ハイデガーの「ニーチェ」の同じものの永遠回帰の部分を読む。今、この瞬間が過去にも無限回あったし、未来も無限回繰り返されることが決まっているというこの恐るべき観念は、思想のなかの思想だという。この永遠回帰はテキストで主に三度登場する。最初は「悦ばしき知識」の終わりに打ち明けられる。この過去と未来の無限回の繰り返しの思想に君は耐えられるか、というものである。一体この恐ろしい永遠回帰の着想のどこが「悦ばしき知識」なのか。永遠回帰の思想とともに一つの時代が終わる。ニーチェによれば、「そして悲劇は始まる…」である。
二度目にテキストに現れるのは「ツァラトゥストラ」の山の途中の門の前である。行く道と帰る道を前にしてツァラトゥストラは侏儒に向かってこの二本の道はどうなるかと尋ねる。侏儒はいとも簡単に謎解きをする。二本の道は永遠の時を経てやがて合流する。過去と未来は輪のように円を描いている…。侏儒は自分の言ったことの重みに全く気付いていない。彼は小さき者、お終いの人間なのである。けれどもツァラトゥストラはこの到来した思想の重さのために寝込んでしまう。「ツァラトゥストラ」の回復しつつある者の章で同じ思想が蛇と鷲というツァラトゥストラの友に語られる。蛇はとぐろを巻き、鷲は高みを旋回する。両者はともに輪を描く永遠回帰の象徴である。蛇と鷲は祝いの戯れ歌で返すがツァラトゥストラは満足しない。ツァラトゥストラは何よりも永遠回帰の教師として創作された人物である。
三度目にテキストに現れるのは「善悪の彼岸」のなかである。これ以降ニーチェは主著となるはずの「力への意志」を構想する。哲学史家は永遠回帰の思想が後退し、力への意志へと関心の中心が移って行ったというが、これは違うとハイデガーはいう。「力への意志」の構想期にあっても、同じものの永遠回帰の思想は、二ーチェの哲学の中心にあって、決して後退してはいなかった。
存在者の本質は力への意志である。これは存在者は生成し続けると言い換えが利く。力への意志は存在体制であり、永遠回帰は存在様相である。力への意志とは究極的には、生成に永遠的な存在の刻印を押すことになる。生成に永遠的な存在の刻印を押すというのは、力への意志は永遠回帰であるということである。
この結論によってニーチェは形而上学の完成者となり、形而上学の可能性を汲み尽くし、西洋のニヒリズムの超克を行った。哲学の根本的な課題は、存在者とは何かを問うことである。存在者の本質は体制としては力への意志であり、様相としては同じものの永遠回帰であると答えることで、ニーチェは形而上学の時代の輪を閉じたかのように見える。だが、下巻の主旨を先取りすれば、ニーチェ哲学では真理は人間が決める。ニーチェの形而上学は真理の人間化であり、本当の意味で始原に帰って答えを出したのではないとハイデガーは考える。形而上学は克服され、人間中心ではなく存在の声に謙虚に耳を傾ける者が必要だとハイデガーは言う。
行く道と今来た道は輪になって繋がっている耐え難き永遠
ジョージ・ハリスンの遺作ブレインウォッシュドは彼の最後の底力を振り絞ったアルバムだ。癌の闘病生活中の心境が吐露されていて衝撃的である。中でもルッキング・フォー・マイ・ライフ、スタック・インサイド・ア・クラウド、ラン・ソー・ファー辺りが深刻である。
ルッキング・フォー・マイ・ライフでは「神よ、今こそぼくの話を聞いてもらえませんか、愛する人、なんとかしてあなたのもとに帰りつかなければ、知りませんでした、人生がこんなに危険をはらんでいるなんて、いつも楽しいことしか見ていなくて、知りませんでした、暴発することがあるなんて、でもはじめてわかったんです、ひざまずいて自分の人生を探したときに」と歌われている。人生が危険をはらんでいて暴発するなんてこの年まで知らなかった、と告白するのである。
スタック・インサイド・ア・クラウドはさらにリアルだ。「こんなに眠れなかったことはない、こんなに煙草が増えたことも、集中力をなくし、どんどん駄目になってしまいそうだ、独り言を言い、大声で泣き叫んでも、聞いているのは自分だけ、ぼくは雲のなかで動けない、病気の展覧会ができそうだ…」と切実な苦しみを隠すことなく歌っている。
ラン・ソー・ファーも自分の苦境を歌っている。「きみにはわかっている、逃げ出すことなんかできない、自分から隠すことなんてできやしない、孤独な日々、ブルーなギター、逃げ道はないんだ、少しは逃げられても」と絶望に直面した心境を語る。
息子のダーニ・ハリスンとビートル・マニアのジェフ・リンのプロデュースで、ライジング・サンなどは、ビートル的な音作りがされているところもファンにはありがたい所だ。ダーニ・ハリソンはユー・チューブで見るとジョージ・ハリスンそっくりで頬がこけ、声も似ている。このアルバムでは他にパイシズ・フィッシュ(魚座)と表題作ブレインウォッシュドが素晴らしい。「軍隊に洗脳され、強圧的に洗脳され、メディアに洗脳され、きみはマスコミに洗脳されている、コンピュータに洗脳され、携帯電話に洗脳され、人工衛星に洗脳され、骨まで洗脳され、神よ、神よ、神よ、この混乱状態から導き出してください、このコンクリートの土地から、無知ほど始末の悪いものはありません、ぼくは敗北を受け入れません、この腐敗を止めることができたら、いっそ神がぼくらを洗脳してくださるといいのに」
神に洗脳されるのも困るが、現代社会の病理を洗脳という切り口で斬ったジョージ・ハリスンの遺言状はどこまでも痛い。人生には避けられない末路がある。出口のない闇もある。けれどそれをマイクを握って最後の力を振り絞って訴え切ったジョージ・ハリスンはある意味で幸せだ。突然命を絶たれることも、意志の自由が利かなくなることもあるのだから(訳詞は国内盤より一部改訳)。
静かなる魚座の遺言が60億の闇を照らして
シネマ・コンプレックス型劇場で映画「マザーウォーター」を見る。すいか、かもめ食堂、めがね、プールでおなじみの役者陣、スタッフである。
市川実日子は今回は豆腐屋さん。白い頭巾と仕事着が凛々しい。豆腐を扱う手つきも手慣れて見える。
テレビドラマ「すいか」で横領罪で逃げ回っていた小泉今日子が陽射しの温かい喫茶店主で、ようやく居場所をみつけた感じだ。珈琲一杯400円。
小林聡美は一杯千円で山崎のウィスキーの水割りやロックを出すバーの店主で店には「適当に」花を植えた庭やテラスがあり、ここのテラスでよくカツサンドを作って食べている。
加瀬亮はその客で椅子職人で何気ない会話を小林聡美と楽しんでいる。店の仲間が失踪したのを喜ぶ自分に悩んでいる。
光石研は風呂屋さんで町中に愛されている赤ん坊ぽぷらの父親。
永山絢斗は風呂屋の手伝いをする、親の転居に付き合うか悩める若者。もたいまさこは町中をうろうろする沼の主みたいな存在。鴨川沿いの何気ない日常を描いている。
登場人物は皆標準語で京都人ではない、どこからか辿りついた人たち。登場する中高年が、その年齢なりに重ねてきた年輪を生かして自信たっぷりに生きている。
平穏な楽園の情景描写。
大人たちは、今はここにいるけど、別の場所に流れるように移っていくかも知れないと覚悟している。けれども町の空気感を皆が愛している。
見ているとこんな町の一員になれたらいいなと思わせる見えない絆で結ばれている。
光石研の赤ん坊ぽぷらちゃんを登場人物が代わる代わるあやして歩くのが、クラの交易みたいな一種のコミュニケーションになっている。ぽぷらちゃんが登場人物たちに次から次へと手渡されるように、幸せの循環が隠れテーマになっている。光溢れる瞬間瞬間がまぶしく描かれる美しい映画である。
何も起こらないけど登場人物の背景を想像させる奥行きのある作りになっている。
何気ないけどいとおしい日常の断片がスクリーン一杯に描き出される。
こういう映画が成り立つこと自体、貴重である。スタッフもその辺はよく心得ているように見える。
平穏な光溢れる情景で 流れ続ける幸の循環