探していたアルド・チッコリーニのベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集を中古CD店で発見。
ほんとはコーヒーをこぼして滅茶苦茶になったカプリッチオのマーラーを買おうと思ったのだがなかった。
先日は閉店したとばかり思っていた下北沢の喫茶店「聖葡瑠」が本多劇場の下の商店街を抜けたところに移転していたのに気づき、嬉しい驚きだった。
チッコリーニのベートーヴェンピアノソナタ全集を聞いている。
曲順がピアノソナタの番号順ではなくて、割とランダムに並べてある。
この辺が売った人が売った原因かもしれない。
私は曲順がランダムでも結構。
チッコリーニはさらりと流して弾かず、アクセントをつけて癖のある弾き方をする。
それが、自分流に弾いていますよ~という感じで自由度が高い演奏となっている。
最初から月光である。
この単刀直入な並べ方が好ましい。
最後の30番台のソナタなど続けて聞きたい人も多いと思う。
だがランダム選曲に慣れてしまえば、次はこの曲かと意外な発見がある。
チッコリーニはサティ・ドビュッシー全集を堪能したが、このベートーヴェンも
相当楽しめそうだ。
最近願い事が叶わなかったり、ほしいものが手に入らなかったり儘ならない毎日だが、
ひょっこりと生活圏にチッコリーニのベートーヴェン・ピアノソナタが
顔を出した。
ひとつ、チッコリーニの永遠の無垢を惑溺するほど聞き込もうか。
偶然手にしたチッコリーニのベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集に
日々の灯りを見る思いである。
とらわれず自分の勘で弾いているピアノ詩人の澄みきった無垢
東京都現代美術館でオノ・ヨーコが展覧会をしたときに、
ウィッシュ・ツリーという名前だったと思うが、
願いを書いて木に吊るしてもらう作品があった。
七夕の短冊をアート化したような作品である。
その記憶のせいか、私の夢の中にオノ・ヨーコが出てきて、
ポエトリー・ボックスという作品を展示していた。
来場者が一行の詩を書いて箱の中に投げ入れる作品である。
簡単に言えば詩の賽銭箱のようなものを
作って詩を投げ入れてもらう。
今日気づいたがちょっと面白いアイディアである。
ポエトリー・ボックスということばはあるのかと思って検索したら、
結構そのことばを使っている人はいる。
だが、詩の賽銭箱というイメージはなかなか無い。
ウィッシュ・ツリーのようにポエトリー・ボックスも
詩の賽銭箱としてアート化すると面白いアイディアである。
ついでに言えばポエトリー・おみくじというか
おみくじを引いて、出てきた番号の紙を受け取ると
そこには偶然引いた一行の詩が書かれている、というのも
思いついた。
作家と観覧者が交信できるところが面白い。
ポエトリー・ボックス、ポエトリー・おみくじ
など寺社の古来の意匠が形を変えて
アート化されるというのは考えてみれば
美しい思いつきである。それが私の見た夢で得た
アイディアなのも憎めない。
一行の詩を書いて貰って投げ入れる詩の賽銭の箱を夢見る
クーベリック・シンフォニー・エディションが今日到着した。
ハイティンクと同じく縦長の内箱にふたを被せるタイプだ。
クーベリックの渋い写真が白黒で印刷されている。
さっそく、ベートーヴェン交響曲全集から聞いている。
一番、二番、英雄、八番、四番、田園、運命、七番、第九と並んだ順に聞いている。
クーベリックは偶数番を得意とするが、英雄、運命、七番、第九も名演である。
世界の9大オケを振り分けた珍しい全集として知られている。
高音から低音までよく鳴る盤である。高音が強めに聞こえる。
最近、エルガーやディリアスを好んで聞いていた。
エルガーは聞き終えたがディリアスは道半ばである。
そんな折、クーベリックが届いた。
またベートーヴェンやマーラーやシューマンやドヴォ全である。
盤の違いを聞き比べするのが楽しい。
ベートーヴェンはイタリア盤と日本盤を聞いたことがある。
今回のEU盤はイタリア盤に音が近いが、ピッチの違いは修正されている。
日本盤が一番音を幅広く拾っているが、EU盤の乾いた響きも好ましい。
これからしばらくはクーベリック三昧で音楽に耽溺したい。
これから何週間もマーラー、シューマン、ドヴォ全を聞き続けるのが楽しみだ。
最近、堅実な指揮者のエディションが時折発売されるのが嬉しい。
持っているCDを取り替え引き換え聞いて、日々を乗り切りたい。
ドイツグラモフォンの名盤がまとめて聞けるのは嬉しい限りだ。
堅実な渋い指揮者の集成を取り替えて聞く初夏の僥倖
上野の公演口の東京都美術館で開催されている、バルテュス展に行ってきた。
夜のせいか比較的空いている。バルテュス展のポスターになっている絵が何とも官能的である。
バルテュスといえば、哲学者ピエール・クロソフスキーの兄弟である。クロソフスキーと言えば、『生きた貨幣』や『ディアーナの水浴』など鋭い洞察力のある哲学書で知られている。
またバルテュスもピエール・クロソフスキーも哲学者のジョルジュ・バタイユやロジェ・カイヨワの盟友であり、いっしょにアレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル講義などを聞いて哲学談義に明け暮れたことで知られている。その仲間に若き日の岡本太郎も交じっていた。
日本には黒い表紙のフランス系難解書と呼ばれる一連の分野があって、その中央を占めるのがクロソフスキーやバタイユのあぶない著作である。
その錚々たる知識人の青年群像の中で、バルテュスは静かに眠れる少女の寝姿などを黙々と描き続けた。
その主題的あやうさが時として話題となるバルテュスであるが、その官能性は意外と控えめである。
一生涯、伴侶の節子クロソフスカ・ド・ローラさんとともに少女の永遠性を晩年まで追求し続けたバルテュスである。
その最晩年のモデルを接写したリアルな写真集が部数限定で売られていた。
有名な暖炉の横で足を投げ出して眠っている少女の官能美を描いた絵が実物を見ると凄いアウラを漂わせていた。
連作猫絵画ミツという小品集が猫の描写が細かく、子どもでも微笑んでしまう親しみやすい作品群だった。カップルで見に行くのも躊躇われるし、家族連れで見に行くのも躊躇わられる。
そのような秘密の薫りがするバルテュスの展覧会が上野の真ん中でひっそりと開催されている。
フランス文学や絵画に関心のある人にとっては、実に奥深く、心ひかれる展覧会であった。会場で上映されていたバルテュス伝のDVDは京都の芸術センターで借りて見た思い出がある。心ひかれる映像である。
長細い少女の脚の永遠をひたすら追った老画家の祈り
カルロ・マリア・ジュリーニのソニー録音集を聞いて連休を過ごしている。
昨日はモーツァルト39番、未完成、グレイト、田園を聞いた。
今日はドヴォルザーク7番、9番、フランス音楽集を聞いて、今モーツァルトの40番、41番を聞いている。
あまりによく知られた有名な旋律も、ジュリーニが振ると、悠大で張りのある名演となる。
ミラノ・スカラ座フィルのベートーヴェンの交響曲だけは単売で持っていた。
ところが、その他は重ならず、一枚一枚新鮮な感動に満ちている。
明日はジュリーニではなく、エルガーの管弦楽集を聞く予定。
連休中に交響曲や管弦楽を浴びるように聞くのはひじょうに快適である。
珈琲を飲みながら宗教史の数冊を手に取って読み、交響曲に浸る。
天気もいいので晴々とした気持ちになる。
クーベリック・エディションは連休に間に合わなかった。
だが、ジュリーニ&フィルハーモニア&クラウディオ・アラウのブラームスの響きに感動して耳を傾けている。
また、ジュリーニのソニー録音集の後期ジュリーニの悠久の耽美的な響きを堪能している。
それに加えて、エルガー名曲集の威風堂々とした調べで、連休後半も晴々とした時間を過ごしたい。
ジュリーニのモーツァルト、堂々とした佳演。
このようなモーツァルトなら、連日聞いてもあきることがない。
このあとモーツァルトのレクイエムを真摯に聞くつもりである。
初夏の日差しを浴びて大指揮者の遺産を心行くまで味わい尽くしたい。
ギュンター・ヴァントもカルロ・マリア・ジュリーニも
私はどちらにもかけがえのない個性があり、どちらも素晴らしいと考える。
カール・ベーム、ベルナルド・ハイティンク、ラファエル・クーベリック、そしてジュリーニ。
どれも異なっていてそれぞれに素晴らしい。
連休に交響曲を浴びながら手足を伸ばし振出しに戻る