『政治的ロマン主義の運命』ドリュ・ラ・ロシェルとフランス・ファシズム より
〜〜〜〜以下抜粋〜〜〜〜
ドリュは自分と同じ戦争体験世代に共感を寄せる。
彼らはブルジョア出身だが進取の気性に富み、観念と想像力を警戒しているので共産主義にかぶれなかった。
彼らは「戦争中に世界中の偉大な諸民族、および農民と労働者に残った健康で謙虚なものと出会って高邁な行動力を掻き立てられた」ので、その経験を資本主義体制のために役立てようとしている。
ドリュによれば、現代は急速に「中世の性格」を強めている。
階級融合的な社会像がそこにある。
「集団が重要になり、個人は圧倒的な〔集団からの〕保障の恩恵を受けるために、そこに結びつかなければならない。ファッショの例は塾考に値する」
それではドリュはどのような集団を構想していたのだろうか。
ドリュは、「勧誘は絶対に慎まねばならない、政党作りは論外だ」とエリート主義を唱える。
エリートは擬似軍事組織ファッショではなく「教会」を作る。
このように『フランスの測定』の政治的メッセージとは、資本主義とカトリシズムを折衷しながら、人口一億以上の大国に互してフランスとヨーロッパの利益を代表する事であった。
ここでドリュが反議会主義的な極右団体、例えばアクシオン・フランセーズをどう評価していたかが重要である。
ドリュは1928年の文章で、「わたしは総体的ナショナリズム〔モーラスの鍵概念〕をかつて一度も認めたことがない。わたしは人間を深めると言い張りながら、その実身の丈を縮めるだけの見地には常に反抗してきた。
その証拠が、1917年に書き、〈君たちにだ、ドイツ人よ〉〈ヨーロッパ兵士の嘆き〉などの詩がからくも検閲を免れた『審問』と、モーラスのわたしへの影響が最高潮だった時に書いた『フランスの測定』である」と言い切っている。
〜〜〜〜〜〜〜抜粋おわり〜〜〜〜〜〜〜
第一次世界大戦、第二次世界大戦を目の当たりにし、自らも兵士として、アメリカ兵の通訳などもして参加もしていたフランス人のドリュが、そこにあるもので妥当と考えた資本主義とカトリシズムを具現しうる「教会」を念頭に置いて、政党作りには否定的であった「エリート」主義を唱えていたとするならば。
第二次世界大戦を目の当たりにしてはいたものの、自身の身体の状態がそれに耐えうるものではなく兵士としての実質的参加はなかった日本においての三島由紀夫が自ずと浮かび上がってきた。
ある意味、「(防衛的)エリート」意識はあったが、(防衛的)エリートではなかった、また擬似軍事組織ではあったもののそれほど「ファッショ的」なものには(個人的で人数が限られ全体主義とは程遠く)なりきれなかった、あるいは、ならなかった、三島由紀夫の個人的資金で立ち上げられた、擬似軍事組織であり私的自衛団的「楯の会」を鑑みれば、三島が目指したものは、ドリュとは対照的なものであったと言えよう。
ドリュが目指した資本主義とカトリシズムの融合とは、離れたところにあった三島であったが、彼らの、戦争を体験した作家としての、「身体性への憧れ」のようなものが、見え隠れしていた。
当時のフランスの「体操」への関心の高さなども影響していたようで、オリンピックなどに対する憧れも相まっていたのであろうが。
三島のアポロン的思考、筋肉への執着、剣道、ボクシングなどでの心身ともに鍛え抜くことで培われるものへの憧れ、自衛隊への体験入隊などに見られるように、「身体」を通しての言語の獲得をも試みた、あるいは、「骨のある言語の血肉化」を試みた行為とも言えるが。
嫌が応にも戦争を目の当たりにしたものにとっては、それを素通りして書くことはできないという宿命。
切実な現実を、書かずにはおれなかったさだめのようなものであった。
そうして、戦った後、戦場では死に切れなかったために書くことに没頭した、死に切れなかったものの、その究極の結実が、ドリュのフランス・ファシズムへのけじめとしての自死、三島の(日本あるいは自分自身の)文化防衛的とも言える自死であったと言える。