ウラジミール・フェドセーエフのチャイコフスキー交響曲4番聞く。
これでフェドセーエフのチャイコフスキー交響曲そろった。
今日は読んだ本の抜き書きをパソコンに打ち、最後にヘルマン・ヘッセ読む。
ヘッセの「地獄は克服できる」完読した。
ヘッセは言う。世間に融け込み、世間で自己満足するのは容易いが良心はそれを拒む。
富を失って富への信仰が揺らぐことは不幸ではない。
人生の偶然を許すことが必要なのだ。
私はやがてこの世を去り、けれども私はまた赤ん坊として生まれ、
しわくちゃな老人さえも微笑ませ、大人になると若い娘たちと遊び、また世を去る。
いつか私が生まれるのを止める時が来るのか。
この世を笑って、笑って、笑うために、などと書いてある。
また技術文明の圧迫が感じられる列車旅行を途中駅で下車することで抜け出す悦び、
十字架のキリストでさえも広告に利用する現代の性質の悪さ、
有益な発明に対する嫌悪と、無益な浪費の祝典である打ち上げ花火の素晴らしさへの感動、
人生は無意味であると思っても声に出して言うことで何かが変わるという助言、
自然への信頼と詩という手段がなければ人生は耐えがたいものだったという告白、
モーツァルトやあらゆる文化の本質としての快活さへの賛辞、
すがすがしくこの世に別れを告げる詩などが書かれている。
ヘッセの「地獄は克服できる」は内面の困難や生きにくさへの対処法が
あれこれと手を尽くして書かれている名エッセイである。
世間嫌いで厭世家のヘッセがどうやって希望をつないできたのか
が彼の肉声で綴られている。全ての生きにくさを抱えている人の
必携書である。私もヘッセの辛辣な声やユーモアや希望に
何度相槌を打ったかわからない。ヘッセのエッセイは珠玉の作品である。
次はヘッセのどのエッセイを読もうか。今から楽しみな私である。
列車から衝動的に下車をした名も知らぬ地の湖畔で憩う
最近ヘルマン・ヘッセの「地獄は克服できる」を引き続き読んでいる。
ヘッセによれば、神が息を吸うように万物は滅し、神が息を吐くように万物は生まれる。
抵抗してはいけない。
不安を免れるには運命の手に身を委ねるしかないとヘッセは言う。
遅かれ早かれすべては神の永遠に帰る。
仏教の言う涅槃もそのようなものではないかとヘッセは想像する。
時代のために戦争恐怖で神経症に掛かり、やがて自分は永遠の自己であると知り、
仏教に開眼する。そのような、自分とほぼ同じ経験を書いた本を読み、
ヘッセは驚愕する。
そこまで読んで本を閉じた。
昨日は友人から電話で豪徳寺で待ち合わせる。
豪徳寺のサンマルクカフェでプレミアムココアを飲んでメモ書きして待つ。
仏教の無所有処とはそこには何も存在せず、見るものと見られるものの区別はないという三昧の境地。
非想非非想は思うでもなく思わないでもない三昧の境地と最近読んだことをメモする。
友人が時間通りに来て、二人でパティヤラパレスに行く。
ヘッセがノーベル賞を取ったのはガラス玉遊戯という小説だが、彼のエッセイばかり読んでいると話す。
友人は京都の千本閻魔堂に行き、親父をよろしくお願いしますと祈ってきた、と喋る。
髪型がブリジッド・フォンテーヌみたいだなと友人が言う。
店長はパティヤラパレス銀座店を出店する、と言っていた。
豆のカレー、フィッシュカレーとナンとシシカバブとドリンクで計4139円。
ギュンター・ヴァントのブルックナーの9番を聞いて帰宅。
先日ヘッセの「わが心の故郷アルプス南麓の村」を受け取る。
フェドセーエフのチャイコフスキーの4番が届くのを待っている。
故郷にやがては帰る道行きの旅の途中の美しい空