中古CD店で906円で買ったアルテュール・シュナーベルのベートーヴェン・ピアノソナタ全集聞く。
ミュージカル・コンセプト社製。ノイズが少ないのが嬉しい。
月光だけはSP音源を擦り切れるほど消耗していたせいか音質が今一つ。だが気にならない。
ここひと月ヴィルヘルム・バックハウス、クラウディオ・アラウ、アルテュール・シュナーベルとベートーヴェン・ピアノソナタを万遍なく勉強させて貰った。おまけにパウル・バドゥラ・スコダである。
ベートーヴェン演奏の奥深さに引き込まれるばかりである。
シュナーベルのベートーヴェンは覇気があり快速演奏である。ベートーヴェンらしいアーティキュレーションで一気に弾く。戦前とは思えない音質である。EMI盤よりリマスターが優秀。
ヴィルヘルム・バックハウスの旧盤は乾いた音質で折り目正しいがおもしろい演奏。
クラウディオ・アラウの新盤はかみしめるようにゆっくりと弾く。実に瞑想的。老境に到達した自在境を聞き取れる。
クラウディオ・アラウ・ヘリテージは大方揃った。珈琲をこぼして染みをつけてしまった箱には白のmtマスキングテープを貼ってきれいに補修した。私としてはこの補修に満足である。
ブログのアクセス解析を見ると、趣味のクラシックの記事よりもむしろ早期に力を入れて書いた哲学や心理学のページが後々まで読まれている。
私としては初期の頃は事情通に読まれたくて哲学や心理学に力を入れていたが、最近ではクラシックの雑談ブログと化している。初心に戻って入魂の学術ブログも書いてみようか。
ただ、哲学や心理学の記事は新着でアップしたときにほとんど人が来ないのだ。
けれど後々検索して読みに来てくれる人もちらほらいるのだから無価値とは言えない。
学術的に書いても出版社の目に留まることもないし、クラシックの雑談ブログはお気楽で性格に合っている。
みんな違ってみんないい。音楽は日々の糧なのだから、音楽雑談ブログも誰かが読むだろう。
クラウディオ・アラウに熱い思いが止まらない。
幾重にもピアノソナタを聞き尽くし過去の自分の残響を思う
クラウディオ・アラウ・ヘリテージ・ベートーヴェンを安価で入手した。ラッキーである。
入手困難盤なので喜びもひとしおである。
クラウディオ・アラウのベートーヴェン・ピアノソナタ新盤はかみしめるようにゆっくりと弾く。実に奥深く瞑想的な演奏である。
時折指が回らないが、心配無用の至福の演奏である。アラウの老境に到達した自在境を聞き取ることができる。オリジナル・マスターに編集ミスがあるそうで道理で再発売されないはずである。だが私は喜んで聞いている。かつて聞かせてくれた学友に感謝である。
その学友が6月の末にヴァレリー・アファナシエフのバッハの平均律クラヴィーアの演奏会を聞いてきたとブログに書いていた。CDで聞くと気ままでとらえどころのない演奏だが、実際聞いてみるとシャイで優しい印象だったという。最近のアファナシエフは暗くないらしい。
私もアファナシエフの平均律クラヴィーア持っているので久しぶりに聞いてみた。速弾きしたり、めっぽう遅く弾いたり、強者である。だがバッハらしい知性が聞き取れる。私もトッパンホールで聞きたかった。
最近知人の勧めでメンゲルベルク指揮のバッハのマタイ受難曲を聞いた。フィリップス・デュオの二枚組である。ふつう三枚組のところ二枚に収めているので160分ぎっしり詰まっている。
最初はやけに古い録音だなと怪訝に思ったが聞いてみると超感涙である。参加している一人一人が自分の力を最大限生かし切っている。第二次世界大戦直前のオランダで聖なる日に演奏された奇跡の名演である。
名曲喫茶で感激して教えてくれた知人であるが、確かに心打たれる演奏である。メンゲルベルクは大時代的な交響曲演奏で知られているが、マタイは別格である。
幸運に手元に着いた名盤のピアノの指でまた夢を見る
去年のふかわりょうと遠藤真理のきらクラで掛かった
アルヴォ・ペルト「鏡の中の鏡」は単純なピアノに
ヴァイオリンが淡々と変奏を乗せてゆく美しい作品。
ピアノを鐘のように鳴らす「アリーナのために」という曲と
一緒にアルバム「アリーナ」に収められている。
「鏡の中の鏡」はギャビン・ブライヤーズの
「タイタニック号の沈没」の導入部を思わせる
静かな悲しい美しい繊細な曲で小品ながら珠玉の名曲である。
同じくラジオを聞いて感動した曲がゴンチチの
世界の快適音楽セレクションで掛かった
ムスタファ・スカンドラニという人のピアノ。
これはアンダルシアの古典イスラム音楽に即興を加えた作品で素晴らしい。
何が凄いかといえばこれはシタールのような旋律を
ピアノで弾くのである。
ふつう、ピアノとはシタールのようには弾けない構造になっている。
だが、ムスタファ・スカンドラニは弾くのである。
シタールのようなピアノ。空前絶後の録音である。
アンダルシアの古典イスラム音楽をピアノに
置き換えるという発想は稀有だった。民族音楽のピアノ版、貴重である。
聞いてみてこれはシタールの音階ではないという人もいるだろう。
あくまで私の聞いた主観で、シタールのようなピアノと呼んでいる。
ラジオを聴いていると時々自分の語彙にない音楽が訪れる。
貴重な音楽との出遭いが重い気分を軽くしてくれる。
突然に閉じた扉の戸を叩く見知らぬ土地の曲の訪れ
ヴィルヘルム・ケンプの新盤のベートーヴェン・ピアノソナタ聞き直す。
ヴィルヘルム・ケンプのピアノはよく歌うピアノである。
たおやかで自由な、聞く者を受容するような優しい懐の深いピアノである。
ヴィルヘルム・ケンプのピアノは明朗な肯定の響きである。
代々教会のオルガン奏者の家系だったヴィルヘルム・ケンプには折り目正しい要素がある。
バッハ的な土壌のうえに花開いた美しいベートーヴェン演奏の系譜である。
ヴィルヘルム・ケンプの柔和な人柄をピアノ演奏が見事に表わしている。
何とも憎めない可憐なところがあるピアノの響きである。
適度に強弱をつけているが、誇張したところがまるでない。
飴色の蜜が森を潤すように聞く者を包み込むピアノ演奏である。
全ての疲れた者を憩わせてくれる木洩れ日のような温和な響きである。
音符の一つ一つが慈雨のように降り注いで尽きることがない。
飾り気のない暖かさを感じることのできるピアノ演奏である。
ヴィルヘルム・ケンプのピアノは希望とは何かを教えてくれる。
真摯な打鍵のなかに希望の息吹が込められている。
構築性よりも歌心を重視したところがヴィルヘルム・ケンプの切り札である。
繰り返し音楽愛好家が帰ることができる慈愛の響きがここにある。
旋律を慈しみながら演奏しているのが演奏から伝わってくる。
音符の間に親しみのある行間を作り出す感覚が豊かである。
うまいピアニストは多数いるが出汁の利いたピアニストは稀有である。
ケンプのピアノの抒情性はことばで言い尽くせない深い淵である。
旧盤のやや武骨な音作りに対して新盤は福音のようである。
ヴィルヘルム・ケンプ盤に針を落として憩えるのは感涙である。
飴色の蜜が辺りに滴って生き物たちが憩う森林
ヴィルヘルム・バックハウスの旧盤のベートーヴェン・ピアノソナタ着実によい。
ピアノの音と演奏は素晴らしい。
録音には1950年代らしさが漂っている。
古き良き時代の録音である。
バックハウスの演奏はウェットなところがなく、乾いた演奏だが朴訥な抒情性がある。
バックハウスはドイツ的精神性があり、ケンプは慈父のような抒情があるとされる。
けれども、バックハウスにも乾いた叙情性が聞き取れる。
時々指が気ままに動く。そこに好感が持てるのである。
真面目な人柄が感じられる剛直な演奏だが、音と音の間に品格がある。
バックハウスの中期のソナタの演奏は時に力が入り、鬼気迫るものがある。
月光も熱情も悲愴もワルトシュタインも告別も自然体で弾いている。
そのバックハウスの自然体の指使いが、今となっては貴重なのである。
バックハウスが弾くと木目調の自然体な音が場の空気を好ましくする。
バックハウスの控え目な指使いがベートーヴェンの依り代になって、音楽を奏でる。
デッカはいい演奏を記録してくれたものだと感心せずにはいられない。
交響曲でいえばコンヴィチュニーのような、あるいはルドルフ・ケンペのような存在だ。
古き良きドイツの自然体の演奏を聞かせてくれる貴重な存在である。
厳めしい顔つきを裏切らない実直な指使いがとても快い。
厳しい風土にぽつりと野の花が顔を出す。そのような瞬間がこの演奏にはある。
いい演奏に出会えて幸いである。至福はそう思える人たちのものである。
剛直な精神性がほころんで時折見せる永遠の詩情