新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

「島津の退き口」鳥頭坂にて…薩摩藩士に想いを馳せる…の巻…

2019-06-17 05:55:50 | 歴史史跡
岐阜…
関ケ原…の上石津町
名神高速の高架下の坂を下る途中の小道の右側に


薩摩藩の旗
青空の下、はためいている…







ここは

鳥頭坂

「島津の退き口」と呼ばれる

烏頭坂



ここには

島津隊の副大将
島津義弘の甥にあたる
島津豊久の碑があります…



案内の石碑は
叢の中…









この小山の上に








ありました…
島津豊久の碑が…













ここ…関ケ原の鳥頭坂は
島津豊久が…
討ち取られたとも言われている場所とも言われているし…

いやいや、ここで重傷を負いながらも義弘の後に続こうとして
その道中で倒れたとも

自刃したともいわれている

島津豊久




ここは関ケ原の戦いにて

島津軍と
東軍とでの最後の死闘が行われた場所
なんだな…



関ヶ原の戦い


それは、小早川秀秋の裏切りによって西軍は惨敗…
総崩れとなる…



その中で東軍に囲まれ
孤立状態となったのが薩摩の大将、島津義弘であった…


普通では
生き残った西軍の武士たちが多い
伊吹山の方へ向かって逃げようと思うところが
常識的だとは思われるが

彼は
あえて、東軍の武士の多くいる
軍勢に果敢にも向かっていき、
その戦場を横断するかのように脱出を図った
のである…



そのときの
島津軍は約300名
東軍は約80000人…


普通なら
あっという間にやられて
首をとられそうなものだが…



島津軍は
その横を見事にすり抜けたのである…




といっても
もちろん
抜き足差し足忍び足で…
戦場を抜け出せるほどの
甘いものではない…


この島津軍のとった戦法が凄いのよ!!





それは
「捨て奸」もしくは
「座禅陣」と呼ばれる戦法


島津隊は退却の最中
退路に銃を持った兵士を数人座らせる…
彼らが敵の指揮官を狙撃し
怯んだところで突撃する…

それを何度も繰り返す中で…
時間を稼ぎ
その間に
大将、島津義弘を逃げさせるといった作戦


火縄銃と槍刀で武装した兵士たちが
小集団として本隊から離脱
座禅を組み座り込んで
火縄銃を構え、敵の指揮官を狙撃敵撃
撃った直後に槍や刀に持ちかえ敵集団に突っ込み死ぬまで戦うという

太平洋戦争中の日本軍の,体当たり攻撃部隊
特攻隊に通じる戦法…


お国のために…
散るか…


島津義弘将軍のために
散るか…


この戦法は
功をなし

井伊直政、松平忠吉の武将を負傷に追い込んでいる…
そんな中…

この鳥頭坂は
島津豊久が…最後の砦となって


「捨て奸」もしくは
「座禅陣」と呼ばれる戦法で

討ち死したか
あるいは…そうとうな負傷を負った場所であり
多くの薩摩武士がここで…討ち死した場所…らしいんだな…






関ケ原の戦いで敗れた
大将である島津義弘が、生きて九州の地に戻り、
徳川方を納得させる謝罪をしなければ
薩摩のお家が潰されるかもしれない…


島津義弘が生き残ることが
薩摩の武士の
島津豊久の
何よりもの願い…だったのである…


豊久の願いは成就し
義弘は無事に薩摩へ帰還


徳川による戦後処理にて、
遠いといった地の利もあってか
交渉も2年という月日がかかり

その間には
実は家康は島津討伐の命を下しており
九州の大名による連合軍が攻め寄せることもあったらしいが
その直後に家康へ義弘からの謝罪の使者が向けられたことで
戦さが回避され
最終的には
薩摩は「お咎めなし」を勝ち取るに至る…





しかし…
その後の徳川家と薩摩藩の歴史を繋げると実に因縁深く興味をそそる…


おそらく…
ずっと…徳川幕府は
薩摩藩を…危険視してたんだろうなって…


それは
それから175年後におきた


薩摩藩に委託した
木曽三川の治水工事





素人そのものの薩摩藩士に
治水工事を嫌がらせのようにやらせ
多くの薩摩藩士が犠牲となった宝暦治水事件




この嫌がらせのような
治水工事に
薩摩藩士も
江戸時代…
なんらかの恨みつらみの思いがずっと
徳川幕府に残っていたのではないか…


そう思うと
討幕運動の首謀者
薩摩の西郷隆盛が
薩摩で
英雄視されるのが
めちゃめちゃわかるような気がする…


いやあ…
歴史を身勝手に妄想で…めぐらせるのに絶好な
ベンチがここにありまして


それは

「薩摩ベンチ」















しばらく…
ここに座って
妄想に想いを馳せてた私だったのでした…


関ケ原での島津軍の
「島津の退き口」から始まって
宝暦治水事件
そして…西郷隆盛を
徳川幕府との関係から
勝手に1本の線で繋げてみたりして


こうして
「島津の退き口」
鳥頭坂の「薩摩ベンチ」に座っていたら



な、なんと
驚くことに
集団になって…私に襲い掛かってきた…

まるで、私が島津の武士であるかのように???






それは徳川家康率いる
東軍では…なくて…
「蚊」の集団…






私も



島津豊久に成りかわって


「捨て奸」もしくは
「座禅陣」と呼ばれる戦法…のように???

数か所喰われて
負傷???を負ったけれども

井伊直政、松平忠吉の武将のような???
「蚊」を


果敢にも負傷に??
追い込んだことを最後に記しておく…
???


ちなみに
東軍の兵が
次々と襲ってくるので…苦笑


「島津の退き口」で
私も退いたのは言うまでもない…