る必要のない、国を食い物にするためのものには、おからもからも、旨味のない、必要ではない、不要のものとされるというわけである。
あとは知ったこっちゃないと、逝く皆。と繰り言のように、滅びを口にするものがいたならば、こう口にするのがよいのかもしれない。
おからも殻も空のうち。
おからもからもからのうち。
おからもからもからのうち。
呪文のように、繰り返してみるのがよいかもしれない。
繰り返される、時代劇のように。
おからもからもからのうち。
おからもからもからのうち。
おからもからもからのうち。