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関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-10
Vol.-9からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第30番 光松山 威盛院 放生寺
(ほうじょうじ)
公式Web
新宿区西早稲田2-1-14
高野山真言宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第30番、江戸三十三観音札所第15番、大東京百観音霊場第19番、山の手三十三観音霊場第16番、九品仏霊場第7番
司元別当:高田穴八幡宮
授与所:寺務所ないし本堂内
第30番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ 』、江戸八十八ヶ所霊場ともに放生寺なので、御府内霊場開創時から一貫して早稲田の放生寺であったとみられます。
縁起・沿革は公式Web、現地掲示に詳しいので、こちらと下記史料を参照してまとめてみます。
放生寺は寛永十八年(1641年)、威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡宮)の造営に尽力され、その別当寺として開創されました。
良昌上人は周防國の生まれで十九歳の年遁世して高野山に登り、寶性院の法印春山の弟子となり修行をとげられ、三十一歳の頃より諸國修行されて様々な奇特をあらわされたといいます。
寛永十六年(1639年)二月、陸奥国尾上八幡に参籠の夜、霊夢に老翁があらわれ「将軍家の若君が辛巳の年の夏頃御降誕あり、汝祈念せよ」と告げられました。
上人は直ちに堂宇に籠もり、無事御生誕の大願成就行を厳修されました。
寛永十八年(1641年)当地に止錫の折、御弓組の長松平新五左衛門尉源直次の組の者の請を受け、穴八幡宮の別当職に就かれました。
同年の八月三日、草庵を結ぶため山裾を切り闢くと霊窟があり(現在の穴八幡宮出現殿付近)、窟の中には金銅の下品上生阿彌陀如来が立たれていました。
この阿彌陀如来像は八幡宮の御本地で、良昌上人はこの尊像を手篤く奉安。
「穴八幡宮」の号はこの霊窟に由来といいます。
おりしも、この日に将軍家御令嗣・厳有公(竹千代君、4代将軍家綱公)の御誕生があったため、以前から「将軍家若君、辛巳の年の夏頃無事御降誕の行厳修」の譚を聞いていた人々は、その霊威を新たにしたとのことです。
良昌上人が霊夢でみられた「将軍家の若君」は家光公とする資料もありますが、霊夢は寛永十六年(1639年)、家光公の御生誕は慶長九年(1604年)ですから年代が合いません。
家光公嫡男の竹千代君(4代将軍家綱公)は寛永十八年(1641年)八月の御生誕で、この年は辛巳ですから、おそらく良昌上人は竹千代君御生誕の成就祈願行を2年前に厳修したことになります。
『江戸名所図会』にも、「厳有公 御誕生」と明記されています。
なお、穴八幡宮の公式Webによると、高田八幡(穴八幡宮)は「康平五年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した八幡太郎源義家公が凱旋の折、日本武尊命の先蹤に習ってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請」とあるので、良昌上人来所以前の創祀とみられます。
『江戸名所図会』には、寛永十三年(1636年)、御弓組の長松平新五左衛門尉源直次の与力の輩が、射術練習のためこの地に的山を築立てた際、弓箭の守護神である八幡神を勧請とあります。
以上から、八幡宮は良昌上人来所(寛永十八年(1641年))以前に当地に勧請されており、良昌上人は同年、霊窟から金銅の御神像(あるいは阿彌陀佛)を得て穴八幡宮と号したことなどでの貢献とみるべきでしょうか。
当地に古松があって山鳩が遊ぶ神木とされ、あるいは暗夜に瑞光を放つことから霊松ともされて、光松山の号はこの松に由来といいます。
慶安二年(1649年)、大猶院殿(徳川家光公)が御放鷹の折に穴八幡宮を訪れ、良昌上人より件の霊夢や大願成就の厳修について聞き及ぶと、「威盛院光松山放生會寺」の号を賜り、以降、別当・放生寺を御放鷹の御膳所とするなど篤く外護しました。
厳有院(4代将軍・家綱公)生誕の霊夢譚、そして家綱公生誕の当日に高田八幡の御本地・金銅阿彌陀佛の降臨とあっては、将軍家としてもなおざりにはできなかったと思われます。
歴代の徳川将軍家の尊崇は、『江戸名所図会』に穴八幡宮の什寶としてつぎのとおり記されていることからもうかがえます。
・台徳院(2代将軍・秀忠公) 御筆、御自賛の和歌
・大猶院(3代将軍・家光公) 賜物の扇子 一握
・常憲院(5代将軍・綱吉公) 御筆の福禄壽御画 一幅
元禄年間(1688-1704年)には宮居の造営あって結構を整えたといい、とくに元禄十六年(1703年)の造営は江戸権現造り社殿として壮麗を極めたといいます。
爾来、将軍家の尊崇篤く、徳川家代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格から独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)衣の着用を許されたとも。
穴八幡宮の祭礼の八月十五日には放生會で賑わいをみせたといい、現在の放生寺の放生会はその系譜にあるとみられます。
「放生會(ほうじょうえ)」とは、捕らえられた魚介、鳥、動物などを殺生せずに池、川や山林に放す法事で、養老四年(720年)宇佐八幡宮で行われた放生會が発祥ともされることから、八幡宮社・八幡社で多く催されます。
江戸期の放生寺は穴八幡宮別当としてその地位を固め、一帯は神仏習合の一大霊場として栄えたことは、『江戸名所図会』の挿絵からもうかがえます。
しかし、穴八幡宮とこれだけ強固な神仏習合関係を築きながら、明治初期の神仏分離で放生寺が廃されなかったのはある意味おどろきです。
そのカギはひょっとして別当寺と神宮寺の別にあるのかもしれません。
放生寺の公式Webに唐突ともいえるかたちで、以下の説明が記載されています。
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別当寺 べっとうじ
神宮寺の一種。神社境内に建てられ、別当が止住し、読経・祭祀・加持祈祷とともに神社の経営管理を行なった寺。
神宮寺 じんぐうじ
神社に付属して建てられた寺院。神仏習合思想の現れで、社僧(別当)が神社の祭祀を仏式で挙行した。1868年(明治1)の神仏分離令により廃絶または分離。宮寺。別当寺。神護寺。神宮院。神願寺。
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明治の神仏分離で廃絶されたのは「神宮寺」で、「別当寺」は神宮寺の一種ながら廃絶を免れたと読めなくもありません。
(別当寺の説明で「神仏習合」ということばを用いていない。)
神宮寺と別当寺の別は、わが国の神仏習合を語るうえで避けてとおれない重要な事柄ですが、すこぶるデリケートかつ複雑な内容を含むので、ここではこれ以上触れません。
ひとつ気になるのは、『御府内八十八ケ所道しるべ 』では放生寺の御本尊は阿弥陀如来(穴八幡宮の御本地)となっているのに、現在の御本尊は聖観世音菩薩(融通虫封観世音菩薩)であることです。
この点について、現地掲示には「代々の(放生寺)住職が社僧として寺社一山の法務を司っておりましたが、明治二年、当山十六世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し現今の地に本尊聖観世音菩薩が遷されました。」とあります。
放生寺は明治二年に現在地に伽藍を遷し、そのときに聖観世音菩薩を御本尊とされたのでは。
以前の御本尊?の阿弥陀如来は、江戸時代に九品仏霊場第7番(下品上生)に定められた著名な阿弥陀様です。
(九品仏霊場の札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様))
一方、放生寺は江戸期から複数の観音霊場の札所で、観音様(おそらく融通虫封観世音菩薩)の信仰の場でもありました。
あるいは八幡宮との習合関係のうすい聖観世音菩薩を御本尊とすることで、神宮寺の性格(御本地が御本尊)をよわめたのかもしれません。
ともあれ御府内霊場第30番札所の放生寺は、明治初期の廃仏毀釈の波を乗り切って存続しました。
現在も高野山真言宗準別格本山の高い格式を保ち、複数の霊場札所を兼務されて多くの参拝客を迎えています。
放生寺と穴八幡宮は現在はそれぞれ独立した寺社ですが、いずれも「一陽来福」「一陽来復」ゆかりの寺社として知られています。
「一陽来福」(「一陽来復」)とは冬至をあらわす中国の易経の言葉で、「陰極まって一陽を生ずる」の意とされます。
「一陽と共に福もかえり来る」、来る年も福がまた訪れますように、との祈念を込めて参詣し、「一陽来福」(「一陽来復」)のお札をいただいて、冬至、大晦日、節分の深夜に恵方(「明の方」、歳徳神のおわす方角)に向けて貼るといいます。
放生寺の「一陽来福」は、御本尊・聖観世音菩薩ゆかりの「観音経の結びの「福聚海無量」=福聚(あつ)むること海の如く無量なり と言う偈文より「福」の字を取り「一陽来福」と名付けられました。」とのこと。(当山Webより)
御本尊・聖観世音菩薩は古来より融通・虫封観世音と呼ばれ、「融通=滞りなく通じる」から商家はもとより円満な人間関係(融通円満)の祈願本尊として信仰を集めており、冬至、大晦日、節分には「一陽来福」「融通」「虫封」を祈念する参詣者でことに賑わいをみせます。
一方、穴八幡宮の「一陽来復」は公式Webによると「福神(打出小槌)」に由来するものです。
『新編武蔵風土記稿』には、聖武天皇の御代に公家の水無瀬家の息女が感得されたもので、祈願の趣を掌に書き、この小槌でその掌を打てば所願成就とあります。
穴八幡宮公式Webには「公家の水無瀬家が山城国国宝寺より感得したものを当社に納めたもので、聖武天皇が養老七年の冬至の日に龍神により授けられた宝器」とあります。
穴八幡宮の「一陽来復御守」は江戸中期から冬至の福神祭に授与された歴史あるもので、「金銀融通の御守」とも呼ばれて、授与時には多くの参詣客で賑わいます。
なお、穴八幡宮の御朱印は「一陽来復」が揮毫される貴重なものですが、冬至から節分にかけては授与されておりません。
【写真 上(左)】 穴八幡宮の社頭
【写真 下(右)】 穴八幡宮の御朱印
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【史料】 ※なぜか『寺社書上』『御府内寺社備考』には記載がありません。
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十番
高田穴八まん
光松山 威盛院 放生會寺
高野山宝性院末 古義
本尊:阿弥陀如来 本社八幡宮 弘法大師
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(下戸塚村(穴)八幡社)別当放生會寺
古義真言宗、高野山寶性院末、光松山威盛院ト号ス 本尊不動を安ス 開山良昌ハ周防國ノ産ニテ 俗称ハ榎本氏 高野山寶性院青山ニ投ジテ薙染シ 諸國ヲ経歴シテ 寛永十六年(1616年)陸奥國尾上八幡ニ参籠ノ夜 将軍家若君辛巳年夏ノ頃御降誕アルヘキ由霊夢ヲ得タリ 其後当國ニ来リ シルヘノ僧室ニ暫ク錫ヲ止メシニ 同十八年(1618年)松平新五左衛門カ組ノ者ノ請ニ任セ当社((穴)八幡社)ノ別当職トナレリ 此年(寛永十八年(1641年))厳有院殿御降誕マシ々々 カノ霊堂ニ符合セリ 此事イツトナク上聞くニ達セシカハ 大猶院殿御放鷹ノ時当山ニ御立寄アリテ 良昌ヲ召サセラレ社ノ由緒ヲ聞シメサレ 光松山放生會寺ノ号ヲ賜ハレリト云 是ヨリ以来此邊御遊猟ノ時ハ 当寺ヲ御膳所ニ命セラレテ今ニ然リ
什寶
柳ニ竹ノ御書一幅 台徳院殿ノ御筆ト云 御自賛ノ和歌アリ
柳チル カタ岡ノヘノ秋風ニ 一ツフタツノ家ニカクルヽ
扇子一握 大猶院殿ノ賜物ニテ開山良昌拝領す、便面ス便面ニ御筆ノ詩歌アリ
飛鳥去邊山侶眉 空低水潤影遅遅 上林雖好非栖處 一任千枝與萬枝
雁カヘル常世ノ花ノイカナレヤ 月ハイヅクモ霞ム春ノヨ
福禄壽御画一幅 常憲院殿ノ御筆ナリ 落款ニ御諱アリ
楊柳観音画像一幅
百體大黒天画像一幅
(略)
不動愛染ノ画像各幅 弘法大師筆
心経一巻 同筆。
十六善神画像一幅
(略)
打出小槌 由来記一巻アリ其略ニ
此槌●紳家水無瀬家ノ女感得セシ所也 昔聖武天皇ノ此ノ如キ寶物ヲ山城國●原ノ一宇ニ御寄納アリシカハ 彼寺ヲ寶寺ト号ス 信心ノ男女祈願ノ意趣ヲ掌ニ書シテ 此槌モテソノ掌ヲ打テハ所願成就スト云
(略)
寺中 松済院 光済院 是ハ廃院トナリテ末再建ニ及ハス
■ 『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)〔要旨抜粋〕
高田八幡宮 穴八幡
牛込の総鎮守 別当は真言宗光松山 放生會寺
祭礼は八月十五日にて、放生會あり
寛永十三年(1636年)御弓組の長松平新五左衛門尉源直次に与力の輩、射術練習の為、其地に的山を築立てらる。
八幡宮は源家の宗廟にして而も弓箭の守護神なればとて、此地に勧請せん事を謀る。
此山に素より古松二株あり。其頃山鳩来つて、日々に此松の枝上に遊ぶを以て、霊瑞とし、仮に八幡大神の小祠を営みて、件の松樹を神木とす。此地昔は阿彌陀山と呼び来りしとなり。
(略)
寛永十八年(1641年)の夏、中野寶仙寺秀雄法印の會下に、威盛院良昌といえる沙門あり。周防國の産にして、山口八幡の氏人なり。十九歳の年遁世して、高野山に登り、寶性院の法印春山の弟子となり、一紀の行法をとげて、三十一の時より、諸國修行の志をおこし、其聞さまざまの奇特をあらはせりといふ。依てこの沙門を迎へて、社僧たらしむ。
同年の秋八月三日、草庵を結ばんとして、山の腰を切り闢く時に、ひとつの霊窟を得たり。
その窟の中石上に、金銅の阿彌陀の霊像一軀たたせ給へり。八幡宮の本地にて、しかも山の号に相応するを以て奇なりとす。穴八幡の号ここに起れり。又此日将軍御令嗣 厳有公 御誕生ありしかば、衆益ますその霊威をしる。
其後元禄年間(1688-1704年)、今の如く宮居を御造営ありて、結構備れり。
若宮八幡宮 本社の前右
東照大権現 同所
氷室大明神 本社に相対す
光松 別当寺と本社との間、坂の支路にあり。暗夜には折として瑞光を現ず。
放生池 本社の左
出現所 坂の半腹、絶壁にそひてあり 往古の霊窟の舊址なり。近頃迄其地に出現堂となづけて、九品佛の中、下品上生の阿彌陀如来の像を安置せし堂宇ありしが。今は見えず。
そもそも当社の別当寺を光松山と号くるも、神木の奇特によそへてなり。
「放生會寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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放生寺は高田・西早稲田方面から東に向かって早稲田の低地に突き出す台地の突端に、穴八幡宮と並ぶようにしてあります。
江戸期は低地から仰ぎ見る台地の寺社として、ことにランドマーク的な偉容を誇ったと思われます。
東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩2分と交通至便です。
周辺には絵御朱印(御首題)で有名な法輪寺、豊島八十八ヶ所霊場第3番の龍泉院、御府内霊場第52番の観音寺、早稲田大学合格祈願で知られる宝泉寺、そして穴八幡宮など都内有数の御朱印エリアとなっています。
放生寺はその縁起・沿革から穴八幡宮とのゆかりがふかいので、一部穴八幡宮の社殿等も併せてご紹介します。
早稲田通り、諏訪通り、早大南門通りが交差する「馬場下町」交差点。
早稲田大学のキャンパスに近く活気ある街なかに、穴八幡宮の朱色の明神鳥居と背後の流鏑馬の銅像が存在感を放っています。
この流鏑馬造は、享保十三年(1726年)、徳川8代将軍吉宗公が御世嗣の疱瘡平癒祈願の為に催した流鏑馬を起源とする「高田馬場の流鏑馬」が、昭和9年皇太子殿下御誕生奉祝のため、穴八幡宮境内にて再興されたことに因むものです。(現在は戸山公園内で開催)
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 参道
放生寺の参道は、ここから左手の諏訪通りに入ってすぐのところにあります。
おのおの入口はことなりますが、両社寺の敷地は重なるように隣接しています。
諏訪通りから伸びる急な登り参道で、放生寺が台地の山裾に位置していることがわかります。
山内は南西向きで明るい雰囲気。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 札所標
参道のぼり口に寺号標と「一陽来福の寺」の碑、そして御府内霊場、江戸三十三観音霊場の札所標。
参道途中には「光松山 観世音菩薩 虫封霊場 放生寺」の碑もあります。
【写真 上(左)】 虫封の碑
【写真 下(右)】 寺務所
参道右手上方の朱塗りの建物はおそらく穴八幡宮の出現殿(平成18年再建)で、往年の神仏習合のたたずまいを彷彿とさせます。
坂の正面に見えるのは唐破風軒の寺務所(客殿?)、その手前に本堂。
山内入口手前左手に手水舎と、その奥にある朱塗りの堂宇は神変大菩薩のお堂です。
神変大菩薩(役の行者)は、主に修験系寺院や神仏習合の色あいの強い寺院で祀られます。
当尊のご縁起は定かでないですが、かつての神仏習合の流れを汲む尊格かもしれません。
【写真 上(左)】 神変大菩薩堂
【写真 下(右)】 本堂
階段のうえにおそらく入母屋造瓦葺流れ向拝の本堂。
朱塗りの身舎に五色の向拝幕を巡らせて、観音霊場らしい華々しい雰囲気。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 大提灯
おそらくコンクリート造の近代建築ながら、向拝まわりは水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板蟇股など伝統的な寺社建築の特徴を備えています。
向拝見上げに「聖観世音」と徳川家ゆかりの葵紋を掲げた大提灯。
さらにその奥に「聖観自在尊」の扁額。
【写真 上(左)】 扁額と葵紋
【写真 下(右)】 修行大師像
身舎柱には御府内霊場・観音札所の札所板と「高野山真言宗準別格本山」を示す寺号板が掲げられています。
向拝左右は授与所となっていて、こちらで御朱印をいただいたこともあれば、寺務所で拝受したこともあります。
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 寺号板
本堂向かって左には端正な修行大師像が御座します。
本堂向かって右には放生供養碑と馬頭観世音菩薩立像。
整った像容で、忿怒尊である馬頭尊の特徴がよく出ています。
掲示によると、馬頭尊は畜生道を救うことから、放生会を厳修する当山でお祀りされているそうです。
【写真 上(左)】 放生供養碑と馬頭観世音菩薩
【写真 下(右)】 御府内霊場札所標
このあたりからは、上方に穴八幡宮の鼓楼(以前は鐘楼)がよく見えます。
鼓楼は平成27年の再建。名刹の山門を思わせる楼門の建立は平成10年。
穴八幡宮が次第にかつての神仏習合の姿を取り戻しているかのようです。
とくにある意味「本地堂」ともいえる「出現殿」を再建されるとは、往時の姿の復興に対する明確な意思が感じられます。
「放生會寺」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第2,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
また、『江戸名所図会』と見比べてみると、出現殿といい、鼓楼といい、往時に忠実に場所を選んで再建されていることがわかります。
関東の八幡宮の神仏習合例として、明治初頭までは鎌倉・鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)が代表格でしたが、廃仏毀釈で多くの伽藍堂宇を失い神宮寺も現存していません。
なので、穴八幡宮と放生寺が現存している(というか復興が進む)この界隈は、往年の八幡宮の神仏習合の姿を味わえる貴重な空間だと思います。
御朱印は寺務所ないし本堂内で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「聖観世音」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の揮毫と三寶印。
右上に「弘法大師御府内三十番」の札所印。左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 江戸三十三観音札所の御朱印
※御本尊御影印の御朱印も授与されている模様です。
■ 第31番 照林山 吉祥寺 多聞院
(たもんいん)
新宿区弁天町100
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第31番、大東京百観音霊場第60番、秩父写山の手三十四観音霊場第26番
司元別当:
授与所:庫裡
新宿区弁天町にある真言宗豊山派で、烏山の多聞院(第3番札所)との区別の意味合いもあって、牛込多聞院と呼ばれます。
第31番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに多聞院なので、御府内霊場開創時から一貫して多聞院であったとみられます。
縁起・沿革について、下記史料、現地掲示、「ルートガイド」を参照に追ってみます。
多聞院は天正年間(1573-1592年)に平河口(現在の千代田区平河町)に起立し、慶長十二年(1607年)江戸城造営のため牛込門外外濠通りに移転、寛永十二年(1635年)、境内がお堀用地となったため現在地の辨天町に移転したといいます。
法流開山は覺祐上人(天正年中(1573-1592年)遷化)、中興開山は覺彦律師と伝わります。
※現地掲示には、寛永年間(1624-1629年)に法印覚賢により開創とあります。
『寺社書上』、『御府内寺社備考』ともに、御本尊は三身毘沙門天となっていますが、『御府内八十八ケ所道しるべ天』には本尊:大日如来 三身毘沙門天王 弘法大師とあります。
弘法大師はもとより、本堂御本尊の三身毘沙門天王、位牌堂御本尊の金剛界大日如来が拝所となっていた可能性があります。
『寺社書上』には、御本尊尊三身毘沙門天王は「楠正成之守本尊」とありますが、詳細については不明。
現在の御本尊は大日如来ですが、院号に多聞院とあるとおり、毘沙門天とゆかりのふかい寺院と思われます。
「多聞院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十一番
牛込七軒寺町門前町あり
照林山 吉祥寺 多聞院
西新井村惣持寺末 新義
本尊:大日如来 三身毘沙門天王 弘法大師
■ 『寺社書上 [33] 牛込寺社書上 六』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.122』
武州足立郡西新井村 惣持寺末
牛込七軒寺町
林山 吉祥寺 多聞院
新義真言宗
開山不分名
法流開山 覺祐上人 遷化年代●不詳
中興開山(寛永年中) 覚彦律師● 湯島霊雲寺開山
本堂
本尊 三身毘沙門天 大黒毘沙門 弁財天之三身一体之木像
●教大師之作 楠正成之守本尊 楠正成之末孫に沙門●●と申者当寺●●来案す●る事
唐●双身毘沙門天立像 弘法大師作
聖天堂
●金観喜天王立像
唐金地蔵尊
稲荷大明神
天満宮社
位牌堂
本尊 金剛界大日如来木立像 運●作
毘沙門天画像 弘法大師筆
(付記)
開山ハ覚●法印といふ 寛永十六年七月寂
■ 『牛込区史』(国立国会図書館)
昭林山吉祥寺多聞院
新井總持寺末
年代不詳、平河口に起立、慶長十二年(1607年)牛込門外外濠通りに移転、寛永十二年(1635年)辨天町に移つた。法流開山覺祐上人、天正年中(1573-1592年)遷化。中興開山覺彦律師。舊境内拝領地千九百廿五坪。
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外苑東通り(都道319号)は、江戸川橋そばの鶴巻町から弁天町~牛込柳町と南下して青山、六本木を経て麻布台に至ります。
弁天町~牛込柳町あたりは南北の谷筋を走り、とくに東側は坂が多くみられます。
『江戸切絵図』と現代の地図を見比べてみると、かつての七軒寺町の通りがほぼ現在の外苑東通りとなっていることがわかります。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』市ヶ谷牛込絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
最寄りは都営大江戸線「牛込柳町」駅。徒歩5分ほどです。
「牛込柳町」周辺は、日蓮宗江戸十大祖師の幸國寺、新宿山之手七福神の経王寺、曹洞宗の法身寺、顕本法華宗の常楽寺、日蓮宗の瑞光寺など、多彩な宗派の御朱印・御首題が拝受できるエリアとなっています。
多聞院のお隣の浄輪寺には江戸時代の和算家で算聖とあがめられた関孝和の墓があり、御首題も授与されています。
【写真 上(左)】 参道入口(工事中)
【写真 下(右)】 山院号表札
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 鐘楼
多聞院の入口は外苑東通りに面し、やはり坂道の参道となっています。
入口にはコンクリ造の山門がありその上部の鐘楼もスクエアなコンクリ造でモダンなイメージ。
左手には真新しい「牛込四恩の杜」(公園墓地?)があり、よく整備された印象です。
【写真 上(左)】 整備された山内
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
少し参道をのぼると、いきなり寺院づくりの本堂があらわれます。
本堂向かって左手の庫裡もモダンなイメージですが、本堂まわりだけは伝統的な寺院のイメージを保ち、独特のコントラスト。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝と整った意匠で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股を備え、向拝見上げに山号扁額を掲げています。
勢いのある降り棟と留蓋上の獅子飾りがいい味を出しています。
【写真 上(左)】 正等大阿闍梨供養塔
【写真 下(右)】 御府内霊場開創記念碑
山内には、御府内霊場の開基とも伝わる正等和尚の墓?(供養塔)、御府内霊場開創記念碑があります。
供養塔には「御府内八十八ヶ所開基 (通種子・ア)正等大阿闍梨百五十年供養塔 大正十二年六月十二日 大僧正●●●」とあります。
また、別の碑(祈念碑?)には「(梵字)府内八十八霊場開創」とあります。
【写真 上(左)】 吉川湊一の墓
【写真 下(右)】 庫裡
平家琵琶の奥義を極め、検校にまで昇進した吉川湊一(1748-1829年)、大正時代の女優・松井須麿子、大正時代の詩人・生田春月の墓所もあります。
御朱印は本堂向かって左のモダンな庫裡で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三十一番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています
■ 第32番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺
(えんまんじ)
文京区湯島1-6-2
真言宗御室派
御本尊:不動明王・十一面観世音菩薩
札所本尊:不動明王・十一面観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第32番、弘法大師二十一ヶ寺第1番、御府内二十八不動霊場第25番、江戸坂東三十三ヶ所観音霊場第1番、弁財天百社参り番外27
司元別当:
授与所:ビル内寺務所
第32番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに圓満寺なので、御府内霊場開創時から一貫して湯島の圓満寺であったとみられます。
下記史料を参照して縁起・沿革を追ってみます。
圓満寺は、寶永七年(1710年)、木食覺海義高上人が湯島の地に梵刹を建て、萬昌山圓満寺と号したのが開山といいます。
開山の「木食義高」に因んで「木食寺」とも呼ばれます。
義高上人は、足利13代将軍義輝公の孫義辰の子とも(義輝公の孫とも)伝わります。
幼くして出家、日向國佐土原の福禅寺に入り木食となりました。
寛文八年(1668年)から東国に下り各地に堂宇を建立、大いに奇特をあらわされて伝燈大阿闍梨権僧都法印に任ぜられました。
元禄四年(1691年)江戸に赴かれ本郷三組町に住むと、常憲公(5代将軍徳川綱吉公)や浄光院殿(綱吉公の正室・鷹司信子)の帰依を受け御祈祷を申しつけられています。
文昭公(6代将軍家宣公)の帰依も受け、家宣公は上人を以て当寺の(公的な?)開山とされたとのこと。
当山は開創時から真言宗御室派(当時は仁和寺御室御所)と所縁があったとみられます。
義高上人と御室御所について、『江戸名所図会』に「延寶七年(1679年)御室宮へ参るに、高野山光臺院の住持職に任ぜらる。」とあります。
「御室宮」はおそらく「仁和寺御室御所」で、上人は「御室御所」に参内された後、高野山光臺院の住持職に任ぜられています。
高野山光臺院は現存し、その公式Webには「当院は白河天皇の第四皇子覚法親王の開基で(約900年前)以来27代にわたり法親王方が参籠されている。それによって当院は「高野御室」と称され、非常に由緒ある名刹」とあります。
さらに「御室御所」についてたどってみます。
仁和寺の公式Webには「仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。」「宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。」とあります。
高野山光臺院は高野山内の門跡寺院で、その由緒から仁和寺御室御所と関係があり「高野御室」と称されていたのでは。
義高上人は仁和寺御室御所に参内してその才を認められ、時をおかずに御室御所所縁の高野山光臺院の住持職に任ぜらたのではないでしょうか。
むろん氏素性の明らかでない者が門跡寺院に参内できる筈はなく、おそらく義高上人が足利13代将軍義輝公の曽孫(ないし孫)という出自が効いたものと思われます。
中世の東密(真言宗)は小野六流・広沢六流の十二流に分化し、そこからさらに法脈を広げたといいます。
このうち広沢流の中心となったのが仁和寺御室御所です。
いささか長くなりますが、その経緯について『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)を参照してたどってみます。
第52代嵯峨天皇は弘法大師空海の理解者で、東寺を賜った帝として知られています。
第59代の宇多天皇も仏教、ことに密教への帰依篤く、寛平九年(897年)の突然の譲位は、仏道に専心するためという説があるほどです。
宇多天皇は東寺長者の益信僧正(本覚大師)に帰依されたといいます。
益信僧正は弘法大師空海から第4世の直系で、東密広沢流の祖とされる高僧です。
昌泰二年(899年)、33歳の宇多上皇が仁和寺で出家する際に、益信僧正は受戒の師となり寛平法皇(法号は空理)と号されました。
延喜元年(901年)12月、益信僧正は東寺灌頂院にて法皇に伝法灌頂を授け継承者とされたといいます。
延喜四年(904年)、法皇は仁和寺に「御室御所」を構えられ、以降、仁和寺は東密の門跡寺院として寺勢大いに振いました。
法皇の弟子の寛空は嵯峨の大覚寺に入られ、寛空の弟子の寛朝は広沢に遍照寺を開かれました。
この寛平法皇(宇多天皇)所縁の法流が、後に「広沢流」と呼ばれることとなります。
一方、醍醐寺を開かれた聖宝(理源大師)ないしその弟子筋の仁海(小野僧正)も法流を興され、こちらは「小野流」と呼ばれます。
洛東の小野、洛西の広沢は東密の二大潮流となり、さらに分化していきました。
広沢流:仁和御流、西院流、保寿院流、華蔵院流、忍辱山流、伝法院流の六流
小野流:勧修寺(小野)三流(安祥寺流、勧修寺流、随心院流)
醍醐三流(三宝院流、理性院流、金剛王院流)の六流
これらを総じて「野沢(やたく)十二流」といいます。
広沢流と小野流の違いについては、
・広沢流は儀軌を重視、小野流は口伝口訣を重視
・広沢流は「初胎後金」、小野流は「初金後胎」(両部灌頂を行うときに胎蔵界、金剛界いずれを先にするかの流儀)
などが論じられるようです。
東密が分化したのは事相(修法の作法など)の研究が進んだため、というほど修法の存在は大きく、たとえば雨乞いの修法を修するときに
・広沢流は孔雀経法、小野流は請雨経法
という説もみられたようです。
『呪術宗教の世界』では、例外もみられるとして修法における差異については慎重に扱われていますが、それだけ東密に対する「秘法」の要請が強かったとしています。
(「他の流派にない霊験ある秘法を相承することで、貴族たちの呪術的欲求にこたえ、流派独自の秘法として主張喧伝された。」(同書より抜粋引用))
話が長くなりました。
ともあれ、仁和御流は高い格式をもつ門跡寺院・仁和寺を中心に東密「広沢流」の中核をなしました。
なお、Wikipediaには「仁和寺の仁和御流(真言宗御室派)」と記され、仁和御流が真言宗御室派に承継されていることを示唆しています。
仁和御流(真言宗御室派)は西日本中心の流派で、現在の総本山は仁和寺(京都市右京区)、大本山は金剛寺(大阪府河内長野市)と大聖院(広島県廿日市市)、準大本山は屋島寺(香川県高松市)です。
別格本山もほとんどが西日本で、これは仁和寺は江戸時代末期まで法親王(皇族)を迎えた門跡寺院で、京の皇室との所縁が深いということがあるのでは。
しかし、江戸時代の江戸にも仁和寺末を名乗る寺院はいくつかありました。
そのひとつが湯島の圓満寺です。
寶永七年(1710年)、義高上人が湯島の地に圓満寺を開山された以前に、上人は「御室御所」と所縁をもち、おそらく「御室御所」から高野山光臺院(「高野御室」)の住持職を託されています。
その義高上人が江戸に開山された圓満寺が「京仁和寺末」となるのは、自然な流れかと思われます。
(『御府内寺社備考』に「御室御所より院室御影●之節 圓満寺の寺号(以下不詳)」とあり。)
御府内霊場では当山のほか、第41番密蔵院が真言宗御室派です。
義高上人は日暮里の補陀落山 養福寺(豊島霊場第73番ほか)を中興開山と伝わりますが、養福寺は真言宗豊山派(新義真言宗)となっています。
Wikipediaによると、明治初期の火災で伽藍を焼失し、明治20年に相模の大山寺の協力の下で再建されたものの関東大震災、東京大空襲で焼失しています。
昭和38年木造の本堂が再建、昭和53年にはRC造の「おむろビル」に改築され、ビル内の寺院となっています。
なお、Wikipediaには「御室派総本山仁和寺の東京事務所」とあり、おむろビルの袖看板にも「総本山 仁和寺 東京事務所」とあります。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
三十二番
ゆしま四丁目
萬昌山 金剛幢院 圓満寺
御直末
本尊:十一面観世音菩薩 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.2』
本寺 御室御所仁和寺宮 (御室御所院室)
湯島 不唱小名
萬昌山 金剛幢院 圓満寺
開山 開山木食覺海義高僧正者 将軍光源院(足利)義輝公の御子
本堂
本尊 七観音尊木立像 紀伊殿●御寄附
十一面観世音尊 秘佛 如意法尼内親王之御作
歓喜天尊 秘佛
多聞天木立像 開山義高僧正作
両部大日如来木座像
不空羅索尊木座像
千手観音尊木座像
薬師如来木座像 日光月光立像 十二神将立像
愛染明王木座像
孔雀明王尊影
五大虚空蔵尊影
常倶梨天尊影
位牌所
地蔵菩薩木立像(ほか)
鐘楼堂
阿弥陀如来天竺佛座像 等持院殿守本尊
当寺開山義高権僧正御影
弘法大師●筆 楷書心経巻物
六観音 弘法大師之作
辨財天木座像 弘法大師之作
胎蔵界大日如来木座像 弘法大師之作
御香宮明神木像
三尊来迎
天満宮渡唐神像
十六善神
地蔵尊 二童子有
刀八毘沙門天神像 尊氏公軍中守本尊
大師目引之尊影 真如親王之御筆 高野山御影堂に有し●
十六羅漢御影
阿育王塔石
多寶塔
護摩堂
不動明王 二童子附 秘封 弘法大師作
前立五大尊明王
閻魔天木座像
金佛地蔵尊座像
秋葉社
鐘楼堂
辨財天社
辨財天女木立像
稲荷大明神 秘封
大黒天木立像
恵比須神木座像
千手観音木座像
青面金剛木立像
地蔵堂 石地蔵尊立像
七観音堂 本堂の左にあり
十一面観音
■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)〔要旨抜粋〕
萬昌山圓満寺
湯島六丁目にあり。真言宗にして、開山は木食義高上人なり。本尊十一面観世音、如意法尼の御作なり。法尼は淳和帝の妃にして弘法大師の御弟子なり。左右に六観音を安置す。当寺を世に木食寺と称す。
寺伝に曰く、開山木食義高上人は覺海と号す。足利十三代将軍義輝公の孫義辰の息なり。
日向國に産る。幼より瑞相あるに仍て出家し、肥後國(日向國?)佐土原の福禅寺に入りて、覺深師に随従し、木食となれり。寛文八年(1668年)、衆生化益のために東奥に下り、あまねく霊地を拝しこゝかしこに堂宇を建立す。(略)伝燈大阿闍梨権僧都法印に任ぜらる。其後西國に赴くの頃も、大に奇特を顕す。延寶三年(1675年)都に上り堀河姉小路多聞寺に止宿(略)延宝五年(1677年)江城湯島の地に至り、大に霊験をあらはす。延寶七年(1679年)御室宮へ参るに、高野山光臺院の住持職に任ぜらる。元禄四年(1691年)志願によって光臺院を辞して江戸に赴き、本郷三組町に住せらる。常憲公(5代将軍徳川綱吉公)および浄光院殿(綱吉公の正室・鷹司信子)、須山女を以て御祈祷を仰附けらる。寶永六年(1709年)上京(略)寶永七年(1710年)江戸湯島の地に梵刹を建てゝ、萬昌山圓満寺と号す。文昭公(6代将軍家宣公)の御志願に仍て、則ち上人を以て当寺の開山とす。
「圓満寺」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
「圓満寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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JR・メトロ丸ノ内線「お茶ノ水」駅から徒歩約5分、オフィス街に建つ「おむろビル」のなかにあります。
現在、土祝日はビルのセキュリティの関係上入館不可につき平日のみ参拝可のようです。
ごくふつうのオフィスビルのエントランスですが、袖看板に「圓満寺」とあり、かろうじて館内に寺院があることがわかります。
【写真 上(左)】 おむろビル全景
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 寺号の袖看板
【写真 下(右)】 行事予定
貼り出されていた行事予定によると、不動護摩祈祷や写経会が開催されているようです。
【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 8階エレベーターホールの「授与所」
受付は8階、本堂は9階でエレベーターでのぼりますが、通常9階は不停止となっているようです。
8階にどなたかおられるときは、申し入れれば本堂参拝可能な模様ですが、筆者参拝時(2回)はいずれもご不在で、8階からの遙拝となりました。
8階にはエレベーターホールに書置御朱印が置かれているので、ここから遙拝しました。
上層階の御本尊に向かって、階下のエレベーターホールからの参拝ははじめてで、不思議な感じですが、これはこれで「都心のお遍路」ならではの雰囲気は味わえるかと思います。
史料によると、当山は数多くの尊像を奉安されていたようですが、そのお像は現在本堂に安置されているのでしょうか。
『寺社書上』(文政年間(1818-1831年))では、御本尊は七観音木像。
『御府内寺社備考』(同)では本堂本尊は七観音木像、十一面観世音(秘佛、如意法尼内親王御作)。
『江戸名所図会』(天保年間(1831-1845年))では、御本尊は十一面観世音(如意法尼の御作)。
『御府内八十八ケ所道しるべ』(幕末-明治)では、札所本尊は十一面観世音菩薩、不動明王、弘法大師とあります。
さらにWikipediaには「明治初期の火災までは、以下の寺宝があった。 七観音(旧本尊)」とあります。
また『御府内寺社備考』には「七観音堂 本堂の左にあり 十一面観音」「護摩堂 不動明王 二童子付秘封 弘法大師作」とあります。
以上から、江戸時代の御本尊は七観音木像、ないし十一面観世音(如意法尼内親王御作)とみられます。
七観音木像は明治初期の火災で焼失?し、御本尊は十一面観世音菩薩(如意法尼内親王御作)となり、明治20年に「関東三大不動」で不動尊とのゆかり深い相模・大山寺の協力で再建された際に、十一面観世音菩薩・不動明王の両尊御本尊となったのでは。
こちらの不動明王は、護摩堂本尊の不動明王(弘法大師御作)、ないしは大山寺から奉安された尊像と考えられます。
明治初期来、数度の火災に遭い古文書など焼失されているようなので詳細は不明です。
御朱印は8階エレベーターホールに置かれていたものを拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(規定用紙貼付)
中央に「本尊不動明王」「十一面観世音菩薩」「弘法大師」の印判と十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の印判と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第三十二番」の札所印。山号の印判と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-11)
【 BGM 】
■ 名もない花 - 遥海
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
■ Parade - FictionJunction
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第30番 光松山 威盛院 放生寺
(ほうじょうじ)
公式Web
新宿区西早稲田2-1-14
高野山真言宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第30番、江戸三十三観音札所第15番、大東京百観音霊場第19番、山の手三十三観音霊場第16番、九品仏霊場第7番
司元別当:高田穴八幡宮
授与所:寺務所ないし本堂内
第30番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ 』、江戸八十八ヶ所霊場ともに放生寺なので、御府内霊場開創時から一貫して早稲田の放生寺であったとみられます。
縁起・沿革は公式Web、現地掲示に詳しいので、こちらと下記史料を参照してまとめてみます。
放生寺は寛永十八年(1641年)、威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡宮)の造営に尽力され、その別当寺として開創されました。
良昌上人は周防國の生まれで十九歳の年遁世して高野山に登り、寶性院の法印春山の弟子となり修行をとげられ、三十一歳の頃より諸國修行されて様々な奇特をあらわされたといいます。
寛永十六年(1639年)二月、陸奥国尾上八幡に参籠の夜、霊夢に老翁があらわれ「将軍家の若君が辛巳の年の夏頃御降誕あり、汝祈念せよ」と告げられました。
上人は直ちに堂宇に籠もり、無事御生誕の大願成就行を厳修されました。
寛永十八年(1641年)当地に止錫の折、御弓組の長松平新五左衛門尉源直次の組の者の請を受け、穴八幡宮の別当職に就かれました。
同年の八月三日、草庵を結ぶため山裾を切り闢くと霊窟があり(現在の穴八幡宮出現殿付近)、窟の中には金銅の下品上生阿彌陀如来が立たれていました。
この阿彌陀如来像は八幡宮の御本地で、良昌上人はこの尊像を手篤く奉安。
「穴八幡宮」の号はこの霊窟に由来といいます。
おりしも、この日に将軍家御令嗣・厳有公(竹千代君、4代将軍家綱公)の御誕生があったため、以前から「将軍家若君、辛巳の年の夏頃無事御降誕の行厳修」の譚を聞いていた人々は、その霊威を新たにしたとのことです。
良昌上人が霊夢でみられた「将軍家の若君」は家光公とする資料もありますが、霊夢は寛永十六年(1639年)、家光公の御生誕は慶長九年(1604年)ですから年代が合いません。
家光公嫡男の竹千代君(4代将軍家綱公)は寛永十八年(1641年)八月の御生誕で、この年は辛巳ですから、おそらく良昌上人は竹千代君御生誕の成就祈願行を2年前に厳修したことになります。
『江戸名所図会』にも、「厳有公 御誕生」と明記されています。
なお、穴八幡宮の公式Webによると、高田八幡(穴八幡宮)は「康平五年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した八幡太郎源義家公が凱旋の折、日本武尊命の先蹤に習ってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請」とあるので、良昌上人来所以前の創祀とみられます。
『江戸名所図会』には、寛永十三年(1636年)、御弓組の長松平新五左衛門尉源直次の与力の輩が、射術練習のためこの地に的山を築立てた際、弓箭の守護神である八幡神を勧請とあります。
以上から、八幡宮は良昌上人来所(寛永十八年(1641年))以前に当地に勧請されており、良昌上人は同年、霊窟から金銅の御神像(あるいは阿彌陀佛)を得て穴八幡宮と号したことなどでの貢献とみるべきでしょうか。
当地に古松があって山鳩が遊ぶ神木とされ、あるいは暗夜に瑞光を放つことから霊松ともされて、光松山の号はこの松に由来といいます。
慶安二年(1649年)、大猶院殿(徳川家光公)が御放鷹の折に穴八幡宮を訪れ、良昌上人より件の霊夢や大願成就の厳修について聞き及ぶと、「威盛院光松山放生會寺」の号を賜り、以降、別当・放生寺を御放鷹の御膳所とするなど篤く外護しました。
厳有院(4代将軍・家綱公)生誕の霊夢譚、そして家綱公生誕の当日に高田八幡の御本地・金銅阿彌陀佛の降臨とあっては、将軍家としてもなおざりにはできなかったと思われます。
歴代の徳川将軍家の尊崇は、『江戸名所図会』に穴八幡宮の什寶としてつぎのとおり記されていることからもうかがえます。
・台徳院(2代将軍・秀忠公) 御筆、御自賛の和歌
・大猶院(3代将軍・家光公) 賜物の扇子 一握
・常憲院(5代将軍・綱吉公) 御筆の福禄壽御画 一幅
元禄年間(1688-1704年)には宮居の造営あって結構を整えたといい、とくに元禄十六年(1703年)の造営は江戸権現造り社殿として壮麗を極めたといいます。
爾来、将軍家の尊崇篤く、徳川家代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格から独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)衣の着用を許されたとも。
穴八幡宮の祭礼の八月十五日には放生會で賑わいをみせたといい、現在の放生寺の放生会はその系譜にあるとみられます。
「放生會(ほうじょうえ)」とは、捕らえられた魚介、鳥、動物などを殺生せずに池、川や山林に放す法事で、養老四年(720年)宇佐八幡宮で行われた放生會が発祥ともされることから、八幡宮社・八幡社で多く催されます。
江戸期の放生寺は穴八幡宮別当としてその地位を固め、一帯は神仏習合の一大霊場として栄えたことは、『江戸名所図会』の挿絵からもうかがえます。
しかし、穴八幡宮とこれだけ強固な神仏習合関係を築きながら、明治初期の神仏分離で放生寺が廃されなかったのはある意味おどろきです。
そのカギはひょっとして別当寺と神宮寺の別にあるのかもしれません。
放生寺の公式Webに唐突ともいえるかたちで、以下の説明が記載されています。
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別当寺 べっとうじ
神宮寺の一種。神社境内に建てられ、別当が止住し、読経・祭祀・加持祈祷とともに神社の経営管理を行なった寺。
神宮寺 じんぐうじ
神社に付属して建てられた寺院。神仏習合思想の現れで、社僧(別当)が神社の祭祀を仏式で挙行した。1868年(明治1)の神仏分離令により廃絶または分離。宮寺。別当寺。神護寺。神宮院。神願寺。
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明治の神仏分離で廃絶されたのは「神宮寺」で、「別当寺」は神宮寺の一種ながら廃絶を免れたと読めなくもありません。
(別当寺の説明で「神仏習合」ということばを用いていない。)
神宮寺と別当寺の別は、わが国の神仏習合を語るうえで避けてとおれない重要な事柄ですが、すこぶるデリケートかつ複雑な内容を含むので、ここではこれ以上触れません。
ひとつ気になるのは、『御府内八十八ケ所道しるべ 』では放生寺の御本尊は阿弥陀如来(穴八幡宮の御本地)となっているのに、現在の御本尊は聖観世音菩薩(融通虫封観世音菩薩)であることです。
この点について、現地掲示には「代々の(放生寺)住職が社僧として寺社一山の法務を司っておりましたが、明治二年、当山十六世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し現今の地に本尊聖観世音菩薩が遷されました。」とあります。
放生寺は明治二年に現在地に伽藍を遷し、そのときに聖観世音菩薩を御本尊とされたのでは。
以前の御本尊?の阿弥陀如来は、江戸時代に九品仏霊場第7番(下品上生)に定められた著名な阿弥陀様です。
(九品仏霊場の札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様))
一方、放生寺は江戸期から複数の観音霊場の札所で、観音様(おそらく融通虫封観世音菩薩)の信仰の場でもありました。
あるいは八幡宮との習合関係のうすい聖観世音菩薩を御本尊とすることで、神宮寺の性格(御本地が御本尊)をよわめたのかもしれません。
ともあれ御府内霊場第30番札所の放生寺は、明治初期の廃仏毀釈の波を乗り切って存続しました。
現在も高野山真言宗準別格本山の高い格式を保ち、複数の霊場札所を兼務されて多くの参拝客を迎えています。
放生寺と穴八幡宮は現在はそれぞれ独立した寺社ですが、いずれも「一陽来福」「一陽来復」ゆかりの寺社として知られています。
「一陽来福」(「一陽来復」)とは冬至をあらわす中国の易経の言葉で、「陰極まって一陽を生ずる」の意とされます。
「一陽と共に福もかえり来る」、来る年も福がまた訪れますように、との祈念を込めて参詣し、「一陽来福」(「一陽来復」)のお札をいただいて、冬至、大晦日、節分の深夜に恵方(「明の方」、歳徳神のおわす方角)に向けて貼るといいます。
放生寺の「一陽来福」は、御本尊・聖観世音菩薩ゆかりの「観音経の結びの「福聚海無量」=福聚(あつ)むること海の如く無量なり と言う偈文より「福」の字を取り「一陽来福」と名付けられました。」とのこと。(当山Webより)
御本尊・聖観世音菩薩は古来より融通・虫封観世音と呼ばれ、「融通=滞りなく通じる」から商家はもとより円満な人間関係(融通円満)の祈願本尊として信仰を集めており、冬至、大晦日、節分には「一陽来福」「融通」「虫封」を祈念する参詣者でことに賑わいをみせます。
一方、穴八幡宮の「一陽来復」は公式Webによると「福神(打出小槌)」に由来するものです。
『新編武蔵風土記稿』には、聖武天皇の御代に公家の水無瀬家の息女が感得されたもので、祈願の趣を掌に書き、この小槌でその掌を打てば所願成就とあります。
穴八幡宮公式Webには「公家の水無瀬家が山城国国宝寺より感得したものを当社に納めたもので、聖武天皇が養老七年の冬至の日に龍神により授けられた宝器」とあります。
穴八幡宮の「一陽来復御守」は江戸中期から冬至の福神祭に授与された歴史あるもので、「金銀融通の御守」とも呼ばれて、授与時には多くの参詣客で賑わいます。
なお、穴八幡宮の御朱印は「一陽来復」が揮毫される貴重なものですが、冬至から節分にかけては授与されておりません。
【写真 上(左)】 穴八幡宮の社頭
【写真 下(右)】 穴八幡宮の御朱印
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【史料】 ※なぜか『寺社書上』『御府内寺社備考』には記載がありません。
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十番
高田穴八まん
光松山 威盛院 放生會寺
高野山宝性院末 古義
本尊:阿弥陀如来 本社八幡宮 弘法大師
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(下戸塚村(穴)八幡社)別当放生會寺
古義真言宗、高野山寶性院末、光松山威盛院ト号ス 本尊不動を安ス 開山良昌ハ周防國ノ産ニテ 俗称ハ榎本氏 高野山寶性院青山ニ投ジテ薙染シ 諸國ヲ経歴シテ 寛永十六年(1616年)陸奥國尾上八幡ニ参籠ノ夜 将軍家若君辛巳年夏ノ頃御降誕アルヘキ由霊夢ヲ得タリ 其後当國ニ来リ シルヘノ僧室ニ暫ク錫ヲ止メシニ 同十八年(1618年)松平新五左衛門カ組ノ者ノ請ニ任セ当社((穴)八幡社)ノ別当職トナレリ 此年(寛永十八年(1641年))厳有院殿御降誕マシ々々 カノ霊堂ニ符合セリ 此事イツトナク上聞くニ達セシカハ 大猶院殿御放鷹ノ時当山ニ御立寄アリテ 良昌ヲ召サセラレ社ノ由緒ヲ聞シメサレ 光松山放生會寺ノ号ヲ賜ハレリト云 是ヨリ以来此邊御遊猟ノ時ハ 当寺ヲ御膳所ニ命セラレテ今ニ然リ
什寶
柳ニ竹ノ御書一幅 台徳院殿ノ御筆ト云 御自賛ノ和歌アリ
柳チル カタ岡ノヘノ秋風ニ 一ツフタツノ家ニカクルヽ
扇子一握 大猶院殿ノ賜物ニテ開山良昌拝領す、便面ス便面ニ御筆ノ詩歌アリ
飛鳥去邊山侶眉 空低水潤影遅遅 上林雖好非栖處 一任千枝與萬枝
雁カヘル常世ノ花ノイカナレヤ 月ハイヅクモ霞ム春ノヨ
福禄壽御画一幅 常憲院殿ノ御筆ナリ 落款ニ御諱アリ
楊柳観音画像一幅
百體大黒天画像一幅
(略)
不動愛染ノ画像各幅 弘法大師筆
心経一巻 同筆。
十六善神画像一幅
(略)
打出小槌 由来記一巻アリ其略ニ
此槌●紳家水無瀬家ノ女感得セシ所也 昔聖武天皇ノ此ノ如キ寶物ヲ山城國●原ノ一宇ニ御寄納アリシカハ 彼寺ヲ寶寺ト号ス 信心ノ男女祈願ノ意趣ヲ掌ニ書シテ 此槌モテソノ掌ヲ打テハ所願成就スト云
(略)
寺中 松済院 光済院 是ハ廃院トナリテ末再建ニ及ハス
■ 『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)〔要旨抜粋〕
高田八幡宮 穴八幡
牛込の総鎮守 別当は真言宗光松山 放生會寺
祭礼は八月十五日にて、放生會あり
寛永十三年(1636年)御弓組の長松平新五左衛門尉源直次に与力の輩、射術練習の為、其地に的山を築立てらる。
八幡宮は源家の宗廟にして而も弓箭の守護神なればとて、此地に勧請せん事を謀る。
此山に素より古松二株あり。其頃山鳩来つて、日々に此松の枝上に遊ぶを以て、霊瑞とし、仮に八幡大神の小祠を営みて、件の松樹を神木とす。此地昔は阿彌陀山と呼び来りしとなり。
(略)
寛永十八年(1641年)の夏、中野寶仙寺秀雄法印の會下に、威盛院良昌といえる沙門あり。周防國の産にして、山口八幡の氏人なり。十九歳の年遁世して、高野山に登り、寶性院の法印春山の弟子となり、一紀の行法をとげて、三十一の時より、諸國修行の志をおこし、其聞さまざまの奇特をあらはせりといふ。依てこの沙門を迎へて、社僧たらしむ。
同年の秋八月三日、草庵を結ばんとして、山の腰を切り闢く時に、ひとつの霊窟を得たり。
その窟の中石上に、金銅の阿彌陀の霊像一軀たたせ給へり。八幡宮の本地にて、しかも山の号に相応するを以て奇なりとす。穴八幡の号ここに起れり。又此日将軍御令嗣 厳有公 御誕生ありしかば、衆益ますその霊威をしる。
其後元禄年間(1688-1704年)、今の如く宮居を御造営ありて、結構備れり。
若宮八幡宮 本社の前右
東照大権現 同所
氷室大明神 本社に相対す
光松 別当寺と本社との間、坂の支路にあり。暗夜には折として瑞光を現ず。
放生池 本社の左
出現所 坂の半腹、絶壁にそひてあり 往古の霊窟の舊址なり。近頃迄其地に出現堂となづけて、九品佛の中、下品上生の阿彌陀如来の像を安置せし堂宇ありしが。今は見えず。
そもそも当社の別当寺を光松山と号くるも、神木の奇特によそへてなり。
「放生會寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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放生寺は高田・西早稲田方面から東に向かって早稲田の低地に突き出す台地の突端に、穴八幡宮と並ぶようにしてあります。
江戸期は低地から仰ぎ見る台地の寺社として、ことにランドマーク的な偉容を誇ったと思われます。
東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩2分と交通至便です。
周辺には絵御朱印(御首題)で有名な法輪寺、豊島八十八ヶ所霊場第3番の龍泉院、御府内霊場第52番の観音寺、早稲田大学合格祈願で知られる宝泉寺、そして穴八幡宮など都内有数の御朱印エリアとなっています。
放生寺はその縁起・沿革から穴八幡宮とのゆかりがふかいので、一部穴八幡宮の社殿等も併せてご紹介します。
早稲田通り、諏訪通り、早大南門通りが交差する「馬場下町」交差点。
早稲田大学のキャンパスに近く活気ある街なかに、穴八幡宮の朱色の明神鳥居と背後の流鏑馬の銅像が存在感を放っています。
この流鏑馬造は、享保十三年(1726年)、徳川8代将軍吉宗公が御世嗣の疱瘡平癒祈願の為に催した流鏑馬を起源とする「高田馬場の流鏑馬」が、昭和9年皇太子殿下御誕生奉祝のため、穴八幡宮境内にて再興されたことに因むものです。(現在は戸山公園内で開催)
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 参道
放生寺の参道は、ここから左手の諏訪通りに入ってすぐのところにあります。
おのおの入口はことなりますが、両社寺の敷地は重なるように隣接しています。
諏訪通りから伸びる急な登り参道で、放生寺が台地の山裾に位置していることがわかります。
山内は南西向きで明るい雰囲気。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 札所標
参道のぼり口に寺号標と「一陽来福の寺」の碑、そして御府内霊場、江戸三十三観音霊場の札所標。
参道途中には「光松山 観世音菩薩 虫封霊場 放生寺」の碑もあります。
【写真 上(左)】 虫封の碑
【写真 下(右)】 寺務所
参道右手上方の朱塗りの建物はおそらく穴八幡宮の出現殿(平成18年再建)で、往年の神仏習合のたたずまいを彷彿とさせます。
坂の正面に見えるのは唐破風軒の寺務所(客殿?)、その手前に本堂。
山内入口手前左手に手水舎と、その奥にある朱塗りの堂宇は神変大菩薩のお堂です。
神変大菩薩(役の行者)は、主に修験系寺院や神仏習合の色あいの強い寺院で祀られます。
当尊のご縁起は定かでないですが、かつての神仏習合の流れを汲む尊格かもしれません。
【写真 上(左)】 神変大菩薩堂
【写真 下(右)】 本堂
階段のうえにおそらく入母屋造瓦葺流れ向拝の本堂。
朱塗りの身舎に五色の向拝幕を巡らせて、観音霊場らしい華々しい雰囲気。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 大提灯
おそらくコンクリート造の近代建築ながら、向拝まわりは水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、中備に板蟇股など伝統的な寺社建築の特徴を備えています。
向拝見上げに「聖観世音」と徳川家ゆかりの葵紋を掲げた大提灯。
さらにその奥に「聖観自在尊」の扁額。
【写真 上(左)】 扁額と葵紋
【写真 下(右)】 修行大師像
身舎柱には御府内霊場・観音札所の札所板と「高野山真言宗準別格本山」を示す寺号板が掲げられています。
向拝左右は授与所となっていて、こちらで御朱印をいただいたこともあれば、寺務所で拝受したこともあります。
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 寺号板
本堂向かって左には端正な修行大師像が御座します。
本堂向かって右には放生供養碑と馬頭観世音菩薩立像。
整った像容で、忿怒尊である馬頭尊の特徴がよく出ています。
掲示によると、馬頭尊は畜生道を救うことから、放生会を厳修する当山でお祀りされているそうです。
【写真 上(左)】 放生供養碑と馬頭観世音菩薩
【写真 下(右)】 御府内霊場札所標
このあたりからは、上方に穴八幡宮の鼓楼(以前は鐘楼)がよく見えます。
鼓楼は平成27年の再建。名刹の山門を思わせる楼門の建立は平成10年。
穴八幡宮が次第にかつての神仏習合の姿を取り戻しているかのようです。
とくにある意味「本地堂」ともいえる「出現殿」を再建されるとは、往時の姿の復興に対する明確な意思が感じられます。
「放生會寺」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第2,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
また、『江戸名所図会』と見比べてみると、出現殿といい、鼓楼といい、往時に忠実に場所を選んで再建されていることがわかります。
関東の八幡宮の神仏習合例として、明治初頭までは鎌倉・鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)が代表格でしたが、廃仏毀釈で多くの伽藍堂宇を失い神宮寺も現存していません。
なので、穴八幡宮と放生寺が現存している(というか復興が進む)この界隈は、往年の八幡宮の神仏習合の姿を味わえる貴重な空間だと思います。
御朱印は寺務所ないし本堂内で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「聖観世音」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の揮毫と三寶印。
右上に「弘法大師御府内三十番」の札所印。左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 江戸三十三観音札所の御朱印
※御本尊御影印の御朱印も授与されている模様です。
■ 第31番 照林山 吉祥寺 多聞院
(たもんいん)
新宿区弁天町100
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第31番、大東京百観音霊場第60番、秩父写山の手三十四観音霊場第26番
司元別当:
授与所:庫裡
新宿区弁天町にある真言宗豊山派で、烏山の多聞院(第3番札所)との区別の意味合いもあって、牛込多聞院と呼ばれます。
第31番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに多聞院なので、御府内霊場開創時から一貫して多聞院であったとみられます。
縁起・沿革について、下記史料、現地掲示、「ルートガイド」を参照に追ってみます。
多聞院は天正年間(1573-1592年)に平河口(現在の千代田区平河町)に起立し、慶長十二年(1607年)江戸城造営のため牛込門外外濠通りに移転、寛永十二年(1635年)、境内がお堀用地となったため現在地の辨天町に移転したといいます。
法流開山は覺祐上人(天正年中(1573-1592年)遷化)、中興開山は覺彦律師と伝わります。
※現地掲示には、寛永年間(1624-1629年)に法印覚賢により開創とあります。
『寺社書上』、『御府内寺社備考』ともに、御本尊は三身毘沙門天となっていますが、『御府内八十八ケ所道しるべ天』には本尊:大日如来 三身毘沙門天王 弘法大師とあります。
弘法大師はもとより、本堂御本尊の三身毘沙門天王、位牌堂御本尊の金剛界大日如来が拝所となっていた可能性があります。
『寺社書上』には、御本尊尊三身毘沙門天王は「楠正成之守本尊」とありますが、詳細については不明。
現在の御本尊は大日如来ですが、院号に多聞院とあるとおり、毘沙門天とゆかりのふかい寺院と思われます。
「多聞院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十一番
牛込七軒寺町門前町あり
照林山 吉祥寺 多聞院
西新井村惣持寺末 新義
本尊:大日如来 三身毘沙門天王 弘法大師
■ 『寺社書上 [33] 牛込寺社書上 六』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.122』
武州足立郡西新井村 惣持寺末
牛込七軒寺町
林山 吉祥寺 多聞院
新義真言宗
開山不分名
法流開山 覺祐上人 遷化年代●不詳
中興開山(寛永年中) 覚彦律師● 湯島霊雲寺開山
本堂
本尊 三身毘沙門天 大黒毘沙門 弁財天之三身一体之木像
●教大師之作 楠正成之守本尊 楠正成之末孫に沙門●●と申者当寺●●来案す●る事
唐●双身毘沙門天立像 弘法大師作
聖天堂
●金観喜天王立像
唐金地蔵尊
稲荷大明神
天満宮社
位牌堂
本尊 金剛界大日如来木立像 運●作
毘沙門天画像 弘法大師筆
(付記)
開山ハ覚●法印といふ 寛永十六年七月寂
■ 『牛込区史』(国立国会図書館)
昭林山吉祥寺多聞院
新井總持寺末
年代不詳、平河口に起立、慶長十二年(1607年)牛込門外外濠通りに移転、寛永十二年(1635年)辨天町に移つた。法流開山覺祐上人、天正年中(1573-1592年)遷化。中興開山覺彦律師。舊境内拝領地千九百廿五坪。
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外苑東通り(都道319号)は、江戸川橋そばの鶴巻町から弁天町~牛込柳町と南下して青山、六本木を経て麻布台に至ります。
弁天町~牛込柳町あたりは南北の谷筋を走り、とくに東側は坂が多くみられます。
『江戸切絵図』と現代の地図を見比べてみると、かつての七軒寺町の通りがほぼ現在の外苑東通りとなっていることがわかります。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』市ヶ谷牛込絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
最寄りは都営大江戸線「牛込柳町」駅。徒歩5分ほどです。
「牛込柳町」周辺は、日蓮宗江戸十大祖師の幸國寺、新宿山之手七福神の経王寺、曹洞宗の法身寺、顕本法華宗の常楽寺、日蓮宗の瑞光寺など、多彩な宗派の御朱印・御首題が拝受できるエリアとなっています。
多聞院のお隣の浄輪寺には江戸時代の和算家で算聖とあがめられた関孝和の墓があり、御首題も授与されています。
【写真 上(左)】 参道入口(工事中)
【写真 下(右)】 山院号表札
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 鐘楼
多聞院の入口は外苑東通りに面し、やはり坂道の参道となっています。
入口にはコンクリ造の山門がありその上部の鐘楼もスクエアなコンクリ造でモダンなイメージ。
左手には真新しい「牛込四恩の杜」(公園墓地?)があり、よく整備された印象です。
【写真 上(左)】 整備された山内
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
少し参道をのぼると、いきなり寺院づくりの本堂があらわれます。
本堂向かって左手の庫裡もモダンなイメージですが、本堂まわりだけは伝統的な寺院のイメージを保ち、独特のコントラスト。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝と整った意匠で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、中備に蟇股を備え、向拝見上げに山号扁額を掲げています。
勢いのある降り棟と留蓋上の獅子飾りがいい味を出しています。
【写真 上(左)】 正等大阿闍梨供養塔
【写真 下(右)】 御府内霊場開創記念碑
山内には、御府内霊場の開基とも伝わる正等和尚の墓?(供養塔)、御府内霊場開創記念碑があります。
供養塔には「御府内八十八ヶ所開基 (通種子・ア)正等大阿闍梨百五十年供養塔 大正十二年六月十二日 大僧正●●●」とあります。
また、別の碑(祈念碑?)には「(梵字)府内八十八霊場開創」とあります。
【写真 上(左)】 吉川湊一の墓
【写真 下(右)】 庫裡
平家琵琶の奥義を極め、検校にまで昇進した吉川湊一(1748-1829年)、大正時代の女優・松井須麿子、大正時代の詩人・生田春月の墓所もあります。
御朱印は本堂向かって左のモダンな庫裡で拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三十一番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています
■ 第32番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺
(えんまんじ)
文京区湯島1-6-2
真言宗御室派
御本尊:不動明王・十一面観世音菩薩
札所本尊:不動明王・十一面観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第32番、弘法大師二十一ヶ寺第1番、御府内二十八不動霊場第25番、江戸坂東三十三ヶ所観音霊場第1番、弁財天百社参り番外27
司元別当:
授与所:ビル内寺務所
第32番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』、江戸八十八ヶ所霊場ともに圓満寺なので、御府内霊場開創時から一貫して湯島の圓満寺であったとみられます。
下記史料を参照して縁起・沿革を追ってみます。
圓満寺は、寶永七年(1710年)、木食覺海義高上人が湯島の地に梵刹を建て、萬昌山圓満寺と号したのが開山といいます。
開山の「木食義高」に因んで「木食寺」とも呼ばれます。
義高上人は、足利13代将軍義輝公の孫義辰の子とも(義輝公の孫とも)伝わります。
幼くして出家、日向國佐土原の福禅寺に入り木食となりました。
寛文八年(1668年)から東国に下り各地に堂宇を建立、大いに奇特をあらわされて伝燈大阿闍梨権僧都法印に任ぜられました。
元禄四年(1691年)江戸に赴かれ本郷三組町に住むと、常憲公(5代将軍徳川綱吉公)や浄光院殿(綱吉公の正室・鷹司信子)の帰依を受け御祈祷を申しつけられています。
文昭公(6代将軍家宣公)の帰依も受け、家宣公は上人を以て当寺の(公的な?)開山とされたとのこと。
当山は開創時から真言宗御室派(当時は仁和寺御室御所)と所縁があったとみられます。
義高上人と御室御所について、『江戸名所図会』に「延寶七年(1679年)御室宮へ参るに、高野山光臺院の住持職に任ぜらる。」とあります。
「御室宮」はおそらく「仁和寺御室御所」で、上人は「御室御所」に参内された後、高野山光臺院の住持職に任ぜられています。
高野山光臺院は現存し、その公式Webには「当院は白河天皇の第四皇子覚法親王の開基で(約900年前)以来27代にわたり法親王方が参籠されている。それによって当院は「高野御室」と称され、非常に由緒ある名刹」とあります。
さらに「御室御所」についてたどってみます。
仁和寺の公式Webには「仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。」「宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。」とあります。
高野山光臺院は高野山内の門跡寺院で、その由緒から仁和寺御室御所と関係があり「高野御室」と称されていたのでは。
義高上人は仁和寺御室御所に参内してその才を認められ、時をおかずに御室御所所縁の高野山光臺院の住持職に任ぜらたのではないでしょうか。
むろん氏素性の明らかでない者が門跡寺院に参内できる筈はなく、おそらく義高上人が足利13代将軍義輝公の曽孫(ないし孫)という出自が効いたものと思われます。
中世の東密(真言宗)は小野六流・広沢六流の十二流に分化し、そこからさらに法脈を広げたといいます。
このうち広沢流の中心となったのが仁和寺御室御所です。
いささか長くなりますが、その経緯について『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)を参照してたどってみます。
第52代嵯峨天皇は弘法大師空海の理解者で、東寺を賜った帝として知られています。
第59代の宇多天皇も仏教、ことに密教への帰依篤く、寛平九年(897年)の突然の譲位は、仏道に専心するためという説があるほどです。
宇多天皇は東寺長者の益信僧正(本覚大師)に帰依されたといいます。
益信僧正は弘法大師空海から第4世の直系で、東密広沢流の祖とされる高僧です。
昌泰二年(899年)、33歳の宇多上皇が仁和寺で出家する際に、益信僧正は受戒の師となり寛平法皇(法号は空理)と号されました。
延喜元年(901年)12月、益信僧正は東寺灌頂院にて法皇に伝法灌頂を授け継承者とされたといいます。
延喜四年(904年)、法皇は仁和寺に「御室御所」を構えられ、以降、仁和寺は東密の門跡寺院として寺勢大いに振いました。
法皇の弟子の寛空は嵯峨の大覚寺に入られ、寛空の弟子の寛朝は広沢に遍照寺を開かれました。
この寛平法皇(宇多天皇)所縁の法流が、後に「広沢流」と呼ばれることとなります。
一方、醍醐寺を開かれた聖宝(理源大師)ないしその弟子筋の仁海(小野僧正)も法流を興され、こちらは「小野流」と呼ばれます。
洛東の小野、洛西の広沢は東密の二大潮流となり、さらに分化していきました。
広沢流:仁和御流、西院流、保寿院流、華蔵院流、忍辱山流、伝法院流の六流
小野流:勧修寺(小野)三流(安祥寺流、勧修寺流、随心院流)
醍醐三流(三宝院流、理性院流、金剛王院流)の六流
これらを総じて「野沢(やたく)十二流」といいます。
広沢流と小野流の違いについては、
・広沢流は儀軌を重視、小野流は口伝口訣を重視
・広沢流は「初胎後金」、小野流は「初金後胎」(両部灌頂を行うときに胎蔵界、金剛界いずれを先にするかの流儀)
などが論じられるようです。
東密が分化したのは事相(修法の作法など)の研究が進んだため、というほど修法の存在は大きく、たとえば雨乞いの修法を修するときに
・広沢流は孔雀経法、小野流は請雨経法
という説もみられたようです。
『呪術宗教の世界』では、例外もみられるとして修法における差異については慎重に扱われていますが、それだけ東密に対する「秘法」の要請が強かったとしています。
(「他の流派にない霊験ある秘法を相承することで、貴族たちの呪術的欲求にこたえ、流派独自の秘法として主張喧伝された。」(同書より抜粋引用))
話が長くなりました。
ともあれ、仁和御流は高い格式をもつ門跡寺院・仁和寺を中心に東密「広沢流」の中核をなしました。
なお、Wikipediaには「仁和寺の仁和御流(真言宗御室派)」と記され、仁和御流が真言宗御室派に承継されていることを示唆しています。
仁和御流(真言宗御室派)は西日本中心の流派で、現在の総本山は仁和寺(京都市右京区)、大本山は金剛寺(大阪府河内長野市)と大聖院(広島県廿日市市)、準大本山は屋島寺(香川県高松市)です。
別格本山もほとんどが西日本で、これは仁和寺は江戸時代末期まで法親王(皇族)を迎えた門跡寺院で、京の皇室との所縁が深いということがあるのでは。
しかし、江戸時代の江戸にも仁和寺末を名乗る寺院はいくつかありました。
そのひとつが湯島の圓満寺です。
寶永七年(1710年)、義高上人が湯島の地に圓満寺を開山された以前に、上人は「御室御所」と所縁をもち、おそらく「御室御所」から高野山光臺院(「高野御室」)の住持職を託されています。
その義高上人が江戸に開山された圓満寺が「京仁和寺末」となるのは、自然な流れかと思われます。
(『御府内寺社備考』に「御室御所より院室御影●之節 圓満寺の寺号(以下不詳)」とあり。)
御府内霊場では当山のほか、第41番密蔵院が真言宗御室派です。
義高上人は日暮里の補陀落山 養福寺(豊島霊場第73番ほか)を中興開山と伝わりますが、養福寺は真言宗豊山派(新義真言宗)となっています。
Wikipediaによると、明治初期の火災で伽藍を焼失し、明治20年に相模の大山寺の協力の下で再建されたものの関東大震災、東京大空襲で焼失しています。
昭和38年木造の本堂が再建、昭和53年にはRC造の「おむろビル」に改築され、ビル内の寺院となっています。
なお、Wikipediaには「御室派総本山仁和寺の東京事務所」とあり、おむろビルの袖看板にも「総本山 仁和寺 東京事務所」とあります。
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【史料】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
三十二番
ゆしま四丁目
萬昌山 金剛幢院 圓満寺
御直末
本尊:十一面観世音菩薩 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.2』
本寺 御室御所仁和寺宮 (御室御所院室)
湯島 不唱小名
萬昌山 金剛幢院 圓満寺
開山 開山木食覺海義高僧正者 将軍光源院(足利)義輝公の御子
本堂
本尊 七観音尊木立像 紀伊殿●御寄附
十一面観世音尊 秘佛 如意法尼内親王之御作
歓喜天尊 秘佛
多聞天木立像 開山義高僧正作
両部大日如来木座像
不空羅索尊木座像
千手観音尊木座像
薬師如来木座像 日光月光立像 十二神将立像
愛染明王木座像
孔雀明王尊影
五大虚空蔵尊影
常倶梨天尊影
位牌所
地蔵菩薩木立像(ほか)
鐘楼堂
阿弥陀如来天竺佛座像 等持院殿守本尊
当寺開山義高権僧正御影
弘法大師●筆 楷書心経巻物
六観音 弘法大師之作
辨財天木座像 弘法大師之作
胎蔵界大日如来木座像 弘法大師之作
御香宮明神木像
三尊来迎
天満宮渡唐神像
十六善神
地蔵尊 二童子有
刀八毘沙門天神像 尊氏公軍中守本尊
大師目引之尊影 真如親王之御筆 高野山御影堂に有し●
十六羅漢御影
阿育王塔石
多寶塔
護摩堂
不動明王 二童子附 秘封 弘法大師作
前立五大尊明王
閻魔天木座像
金佛地蔵尊座像
秋葉社
鐘楼堂
辨財天社
辨財天女木立像
稲荷大明神 秘封
大黒天木立像
恵比須神木座像
千手観音木座像
青面金剛木立像
地蔵堂 石地蔵尊立像
七観音堂 本堂の左にあり
十一面観音
■ 『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)〔要旨抜粋〕
萬昌山圓満寺
湯島六丁目にあり。真言宗にして、開山は木食義高上人なり。本尊十一面観世音、如意法尼の御作なり。法尼は淳和帝の妃にして弘法大師の御弟子なり。左右に六観音を安置す。当寺を世に木食寺と称す。
寺伝に曰く、開山木食義高上人は覺海と号す。足利十三代将軍義輝公の孫義辰の息なり。
日向國に産る。幼より瑞相あるに仍て出家し、肥後國(日向國?)佐土原の福禅寺に入りて、覺深師に随従し、木食となれり。寛文八年(1668年)、衆生化益のために東奥に下り、あまねく霊地を拝しこゝかしこに堂宇を建立す。(略)伝燈大阿闍梨権僧都法印に任ぜらる。其後西國に赴くの頃も、大に奇特を顕す。延寶三年(1675年)都に上り堀河姉小路多聞寺に止宿(略)延宝五年(1677年)江城湯島の地に至り、大に霊験をあらはす。延寶七年(1679年)御室宮へ参るに、高野山光臺院の住持職に任ぜらる。元禄四年(1691年)志願によって光臺院を辞して江戸に赴き、本郷三組町に住せらる。常憲公(5代将軍徳川綱吉公)および浄光院殿(綱吉公の正室・鷹司信子)、須山女を以て御祈祷を仰附けらる。寶永六年(1709年)上京(略)寶永七年(1710年)江戸湯島の地に梵刹を建てゝ、萬昌山圓満寺と号す。文昭公(6代将軍家宣公)の御志願に仍て、則ち上人を以て当寺の開山とす。
「圓満寺」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)
「圓満寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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JR・メトロ丸ノ内線「お茶ノ水」駅から徒歩約5分、オフィス街に建つ「おむろビル」のなかにあります。
現在、土祝日はビルのセキュリティの関係上入館不可につき平日のみ参拝可のようです。
ごくふつうのオフィスビルのエントランスですが、袖看板に「圓満寺」とあり、かろうじて館内に寺院があることがわかります。
【写真 上(左)】 おむろビル全景
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 寺号の袖看板
【写真 下(右)】 行事予定
貼り出されていた行事予定によると、不動護摩祈祷や写経会が開催されているようです。
【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 8階エレベーターホールの「授与所」
受付は8階、本堂は9階でエレベーターでのぼりますが、通常9階は不停止となっているようです。
8階にどなたかおられるときは、申し入れれば本堂参拝可能な模様ですが、筆者参拝時(2回)はいずれもご不在で、8階からの遙拝となりました。
8階にはエレベーターホールに書置御朱印が置かれているので、ここから遙拝しました。
上層階の御本尊に向かって、階下のエレベーターホールからの参拝ははじめてで、不思議な感じですが、これはこれで「都心のお遍路」ならではの雰囲気は味わえるかと思います。
史料によると、当山は数多くの尊像を奉安されていたようですが、そのお像は現在本堂に安置されているのでしょうか。
『寺社書上』(文政年間(1818-1831年))では、御本尊は七観音木像。
『御府内寺社備考』(同)では本堂本尊は七観音木像、十一面観世音(秘佛、如意法尼内親王御作)。
『江戸名所図会』(天保年間(1831-1845年))では、御本尊は十一面観世音(如意法尼の御作)。
『御府内八十八ケ所道しるべ』(幕末-明治)では、札所本尊は十一面観世音菩薩、不動明王、弘法大師とあります。
さらにWikipediaには「明治初期の火災までは、以下の寺宝があった。 七観音(旧本尊)」とあります。
また『御府内寺社備考』には「七観音堂 本堂の左にあり 十一面観音」「護摩堂 不動明王 二童子付秘封 弘法大師作」とあります。
以上から、江戸時代の御本尊は七観音木像、ないし十一面観世音(如意法尼内親王御作)とみられます。
七観音木像は明治初期の火災で焼失?し、御本尊は十一面観世音菩薩(如意法尼内親王御作)となり、明治20年に「関東三大不動」で不動尊とのゆかり深い相模・大山寺の協力で再建された際に、十一面観世音菩薩・不動明王の両尊御本尊となったのでは。
こちらの不動明王は、護摩堂本尊の不動明王(弘法大師御作)、ないしは大山寺から奉安された尊像と考えられます。
明治初期来、数度の火災に遭い古文書など焼失されているようなので詳細は不明です。
御朱印は8階エレベーターホールに置かれていたものを拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(規定用紙貼付)
中央に「本尊不動明王」「十一面観世音菩薩」「弘法大師」の印判と十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の印判と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第三十二番」の札所印。山号の印判と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-11)
【 BGM 】
■ 名もない花 - 遥海
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
■ Parade - FictionJunction
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