ハウスマーティンズは、現在英国の国民的バンド「ビューティフル・サウス」の前身である。
二枚のオリジナルアルバムと何枚かのベスト盤を出している。私はビューティフル・サウスよりも、陽気なポップ・サウンドに貧困への憂いや変化への期待を込めた元気なハウスマーティンズが好きだ。一見陽気なのに歌詞は辛辣というのがいかにもイギリスらしい。ファースト・アルバムの一曲目、「ハッピー・アワー」からして皮肉である。「また愉快な時がやってきた、上司がいない夜、全てが昼間とは違って皆楽しげだ」と続けてゆく。「バザーで貧しい人のための演奏会をすると決めて、女王陛下の前で募金箱を揺すっても時間の無駄だ」というフラッグ・デイという曲もある。「農民はいつまでも農民で、銀行家は永遠に銀行家だ」という歌もある。ほとんど蟹工船の世界である。
けれどもとびきりポップなセンスで音作りがされているので惹きこまれてしまう。「これが自由だ?奴らはふざけているに違いない、これが自由だ、そう思っているなら。」という曲でオリジナルの第一作のラストは終わる。ボーナス・トラックの「アイル・ビー・ユア・シェルター」はゴスペル調の曲で熱狂的なテイストがある。ハウスマーティンズはゴスペル調の曲、「キャラバン・オブ・ラブ」や「ヒー・エイント・へヴィー(ヒー’ズ・マイ・ブラザー)」などを何曲かカヴァーしていて、興味深い。
ハウスマーティンズの反骨精神や貧困層への共感は、映画「ブラス!」を撮ったマーク・ハーマン監督のセンスに近い。「ブラス!」は労働者層のつらい心情をとらえていて泣かせる映画だ。クラシックファンはブラスバンドを見くびっているが、労働者層の心の支えだとこの映画を見ると分かる。同じ監督の「シーズン・チケット」も貧しいサッカー少年の情熱を伝えていてぐっと来る。
それと同じ背景を持つハウスマーティンズだが、後のビューティフル・サウスになると絶望や疲労が表現として前面に出て、ポップ・サウンドの救いが後退したような印象を受ける。いつまでも空騒ぎはしていられない、という心境の変化なのだろうが、ハウスマーティンズ好きには寂しい変化である。日本も不況の真っただ中なのだから、ハウスマーティンズのようなセンスで貧困への憂いを形にする表現媒体が受け入れられる環境にある。
ヨアヒム・ケーラーの「ニーチェ伝 ツァラトゥストラの秘密」を読んだ。
普通の切り口では語り尽くされているので、ヨアヒム・ケーラーが選んだ視点はニーチェの欲望である。ニーチェが個人的に書いた文学やメモや遺稿のなかに、ニーチェの「時代ゆえに抑圧された」隠れた欲望を読み込んで、解説を加えてゆく。冒頭からニーチェは潜在的にゲイだったのではないかという説を打ち出し、ゲイ的欲望を含めた彼の欲望が自らの手で解放されてゆく過程を描く。潜在的にゲイだったのではと言われても、潜在的に何者かでない人物がいるかどうかはなはだ疑問で、憶測ゆえの勘繰りに終始している面がある。
牧師の父を持つニーチェが人一倍キリスト教的超自我(内面化された道徳)の圧迫を抱えて苦しんでいたのは事実で、それゆえ、神は死んだことにして、性的にも解き放たれた世界としての古代ギリシアに出口を見出し、近代の超克の道を歩むのである。そこでこの本は欲望の抑圧からの自立という、内面世界の葛藤劇から、ニーチェの哲学の形成を読んでいこうとする。
けれども人を高みから引き摺り下ろす、そのような小市民的怨念こそ、ニーチェのもっとも嫌った弱者による価値の転覆ではないか。もちろん、ニーチェは聖者ではない。晩年はシチリアで裸になって解き放たれる、奇矯な中年である。ケーラーの本には、ニーチェによく似た、髭の生えた全裸の男性が写っているが、シチリアに裸体の楽園をみつけたニーチェと、ツァラトゥストラの福音を述べ伝えるニーチェは分かちがたく結びついている。
けれどもニーチェの哲学をあれこれの性的情景の昇華と読むのは誤読である。私としてはアーヴィンDヤーロム著の「ニーチェが泣くとき」という小説をお勧めする。ニーチェが感傷的な脆さを抱えた、「偉大な」人物であったことを証言しているからである。ニーチェを性的葛藤の残滓とするのではなく、精神崩壊の瞬間まで偉大さを保ち続けた、戦う牧師の息子として描き切ることができるならば、ニーチェも本望だろう。性的幻想や葛藤は誰にでもある。そこをほじくって詮索するよりも、人間的諸事実を食い破って表に出てくる、哲学的衝動の軌跡を知りたい。
今、私の中で指揮者ラファエル・クーベリックが熱い。
というのもauditeで出ているライブCDを聞いたからだ。最初にベートーヴェンの2番6番を聞き、このシリーズは臨場感があるなぁと思い、それなら、というので、中古CD店で同じauditeで出ているマーラーのライブを買い込んだのだ。簡単に手に入るとは思わなかったが、店頭に行ってみると、ざくざくお宝発見である。4番(未発売)と8番(SACD)以外は全部安価で手に入ってしまった。嬉しい驚きである。
聞いてみると、これが臨場感あふれる抒情たっぷりの名演揃いで、すっかりクーベリック熱が再燃した。DG盤のスタジオ録音のマ-ラー全集も音がこもった感じで切なくていいのだが、ライブの楽しさは格別である。
あんまり楽しいのでオルフェオのブラームス交響曲全集ライブ(これは高価)まで取り寄せてしまった。このクーベリックのブラームス、演奏は完璧のテンポと質感なのだが、auditeのマーラーに比べるとライブの臨場感が消されてしまっていて惜しい所だ。しかも値段が高い。この円高の不況下でこの強気の値段は何なのだ。それにしてもいい演奏ではある。
クーベリックではライブではないが、世界の九大オケを振り分けた珍品ベートーヴェン交響曲全集も音がこもった切ない感じでよかった。けれども、これは、今は廃盤である。あのクーベリックのベートーヴェン交響曲全集が廃盤なんて許せない事態ではないか。すでに名演として定評のある全集なんだから、多少人気がなくてもカタログに常備しておくべきなのである。
今はソニーで出ているクーベリックのシューマン交響曲集を聞いている。クーベリックはスタジオ盤では中庸の美だが、ライブ盤では大きな音を躊躇なく出すし、呼吸が深いので気宇壮大さが味わえる。クーベリックはライブの人という言い方が定着しているが、確かにライブが熱い。だからといってスタジオ盤の価値が劣るわけではない。クーベリックのひそやかな音を好むチェコ的な感性と、バイエルン放送響のドイツ的な響きの溶け合いが独特のクーベリックの世界を展開する。
クーベリックは中庸と言われるが概してテンポも速く、体質的にはテンションの高い指揮者ではないかと思う。クーベリック熱を体験したい方は、まずはauditeのマーラーの交響曲の数々を一挙に聞いてほしい。そうすれば、ライブの人、クーベリックの真髄に触れることができる。
夢には多大な関心を寄せてきた。心理学や精神分析の本も読んだ。ユング派はヒントにはなる。
夢は自分が忘れていることに気づかせてくれることがあるように思う。ジョージ・ハリスンの夢を見た次の日、インドに行ったギリシアの聖人伝を読んだりすると、昨日の夢は前触れだったのかなと思ったりする。
夢占いの本も読んでいる。いちばん詳しいのは、不二龍彦著の、学研の「決定版夢占い大事典」である。不二龍彦氏は虎に咬まれる夢は出世の兆しだと言うが、夢で虎に咬まれたその後目覚ましく出世した覚えもない。つまりこの本はあまり運命の予測にならないが、夢に対して人が持っている俗信や常識的イメージとはどのようなものか教えてくれる。
夢は自分の潜在的興味が向かっている方向を先取りするところがあるようだ。
自分が心の奥で何を欲しているかをイメージで提示してくるのだ。例えば私は夢の中でディオニュソスの巨像を茂みの奥に見たことがある。そのイメージはディオニュソスについての長い文章を導いた。
夢にはプラスの部分と、自分がふだんいやだと思っていることを繰り返し見せるマイナスな部分と両方あるようだ。最近、電車の料金をどんどん割引してもらって楽しく家に帰る夢を見たが、その後気に掛っていることが次々に片付いた。
明恵上人は自分の夢を仏教の修行の進み具合を測る物差しとして用いた。明恵上人にとって夢は仏の世界との交流手段なのである。夢で潜在的な現実と交流することに興味があり、その意味では明恵上人には愛着があり、京都の山寺の高山寺に行ったとき、明恵がかわいがっていた犬の置物のレプリカを買って、机の横に置いてときどき眺めている。「昨日見た夢の続きも知っている、山寺で買った明恵の犬の置物」という短歌を書いてみたりした。ギリシアではアルテミドロスの「夢判断の書」が国文社で出ている。これも運命の予測にはならないが、古代の俗信がわかる珍しい本だ。夢の効用は、本や学説よりも自分の経験と照らして利用するのが、いちばん当てになるようだ。