明鏡   

鏡のごとく

『政治的ロマン主義の運命』ドリュ・ラ・ロシェルとフランス・ファシズム と 三島

2017-03-17 17:45:24 | 詩小説


『政治的ロマン主義の運命』ドリュ・ラ・ロシェルとフランス・ファシズム より


〜〜〜〜以下抜粋〜〜〜〜

ドリュは自分と同じ戦争体験世代に共感を寄せる。
彼らはブルジョア出身だが進取の気性に富み、観念と想像力を警戒しているので共産主義にかぶれなかった。

彼らは「戦争中に世界中の偉大な諸民族、および農民と労働者に残った健康で謙虚なものと出会って高邁な行動力を掻き立てられた」ので、その経験を資本主義体制のために役立てようとしている。

ドリュによれば、現代は急速に「中世の性格」を強めている。
階級融合的な社会像がそこにある。
「集団が重要になり、個人は圧倒的な〔集団からの〕保障の恩恵を受けるために、そこに結びつかなければならない。ファッショの例は塾考に値する」

それではドリュはどのような集団を構想していたのだろうか。

ドリュは、「勧誘は絶対に慎まねばならない、政党作りは論外だ」とエリート主義を唱える。

エリートは擬似軍事組織ファッショではなく「教会」を作る。

このように『フランスの測定』の政治的メッセージとは、資本主義とカトリシズムを折衷しながら、人口一億以上の大国に互してフランスとヨーロッパの利益を代表する事であった。

ここでドリュが反議会主義的な極右団体、例えばアクシオン・フランセーズをどう評価していたかが重要である。

ドリュは1928年の文章で、「わたしは総体的ナショナリズム〔モーラスの鍵概念〕をかつて一度も認めたことがない。わたしは人間を深めると言い張りながら、その実身の丈を縮めるだけの見地には常に反抗してきた。
その証拠が、1917年に書き、〈君たちにだ、ドイツ人よ〉〈ヨーロッパ兵士の嘆き〉などの詩がからくも検閲を免れた『審問』と、モーラスのわたしへの影響が最高潮だった時に書いた『フランスの測定』である」と言い切っている。


〜〜〜〜〜〜〜抜粋おわり〜〜〜〜〜〜〜


第一次世界大戦、第二次世界大戦を目の当たりにし、自らも兵士として、アメリカ兵の通訳などもして参加もしていたフランス人のドリュが、そこにあるもので妥当と考えた資本主義とカトリシズムを具現しうる「教会」を念頭に置いて、政党作りには否定的であった「エリート」主義を唱えていたとするならば。

第二次世界大戦を目の当たりにしてはいたものの、自身の身体の状態がそれに耐えうるものではなく兵士としての実質的参加はなかった日本においての三島由紀夫が自ずと浮かび上がってきた。

ある意味、「(防衛的)エリート」意識はあったが、(防衛的)エリートではなかった、また擬似軍事組織ではあったもののそれほど「ファッショ的」なものには(個人的で人数が限られ全体主義とは程遠く)なりきれなかった、あるいは、ならなかった、三島由紀夫の個人的資金で立ち上げられた、擬似軍事組織であり私的自衛団的「楯の会」を鑑みれば、三島が目指したものは、ドリュとは対照的なものであったと言えよう。

ドリュが目指した資本主義とカトリシズムの融合とは、離れたところにあった三島であったが、彼らの、戦争を体験した作家としての、「身体性への憧れ」のようなものが、見え隠れしていた。

当時のフランスの「体操」への関心の高さなども影響していたようで、オリンピックなどに対する憧れも相まっていたのであろうが。

三島のアポロン的思考、筋肉への執着、剣道、ボクシングなどでの心身ともに鍛え抜くことで培われるものへの憧れ、自衛隊への体験入隊などに見られるように、「身体」を通しての言語の獲得をも試みた、あるいは、「骨のある言語の血肉化」を試みた行為とも言えるが。

嫌が応にも戦争を目の当たりにしたものにとっては、それを素通りして書くことはできないという宿命。
切実な現実を、書かずにはおれなかったさだめのようなものであった。

そうして、戦った後、戦場では死に切れなかったために書くことに没頭した、死に切れなかったものの、その究極の結実が、ドリュのフランス・ファシズムへのけじめとしての自死、三島の(日本あるいは自分自身の)文化防衛的とも言える自死であったと言える。

カジノ反対

2017-03-17 15:54:41 | 日記


 政府は17日の閣議で、カジノを含む統合型リゾート(IR)の整備に向け、安倍晋三首相を本部長に全閣僚で構成する推進本部を24日付で設置することを決めた。同本部の下には学識経験者によるIR推進会議も設ける。

 昨年12月に施行されたIR推進法は、政府に対して1年以内をめどに、必要な法制上の措置を講じるよう義務付けている。政府は推進本部で本格作業を進め、IR整備の具体的なルールを定めた実施法案を、今秋の臨時国会にも提出する考えだ。 

日本の「民主連合」を考える 共産党は裏切る ベトナム戦争の教訓

2017-03-17 09:43:35 | 日記
共産党とはなんなのか。共産主義とはどんな政治思想なのか。日本の目の前の実例を近代の歴史というプリズムから眺めてみるのも一興だろう。

日本の政治では共産党がハイライトを集めるようになった。日本共産党は国会の選挙から地方選挙まで議席を増やし、存在感が強まってきた。とくに最近、注視されるのは共産党と他の野党との連携の動きである。2016年7月の参議院選挙では野党連合は成功したとはいえないが、日本共産党の側は他の政治勢力との共闘にますます意欲を燃やすようになった。

「統一戦線」「国民連合政権」「民主連合政府」――こんなスローガンが掲げられるようになった。

となると、私はどうしてもベトナム戦争を思い出してしまう。私自身が新聞記者としてその劇的な展開を取材したあの戦争でも同じようなスローガンが掲げられ、叫ばれていたからだ。その主役はベトナム共産党だった。

そのベトナム共産党の戦略といまの日本共産党の動向をくらべると、ぴたりと重なる部分が多い。これは歴史の偶然なのか、あるいは共産主義独自の共通項なのか。いまベトナム戦争を回顧しながら、その検証を試みることにも歴史の教訓がありそうだ。

世界を揺るがせたベトナム戦争は1975年4月30日、当時の北ベトナム軍が南ベトナム(ベトナム共和国)の大統領官邸にソ連製の戦車などで突入して占拠することで幕を閉じた。北ベトナム軍はハノイを拠点とするベトナム共産党の軍隊だった。その大部隊が南ベトナムの当時の首都サイゴン(現在のホーチミン市)を制圧し、南の政権を粉砕した。時の南ベトナム側はそれまでの野党の代表が最後の新政権を編成し、共産側との交渉、あるいは降伏を請うた。しかしまったく認められず、完全に抹殺されてしまったのだった。

私はその時、毎日新聞記者として現地にいて、戦争の終結を見届けた。南ベトナムには通算4年近く滞在して、戦火の燃え上がりや和平への交渉、そしてまた大戦闘、その背後での政治の駆け引きを目撃したが、その最大の教訓の一つは共産主義勢力との「連合」や「統一」がいかに苛酷な結末をもたらすかを実感したことだった。とくに共産主義勢力が勝利した後のかつての「連合」の仲間の切り捨ては冷酷をきわめた。

私が戦火の燃え続ける南ベトナムに赴任したのは1972年4月だった。その地では米軍と南ベトナム政府に対して北ベトナムに支援された南の「民族解放勢力」が戦いを挑んでいる、とされていた。ただしアメリカはニクソン大統領がすでに米軍撤退の方針を表明し、残るのは空軍部隊だけだった。地上戦闘部隊はもうみな引き揚げていたのだ。

当時の日本ではベトナム戦争の基本構図は一貫して「ベトナム人民vs米軍」とされていた。ベトナムの民衆が侵略してきた米軍とその手下の傀儡政権軍と戦っているという認識だった。ところが私が現地で暮らしてみると、目の前の実態はこの構図には合わないことをすぐに感じた。南ベトナムのふつうの住民は米軍を嫌いも恐れもしていないようなのだ。一般の人たちは腐敗した傀儡政権こそ非難するが、「コンサン」はもっと怖いのだという。コンサンとはベトナム語で「共産」、つまり共産主義勢力を指すのだった。日本の認識だけを頭に入れていた私は当初、この現地での実態を信じられなかった。

「南ベトナム民族解放勢力」とはなんだったのか。南ベトナムでは1969年に「南ベトナム民族解放戦線」という組織が旗揚げをした。南内部の民族独立を目指す各勢力がイデオロギーは脇において団結し、アメリカに支援された南ベトナム政府に武力闘争を挑むという主張だった。特定の政治思想にこだわらない広範な民族独立運動とされたのだ。

解放勢力は南ベトナム政府への武力攻撃を続け、同政府の基盤が揺らいできた。その劣勢をくつがえし、同政府を維持しようとしてアメリカが軍事介入した。正式の介入は1965年だった。南ベトナム政府自身が公式に米軍の支援を求めたのだ。解放勢力は1968年には南全土で大規模な攻勢に出た。米軍と果敢に戦った。テト攻勢である。その翌年、解放戦線は「南ベトナム臨時革命政府」の樹立を宣言する。南ベトナムの政府や米軍に対抗する民族独立のための臨時政府であり、特定の政治色はないという主張だった。

だが後に判明したのは「解放戦線」も「臨時革命政府」もすべて北ベトナムに本拠をおくベトナム共産党が最初から仕切っていたという事実だった。しかし当時のベトナム共産党は「南の解放戦線や臨時革命政府は北ベトナムとも共産党とも別個の存在だ」と宣言していた。「南ベトナムでの闘争には北ベトナムは直接に参加していない」とも言明していた。だがこの宣言はみな巨大な虚構だったことが明らかとなる。