浅虫温泉でスーパー白鳥を2本撮った後、青森に戻った。
津軽線の蟹田~三厩間が未乗区間として残っているが、三厩まで行くからには竜飛岬まで行きたい。しかし、そこまで行っている時間はないので、この区間は先送りとした。
前から行ってみたかった青函連絡船八甲田丸に行ってみることにした。
船内に入ると、青函連絡船にまつわる資料や写真が展示してある。
面白いグラフがふたつあった。
ひとつは、青函連絡船の貨物輸送のうつりかわりというグラフ。
青い線が上り、赤い線が下りであるが、航路が開設されてから昭和50年頃まで一貫して「上り」が「下り」を上回っており、2割くらい上回っている期間もある。
ところが、昭和50年を境にこの関係が逆転している。
要因はわからないが、輸送を担う国鉄は状況の急変に翻弄されたんだろうなと思う。
旅客輸送のうつりかわりのグラフもあった。
貨物は上下便のアンバランスがあっても不思議ではないが、年単位で見れば、旅客は上下便で大きく変わることはないはずである。
ところが、昭和20年と、昭和43年頃から48年頃までの間は、上下便でアンバランスが見られる。
昭和20年の下りが多いのは、終戦によるものだろうか。
復員して、北海道に帰る、ということだろうか。
しかし、昭和45年前後の原因はよくわからない。
単純に考えれば、北海道から人口流出していることになる。
石炭産業の低迷などありそうだが、これは調べてみないとわからない。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
青函連絡船には昭和63年1月に十和田丸と羊蹄丸に乗ったことがあり、今回、八甲田丸に入ったのは、当時の客室をもう一度見られればと思ったが、残念ながらこの点は期待はずれ。
そんな中でもいくつか懐かしいものが見られた。
ひとつは、乗船名簿の案内。
そして、オレンジカード。
乗船記念に買ったが、「今、栄光の航跡をきざんでいます・・・・・・」というフレーズが非常に懐かしい。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
舵を握ってみたが、計器類の多さに目が回った。
航海シミュレーションゲームのようなものがあったので、何度か挑戦したが、「付近の船に接近しすぎです」「所定の時間より速すぎます」などとコメントが出て、いずれも船長として「失格」と判定されてしまった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
車両甲板へ。
こちらは、自動連結器付き車止め。
キハ82 101が潜んでいるとは。
ここから車両を出し入れしていた。
大変な作業だったんだろうなと思うが、昔のようで昔ではない。
20年とは微妙な歳月だと思う。
機関は工場のようだ。
裏方車両のヒ600。
先ほど書いたとおり、私が乗った2等座席の客室が見れればと期待したが、それは果たせなかった。
船の科学館と函館の摩周丸に期待してみることにした。
しかし、こうやって、青森に停泊(もはや動けないが)して、青森駅の歴史をしのぶことができるのはすばらしい。
津軽線の蟹田~三厩間が未乗区間として残っているが、三厩まで行くからには竜飛岬まで行きたい。しかし、そこまで行っている時間はないので、この区間は先送りとした。
前から行ってみたかった青函連絡船八甲田丸に行ってみることにした。
船内に入ると、青函連絡船にまつわる資料や写真が展示してある。
面白いグラフがふたつあった。
ひとつは、青函連絡船の貨物輸送のうつりかわりというグラフ。
青い線が上り、赤い線が下りであるが、航路が開設されてから昭和50年頃まで一貫して「上り」が「下り」を上回っており、2割くらい上回っている期間もある。
ところが、昭和50年を境にこの関係が逆転している。
要因はわからないが、輸送を担う国鉄は状況の急変に翻弄されたんだろうなと思う。
旅客輸送のうつりかわりのグラフもあった。
貨物は上下便のアンバランスがあっても不思議ではないが、年単位で見れば、旅客は上下便で大きく変わることはないはずである。
ところが、昭和20年と、昭和43年頃から48年頃までの間は、上下便でアンバランスが見られる。
昭和20年の下りが多いのは、終戦によるものだろうか。
復員して、北海道に帰る、ということだろうか。
しかし、昭和45年前後の原因はよくわからない。
単純に考えれば、北海道から人口流出していることになる。
石炭産業の低迷などありそうだが、これは調べてみないとわからない。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
青函連絡船には昭和63年1月に十和田丸と羊蹄丸に乗ったことがあり、今回、八甲田丸に入ったのは、当時の客室をもう一度見られればと思ったが、残念ながらこの点は期待はずれ。
そんな中でもいくつか懐かしいものが見られた。
ひとつは、乗船名簿の案内。
そして、オレンジカード。
乗船記念に買ったが、「今、栄光の航跡をきざんでいます・・・・・・」というフレーズが非常に懐かしい。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
舵を握ってみたが、計器類の多さに目が回った。
航海シミュレーションゲームのようなものがあったので、何度か挑戦したが、「付近の船に接近しすぎです」「所定の時間より速すぎます」などとコメントが出て、いずれも船長として「失格」と判定されてしまった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
車両甲板へ。
こちらは、自動連結器付き車止め。
キハ82 101が潜んでいるとは。
ここから車両を出し入れしていた。
大変な作業だったんだろうなと思うが、昔のようで昔ではない。
20年とは微妙な歳月だと思う。
機関は工場のようだ。
裏方車両のヒ600。
先ほど書いたとおり、私が乗った2等座席の客室が見れればと期待したが、それは果たせなかった。
船の科学館と函館の摩周丸に期待してみることにした。
しかし、こうやって、青森に停泊(もはや動けないが)して、青森駅の歴史をしのぶことができるのはすばらしい。
一つは、相次ぐ炭鉱閉鎖で人口が都会へと大流動した時期であることです。1950年代からはじまった炭鉱のスクラップアンドビルド政策ですが、1970年頃にはとうとう家庭用エネルギーも石炭から石油に代わり、家庭用無煙炭を主に産出する羽幌炭鉱の閉鎖が発生しています。
もう一つは、上記の結果、炭鉱を追われた人口の流出先です。内地へ移った方が多かったのはもちろん、札幌をはじめとする道内各都市への集中も著しくなってきます。
奇しくも札幌の人口が100万人を突破したのは1971年の札幌オリンピック前年であり、以後札幌の人口は増えるが、北海道全体の人口はほぼ横ばいという状態が続いていきます。産業構造も同様で、札幌への異常流入が起きた結果、第2次産業が大幅に減じる代わりに、極端に第3次産業従事者が増える、北海道独特の産業構造の萌芽が生まれました。そのような空気の中で、地下鉄の開業、札幌オリンピックの開催、整備新幹線としての北海道新幹線の基本計画公表、青函トンネルの新幹線規格への変更&本坑着工へとなだれ込んでいったのでしょう。
ちなみに青函連絡船の輸送量ピークも1971年です。但し、当時、青函連絡船が北海道への主要交通機関だったのかというと、実はそうではありません。単に総輸送量パイが増えていたから1971年までは増加を続けただけで、シェア自体は1965年頃には50%を割って年々減少の一途をたどり、交通機関としては既に劣勢を囲っていました。
但し、当時は航空機と鉄道の運賃差が倍ほども開いており、所要時間17時間の特急&連絡船ならともかく、飛行機の半額で所要6時間弱の新幹線ができたら、そこそこ使ってくれるだろう(事実、所要7時間の山陽新幹線博多開業した1975年度の首都圏・福岡間の鉄道シェアは50%近かった)というのが、東北・北海道新幹線計画の端緒でした。当時は、シェアに対する運賃差の影響が今より厳しく効いていた(時間はあるけどカネはないという人が多かった)&国鉄の運賃は他物価に対して相対的に安かった、ということでしょうね。
長文蛇足失礼しました。