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明鏡   

鏡のごとく

「六年」

2017-03-11 22:21:14 | 詩小説
六年たったのだ。

八百屋でイチゴを買っていた時に、起こっていた東日本大震災から。
最初に爆発の話を聞き、それから尋常ではない津波が押し寄せてきたということを知った。

父がちょうど、私の家に来ていた。
行くあてがない半身不随の父であった。
母のいるところへは、いけない様々な事情もあった。
父は言うなれば拠り所のない人であった。
いや拠り所はいくつかあったのだが、そのどれにしても、終の住処ではなかったということであった。
今までいたところにもいられなくなり、針の筵の、父にとっての娯楽はない、居心地のあまり良くない我が家へ一時的にでも避難していた時のこと。

あの日、洗濯物を干している私に、一日に一度は外に出ないと死んでしまうという父の願いを聞いて、介護と子育てと寝不足で疲れきった体を鞭打って、外に出ていた時であった。

何もかもに疲れきって、何もできない無力感と悔しさが自分の内でも外でも、同時多発的に起こっていたのだった。


あの震災とは、一体、何だったのであろうか。

当初から、あまりに桁違いのことが重なり、揺れがあまりに尋常でないことや、津波の起こり方の不自然さからも、また、電離層の何らかの人工的な介入を指摘する声もあり「人工地震」ということを実証できる段階に来ている今、ごまかすことは、これからの世界にとって難しく、本当のことがわかることが、何より次の震災を食い止めることになるであろうことを思う。

実際に、人工地震を起こすことができるのは単純な北朝鮮の核実験で認証済みであるので、それをこそこそと海底に仕掛けるくらい朝飯前である者がいるのは言うまでもなく、どこの誰に責任があるかは、後の世が必ず教えてくれることであろう。

いずれ後の世になって、心ある者たちから、心ない者たちは血祭りにあげられることであろう。


このような狂った世界において、唯一、救いだったのは、そこで暮らす人たちのいき様であった。が。


日本が狂っているのではなく、その地震を起こしたものがそもそも狂っており、何よりその地震が起こって、狂喜乱舞していた近隣諸国の、韓国のいやらしい行為、痛手を負った日本に唾を吐きかけるような日本の竹島への不法侵略や東日本大震災を祝うなどという垂れ幕を垂らすサッカーのサポーターや、東日本が大変なことにつけ込んで嬉々として土足で踏み込んでくる盗人猛々しく船に乗って日本の尖閣諸島に攻め立ててくる、狂った中国の集団が、すぐそこにいたことに、それまで、それほどまでの悪意を見たことがなかった戦後生まれの何も知らなかった私を含めて、それらの何とも言いようのない悪意を知った日本人は愕然としたのであった。

その時に、断固抗議もせず、ただ押し黙って、仕方がないと、やりたい放題する者のなすがままにしていた者たちを見ていた子供達は、薄っぺらい正義など信じなくなったとしても、当然のことである。

まだ、立ち上がって声を上げた、残される家族を思って死ぬ前に立ち上がった老人の方を信じることができたのである。

むざむざと、やられているわけにはいかない。という老人の方が、六年経てばすっかり何事もなかったように、ヘラヘラ笑って、飼いならされて、俺たち仲良しですよね、俺たちはなし合えば仲良くできてますということになるらしいもてなされてホイホイ国を売る自称知識人よりも、信頼できたのである。

そのような自称知識人が、老人たちを攻め立てている今の日本のいびつさこそが、そのまま、日本の戦後なのだとようやく見えてきたところであったのだ。


東日本大震災の後、国というものは、脆いということを思うようになった。

日本は、半分、失ってしまったのではないかと思ったのだ。

あの時。

そこに住む人たちがいて、国というものがあるということもまた思う。

悪意のある世界があろうとも、そこに住む人がいる限り、この世界は続くのだということも。


日本にいるすべてのものの悲しみと悔しさ 東日本大震災

2017-03-11 09:20:40 | 日記
https://news.yahoo.co.jp/feature/534 より


「抱きしめたい。一部でもいいから」
上野さん宅の仏壇には、4人の遺影と骨つぼが並んでいた。今も見つからない息子・倖太郎君の骨つぼには衣服が納められている。

上野さん宅の仏壇には永吏可さん(左)と倖太郎君(右)の遺影(撮影:宮坂樹)
上野さんはこう言う。
「倖太郎に救われたと思ってるんですよ。倖太郎が見つかったら、自分も死のうと思ってましたから。今はもう『自分で命を』とは思わない。だから、もう出てきてもいいよって思うんだけど、出てきてくれないね。かくれんぼ、上手だったからねぇ…。抱きしめたいですよ。一部でもいいから」
3歳で犠牲になった倖太郎君、同じく8歳だった永吏可さん。どんな形でもいいから2人に会いたい。その気持ちは何も変わらない。
──でも、この6年間で何かは変わったのでは?
「それは周り。去年の熊本地震もそう。岩手や北海道の台風被害もそう。あれだけ警報が出て、なんで避難しないのか。あの震災が教訓として生かされてないな、って。東北で亡くなった(行方不明者を含む)2万人の命とか、自分の家族の命とかを、無駄にされてるような気がしてしょうがない。変わったのは、あの時の危機感を忘れてしまった周りだと思うんです」

この6年間の思いを語る上野さん(撮影:宮坂樹)
震災後、福島に関する報道は原発が中心だ。そのことにも違和感を覚えている。「原発ばかり注目されて、福島の津波のこと、命のことが忘れられているように思います」
家族や友人「いて当たり前ではない」
上野さん夫妻には、震災後に生まれた5歳の娘がいる。倖太郎君の「倖」、永吏可さんの「吏」、それに「生きる」の文字を取って、倖吏生(さりい)と名付けた。
生まれた時のことを上野さんはよく覚えている。震災から半年後の9月16日朝。2408グラムの小さな体だった。初めて倖吏生ちゃんを腕に抱いた時、「寂しくて」涙が止まらなかったという。

倖吏生ちゃん。この春から幼稚園の年長組になる(撮影:宮坂樹)
「一番楽しみにしてたのは、(犠牲になった)姉の永吏可だったので。『妹ができるんだ』って、いつもうれしそうに嫁さんのお腹を撫でてた。喜んでくれるはずの永吏可が、家族が、いないっていうのがね…。僕にはもう、永吏可と倖太郎の思い出が増えていかないんです。だから(みんなは)今ある幸せを大切にしてほしい。家族がいること、友人がいること。それって当たり前じゃないんでね。ありがとうって、伝えてほしい。自分のそばにいる人を大切にしてほしい。それが、命を守るってことにも繋がると思うんです」

菜の花の芽に肥料を撒く倖吏生ちゃん(撮影:宮坂樹)
新居の前の畑は、春に菜の花畑になる。「福興浜団」のメンバーたちが毎年手伝ってくれ、迷路状に花を抜いて「菜の花迷路」として開放する。取材で訪れた2月の週末、その畑では倖吏生ちゃんが菜の花に肥料を撒いていた。芽はまだ小さかった。
[写真]
撮影:宮坂樹、中野幸英
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「父はここで教えていました」。今年2月12日、東日本大震災の津波に襲われた宮城県石巻市立大川小学校で同校の教員だった父親=当時(55)=を亡くした宮城教育大3年の佐々木奏太さん(21)は県内外からの見学者に語り掛けた。犠牲者でありながら責任も問われる「教員遺族」の立場に向き合い、児童の遺族と共に教訓を伝え始めた。

 2011年3月11日、大川小では児童74人と父を含む教職員10人が犠牲になった。高台の中学校で被害を免れた佐々木さんは、「対応に追われているんだろう」と父の無事を疑わなかった。海で発見された遺体が父と判明したのは、1年4カ月後。「当時は震災で家族を亡くした遺族の1人という意識が強かった」と振り返る。

 しかし、児童の遺族が学校側を相手に訴訟を起こした14年3月以降、むしろ責任を負う側にいることを意識するようになった。「学校で子どもの命を守るのは先生で、大川小ではそれができなかった」。学校を訪れるたびに原告の遺族を見かけるが、話しかけられない。「自分も相手も傷ついてしまうかもしれない」と不安だった。

 仙台地裁判決を1カ月後に控えた16年9月。同小6年だった三男を失った石巻市の佐藤和隆さん(50)を、思い切って訪ねた。「お父さんが守らなきゃいけなかったんだよ」。厳しい言葉だったが、本音をぶつけてくれてうれしかった。学校の過失を認めた判決は、冷静に受け止められた。

 佐々木さんは16年末から、他の児童遺族らと共に、語り部活動を始めた。今年2月、東京や奈良から訪れた教員志望の大学生14人を案内。「子どもを救えず、先生はどんなに無念だったか、悔しかったか」。児童遺族の言葉に大きくうなずいた。「悲劇を繰り返したくない」の思いは同じだ。

 学習支援のボランティアや防災関係のイベントでの講演などもしている。卒業後は地元の同県南三陸町の復興に携わりたいという。佐々木さんは「これからの命のために、若い世代に震災を伝承するつなぎ役になりたい」と力を込めた。 


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