午前中は府中に用事があって出かける。
用事無事終わり12時半に連れと待ち合わせて原宿の東郷神社鳥居前で同窓生たちと会う。
東郷神社の鳥居は表参道から明治通りを左折し、ラフォーレの前を通り過ぎ、竹下口を過ぎ、セコムのビルの手前にある。
Мっちゃん、K島君、K野さん来る。
東郷神社鳥居向かいのイタリア・リストランテでお祝いの会。
Mさきさん来る。アリス・リデルのお父さんはリデル&スコット辞典で有名な人と言って驚かれる。
スパークリングワイン、前菜の鴨のサラダ、パン、ラザニアスパとふつうのスパゲティ。
最後にお菓子に特別俳句が書いてあるお皿のデザートとコーヒーを食す。
ああ楽しかった。
東郷神社から竹下通りを抜けて帰る。
新宿のホームでМっちゃんは高円寺に向かう。
残された私たちは東口ベルクに行くが立ち飲み客で満杯。
なのでルミネエスト5階のサンリオカフェでクラヲタトーク炸裂。
エミール・タバコフのマーラー全集は爆演系で面白い、
ジョナサン・ノットはナクソスでもいい仕事をしていたがバンベルク響のマーラー全集が堪らなく良い、デュ・プレは映像で見る限り人間的に魅力がある、
ショルティはバラで買ったのを売って、ボックスでワーグナー全集を持っている、
バレンボイムのワーグナー全集も半分聞いたがよかった、
ジンマンのグレイト・シンフォニーズは売った、
ホロヴィッツのオリジナルジャケットコレクションは5千円で売った、
ウィトゲンシュタインは面白い、
バタイユの位置づけは難しい、などと話す。1462円。
帰ると何通かメールを頂いていた。
サバとたらこと炊き込みご飯の弁当食べる。純粋な言葉の贈与を出しに行く。
お祝いで神社の前で面白い俳句の書いたお菓子頂く
最近エロティシズムの歴史をノートにまとめた。
ふつう、哲学史ではスルーされる。
結構、人生のいけない部分を教えてくれる貴重な本なのだが。
実家の消火器の処分に困る。
結局ゆうパックと提携している会社に任せることにした。
消火器ビジネス、ヘルプレスである。
今日はワルター・ギーゼキングの後期ベートーヴェンや
平均律クラヴィーアを聞いた。
友人が中世神学は勉強になると言っていた。奇特な人である。
私が欲しいCDステレオがネットで出ていた。
今買っておかなければまた品切れになる。
だが今は買えない事情があるのだ。
長年温存していたテレビデオを処分することにした。
VHSプレーヤーがあるので地デジのテレビに
外部端子で繋げば見れると気づいたのだ。
ウンタマギルー、ドリームチャイルド、バロウズ、
などなどDVD化されていないビデオが一杯ある。
捨てるのは惜しいので取っておいてよかった。
場所を取るテレビデオさん愛着は有るけどさようなら。
書類が2月1日必着と書いてある。
だが書類に書くべき資料がまだ届いていない。
一体どうすればいいというのだ。書類間に合わなくても
何とかなるだろうか。年度末は綺麗に終わりたいのだが。
最近バックハウス新盤が安いが箱違いで同音源を持っている。
10年前は倍価格だったじゃないか。高く買った同好の士に同情。
よく笑う気さくな母に残された時計の砂が果てた季節に
このところ、バタイユを要約するのがなかなか終わらない。
昨日はジョナサン・ノットとバンベルク響のマーラー全集数枚聞く。
バンベルク響のドイツ的な響きにマーラーを委ねたジョナサン・ノットの狙いは当たった。
私の時代が来る、か。マーラーも大胆に言い切ったものだ。
マーラーがキターと思ったのはいつ頃なのだろう。もう交響曲1番からして凄い。
復活も第九並みに凄い。
3番は長すぎるがアダージョが美しい。
4番はロマンティックな逃避行である。
5番もかっこいい。これもアダージョが美しい。
6番は強迫的なリズムと耽美的なメロディが交互に移り変わる。
7番も地味に良い交響曲である。
千人の交響曲を書いたとき、宇宙そのものが鳴っているとマーラーは豪語した。
9番は現代音楽的な感覚と彼岸への憧憬がある。
大地の歌は寂寥感あるが諦念を抜けた救いの兆しで終わる。
この前インキネンのブルックナー8番に行った。
音の層が分厚くて立体的だった。
聞くエステである。
濃密な美感が味わえた。
聞くエステと言えばオーマンディのブルックナーを思い出す。
ブルックナー8番を生演奏で聞くのは初めてだった。
ブルックナー7番を京都市響の演奏で聞いたことがある。
ブルックナー9番をアファナシエフの指揮で聞いたこともある。
意外と4番、5番を聞く機会がなかった。
交響曲の演奏会の前は遠足に行く気分である。宇野功芳氏と同じ気分。
久々に交響曲に逃避行遠足に行く子にも返って
先週はポール・ラディンの神話の本をメモる。
きのうはチョムスキーの生成文法の企て読む。
有限な文法規則から無限な文を創り出す能力を人は持つ。
その言語生成能力を記述する文法を生成文法と呼ぶ。
言語と共通の根を持つのに数学がある。
生成文法は言語能力の獲得に関心を持つ。
そのためサピエンス全史と生成文法が交差する。
きのうは東浩紀も読んだ。
ハイデガー、ラカン、ジジェクなどの肝心なことは語れないという
否定神学を抜けて、言いたいことが届くかわからないという郵便的不安
を乗り越えて、無意識の転移と逆転移による理解に希望を繋ぐのが東浩紀。
こんな自由に思想を裁断してもいいのか。参考になる。
古東哲明の存在神秘の哲学も読む。
ハイデガーは在るということの物凄さに撃たれる存在神秘の体験をした。
その経験がハイデガーの著作を一貫して支えているという仮説。
古東さんも自由に書いちゃっている。参考になる。
昨日はフルトヴェングラーのベートーヴェンライヴ、
ワルター・ギーゼキングのベートーヴェンソナタ、
バリリ四重奏団の芸術のベートーヴェン聞く。
バリリ四重奏団のベートーヴェン、ベートーヴェン四重奏曲の演奏
では断トツに美しい。
迷宮の読書の旅を一休み美しすぎる四重奏に憩う
対話で入門西洋史半分読む。
オランダが独立したところまで読む。
西洋史の本まだ残り山積みである。
ギーゼキング・ポートレートのベートーヴェン、バッハ聞く。
ギーゼキングの平均律クラヴィーア淡泊で聞き易い。
ギーゼキングは新即物主義などと言われるが、実は可憐である。
菜食主義者で蝶のコレクターという感性が音に出ている。
明日はヴェーグ四重奏団の芸術が来る。
ヴェーグ四重奏団の旧録音を集めたものだ。
ヴェーグ四重奏団のベートーヴェンの新録音は高価だ。
ギーゼキングはモーツァルトも実に可憐で美しい。
ドラマ『すいか』と同じ脚本家の木皿泉の『富士ファミリー』今年も放送。
ビリー・ブラッグの曲にミルクマン・オブ・ヒューマン・カインドネス
というのがあった。
人の幸の牛乳配達人である。
ビリー・ブラッグは方言が強いが庶民の機微に触れた素朴な弾き語りが多い。
ラディンの神話の本も読み掛けである。
束の間の休日にワタボクのコーヒーを飲み
ヤマザキのパリジャンをかじりながら、
日々の浮き沈みに備えてギーゼキングの平均律聞いている。
最近、平均律尽くしでラッキッキである。
年末、ラジオでフルトヴェングラーのもう一つのバイロイトの第九聞く。
多分オルフェオ盤のバイロイトの第九である。
年末は炎のコバケンの第九を聞いた。本人会心の出来だと言っていた。
今年も長く曲がりくねった道である。
淡泊な平均律を聞きながら未知の航路へ漕ぎ出して行く