日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

遊びの質。

2015-09-25 22:44:00 | 発達応援
今年は9月に入ると涼しくて、鹿児島も一気に秋になった感じで、この分だと冬が来るのも早いかなぁと思っていました。

秋モードに体もなっているのに、昨日、今日と暑くて汗が流れます。この気温の変化に体がついていかず、ちょっとだる重い感じです。意識して過ごさなくては体調を崩すので気をつけなくては!ですね。

今日は年中さんの子どもと算数教室の日でした。私が行くと「遊ぼう!」とキラキラしているので、今日もまず、大いに遊びました。

今日の遊びには、「うさぴょん」というふわふわのうさぎのぬいぐるみが加わりました。

うさぴょんを投げて、キャッチする遊びがスタートです。子どもはトランポリンが好きで離れず、飛び続けているのでなかなかうまくうさぴょんをキャッチできません。

すると、「スーパービームね」と言って、うさぴょんを力一杯投げてきました。では、お返しに、と私が力一杯うさぴょんを投げるマネをすると、「ダメだよ!まゆたんはうさぴょんを落としてないから、スーパービームでは投げられないんだよ!」と言い出しました。へぇ~、そうなの⁉︎と思い、次はキャッチせずにうさぴょんを落とすと、「まゆたん、落としたからスーパービームで投げられるけど、1回しか落としてないから、1回しかスーパービームは使えないよ!」と言います。

私が「えーっ!スーパービームでたくさん投げたいな!」というと「僕みたいにたくさん落としたら、100回使えるんだよ!」といい、あらぬ方向にうさぴょんは飛んで行きました。

すると今度は、投げたうさぴょんを手で打ち返す、足で打ち返すというので、そういう遊びになりました。なかなかタイミングが合わず、うまくいきません。うまくできたとき「ナイス!」というとだんだん要領を得てきて、長い距離から走ってきて、うさぴょんを打つというふうに、遊びがちょっと難しくなりました。
そして、最後は鬼ごっこで終了でした。

トランポリンを飛ぶ→うさぴょんをキャッチする→スーパービームでスピードをつけて投げる→打つ・蹴る→走ってきて打つ→走り回る。

4,50分の中で、子どもの遊びは様々に変化しました。これは子ども自身が、自分に必要な体の使い方の変化として起こったことなのかなぁと思いました。

と、同時に20分でもいいから、同じ遊びで少しバリエーションを変化させた方が、子どもが自分の体を自分で微調整していく力を育んだのではないかなぁ、という反省もしました。

遊びの中で設定するルールも、こちらからすると急に突拍子もないこと思いつくなぁ、ですが、子どもにとったら、キャッチできない悔しさを自分に有利に運ぶための知恵とも言えます。

ただ、子どもの世界では通用しない、自分が有利になるためのルール変更。これも遊びを区切りながら、とりあえずは、ルールに従ってできないことにも取り組んだ方が良かったのかな、と反省もすることでした。

たくさん遊んだ後は、20分ばかりの数遊びですが集中します。おにぎりの消しゴムを数えたり、分解して組み立てたり、組み立てたらいくつか?などなど色々なことをしました。

ひとつ、言えることは遊んだ後の勉強は集中します。バランスが整うのかなぁ、と思うことでした。

それにしても、遊びの質、難しいですね(´・_・`)
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あふれる算数。

2015-09-24 15:41:15 | 発達応援
 先ほど、どーーーーーん!と大きな音がしました。
事故?

 外に行きましたが、そんな気配はなし。
しかし、パトカー、救急車のサイレンの音がします。

 やっぱり事故です。
でも、まぁ、対応が早いんだなぁ、もう、サイレンの音か…、と思って、
トイレに行くと、家の裏手に見える高速道路で、
救急車やら、なんやら、総出です。

 高速道路の事故だったんですね。
まっすぐ直線での事故。

 私も気をつけよう。

 発達や数について、本を読んだり考える日々が近頃の日常になっています。

 ふと、先日、友人がFBのコメントで、
「お風呂の中で、100まで数えてたよね~」というのを見て、
私もそうだったなぁ~と思い出しました。

 まじめに、1,2,3,4,5,6,…100!と数えることが楽しかったこともありましたが、
「風呂から早く上がりたい!」と思った頃には、
「1,!0,20,30,40…100!」なんて数えていた気がします。

 そうして、今考えると、この数字数えは、
一緒に入っていた大人にとっては、数の勉強でもさせよう、ということだったのでしょうが、
子どもの私にとっては、時間的な意味合いが強いものだったんだなぁ~ということです。

 同じように、数を数えることが時間的な意味を持つ場面は、
かくれんぼで、鬼になった子どもが周りを見ない状態になりながら、
50までとか100まで数えるときですね。
だから、早口で「12345678910……100!」と数えたりしますね。

 数字から離れますが、言葉が数を表す遊びが、
じゃんけんをして、「グリコ!」とか「パイナップル」とか言いながら、
階段を上り下りする遊びは、言葉が数の役割をしていたんですね。

 階段ではない場所で、この遊びをすると、
歩幅勝負になり、この場合、言葉が長さを表すのでしょうが、
背が高い私は「グリコ」で「チョコレート」の子を抜こうとしたりしていました。
掟破りが遊びの世界では当たり前ですね。

 そういえば、私の父はユニークな人で、
「『かめ』たす『うさぎ』はなんでしょう」「『いちご』たす『バナナ』は?」
なんて足し算の問題を風呂の中で私に出していました。
答えは5と6ですが、短い言葉とはいっても、2つの言葉を数字に変えて足すのは難儀で
「普通に数えるほうがいい!」「そんなの足せない!」と文句を言ったりしていたこともありました。

 他にも、ジュースなんて、いつでもは家にない時代に、
いとこたちと1本のジュースを「ひとくちずつね」と順番に飲んでいましたが、
一番年上のいとこがひとくちで大量に飲み、
私たちチビには1回しかまわらず大泣きなんてこともありました。

 これは、「ひとくち」を1回と思っていたのに、量だった!くそー!という
思い出でしょうか?

 こうやって改めて考えると、
数や量や長さ等々、算数的な要素というのは、
本当に、小さい子どもの頃から身近に存在するものなのだなぁと、
つくづく思わされます。

 そのような遊びは、おそらく、
小学校の算数の入り口前の前庭(まえにわ)のようなものなのでしょうね。
その部分を豊かに耕しておくと、はじめは算数でつまづいても、
考える力がついてくるとその子どもなりに、ピンとくるものが出てきて、
自分の手で試行錯誤できるようになるのではないかなぁと、思います。

 


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子どものときの遊び。

2015-09-23 16:26:15 | 日記
 エレファントカシマシが久しぶりにテレビに出る!と
新聞のテレビ欄で見たのですが、
昼の12時からテレビに張り付いているほどヒマではなく見損ないました。

 ボーカルの宮本は、大丈夫だったかな。
歌はもちろん、大丈夫。
挙動が…です、ね。

 子どものときにどんなことをして遊んでいたかなぁ~と思っていたら、
母が、「自分より大きい人形を背中におんぶ紐でおぶってさるいとった(おんぶして歩き回ってた)」と
教えてくれました。

 そういえば、布でできた大きな人形を横に、にかにか笑った写真があったなぁと思います。
一人っ子だったので、姉さん顔で人形をおぶっていたのでしょうか。
母によると、買い物に行く時もおぶって連れて行っていたそうで、
離れがたい存在だったようです。

 また、「しばりっこ」という遊びが好きで、
父の足の間で挟んでもらい、私は父の胴体にしがみついて落ちないようにしながら、
部屋の中をうろうろしてもらうことも好きだったそうです。

 こういう遊びを3,4歳の頃していたそうで、
母曰く、「肌にぎゅっと密着するのが好きな年頃かもしれんねぇ~」といっていました。

 自分と自分でない空間の区別をそういうことで体感したかったのかなぁ、と
その話しを聞いて思うことでした。

 自分で覚えているのは「かくれんぼう」で、
隠れるのがうますぎる私は、いつも探し出してもらえず、
最終的にかくれんぼうはまだ続いているのか、もう、終わってしまったのか、
不安になりながら、隠れ続けていたことを覚えています。

 隠れていたのは、茶畑の空間をみつけて茶畑の中にダイブして隠れたり、
棚を伝って、家の梁に忍者のようにしがみついていたり、
地を這い、高きに登りと思いつく限りに本気で隠れていました。

 こういう経験が、少しの出っ張りだけどしがみつけるな、という指先の感覚や
木の枝が体に刺さらないようにくぐり抜けられるか、空間認知力を磨いたりするのに役立ったのかもしれません。

 シルバーウィークといわれるこの長い連休。
家の周りでは、子どもの声がするでもなく、静かな日々でした。

 テレビでもあちこちのテーマパークに出かけた人々の姿を映していました。

 日常に自分のからだを使って、大人に遊んでもらったり、
子ども同士で遊んだりすることがとても難しい時代なのかもしれませんね。

 

 

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指と数の関係。

2015-09-22 15:18:17 | 本の紹介
 日射しは強いものの、吹く風は冷たくて、
うっかり昼寝をしようものなら、風邪をひいてしまいそうです。

 そんなふうなので、いつもは居間で転がっているのですが、
今日は別の部屋で、タオルケットをかぶって、ちょっと昼寝をしました。

 で、起きて居間に行くと、窓辺の桃ちゃんが私を凝視しています。
「桃ちゃん、どうしたの?」声をかけた瞬間、
ダッシュで玄関のほうへ逃げていき、ぐるりとまわって私の目の前へ。

 「しまった!」という感じで、猛ダッシュで誰も人のいない部屋まで行き、
窓辺から、再び、こちらを凝視しています。

 …誰もいない、と思っていてびっくりしたのでしょうね。
その後、とてもバツが悪そうに、遠巻きに私の周りをうろうろしていました。

 猫もいないと思っていたのに、人がいるとびっくりするんですね。
そして、たとえ飼い主であっても、ばったり会った空き巣かなにかのような扱いを受けるのですね。
複雑…。

 『「首から下」出』考えなさい』という本によると
指と数字には深いつながりがあるそうです。

 

 まずは、指も数字も脳の中では、頭頂部の同じ部分の神経細胞が司っているそうで、
著書の中では、左の頭頂葉の後ろの部分に軽い脳卒中の跡が見られた男性が、
電話番号を思い出せなくなったり、一桁の計算もできず、
数字を読むこともできなくなったエピソードが紹介されています。

 脳のその部分は、数字を理解するときに活発に動くところであると同時に、
手の動きとも深い関係があり、親指と人差し指でマルをつくるような手の運動を指示するところだそうです。

 また、楽器の練習で指を使うことと数字や数の理解とのつながりも注目されているそうです。
これは、指と数が脳の同じ部分の脳細胞が司っているから、ということだけではなく、
幼児のときに、指折り数える動作や足し算を指を折って行う、
指の運動行為そのものも、数の概念を理解しやすく手助けしていることのようです。

 面白い実験で、5歳児に目を閉じて、
「どの指に触られている?」と当てっこをさせると、
当てた子は算数が得意になるケースが多いそうだし、
幼稚園で指を使う作業が得意な子は、小学校でも算数で苦労しないそうです。
逆に、指使いが不器用な子は、計算が苦手で数字がなかなか理解できないそうです。

 そして、本の中では指と数は深いつながりがあるので、
音楽などで指使いを訓練するのはよいことですね、とあります。

…そろばんなども数を指で扱うので、もってこいなのでしょうか。

 そういう本を読みながら、小さい頃は手先が不器用だった私は、
ああ、そうだったんだなぁ~と納得。

 でも、手先が不器用なことと、手先を使うことが好きか、嫌いかは別問題です。
私などは、不器用な手先で折り紙を折ったり、
折り紙を三角や四角に折り重ねて、ハサミで切って模様をつくる切り絵など好きで、
ゴミの山のような作品を日々せっせと作っていました。

 外でも、砂山崩しをしてみたり、泥の団子を作るのも指先への良い刺激だったかもしれません。

 そういう行為が数の概念を発達発展させる手助けになっていたかもしれませんね。

 安曇野プランのキューブを入れたり出したり、おにぎりを配ったりも指先使います。
指と数の思いがけない関係にも、興味深い本でした。

 

 
 
                                                 
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感情ぐだぐだ。

2015-09-21 20:21:30 | 日記
 いつの間に「シルバーウィーク」という言葉は定着したんでしょうか。
たまたま。今年が5連休とか6連休なだけじゃないのかな?

 シルバーか…。
私は年寄りになったら「年寄り」でいいし、「婆さん」でいいな。
「シルバー」ってなんだよ。
銀紙じゃあるまいし…ぶつぶつぶつぶつ。

 今日は、早朝の仕事も大荒れ。
きっかけは、些細なことでした。

 農産や冷蔵の荷物を、それぞれの保管してある冷蔵室から運ぶと、
それらはそれぞれのトラックの番号のところに置いていきます。

 その作業は、自分の持ち場のトラックに関係なく、
全員で取りかかり、全部のトラックの前に荷物が置かれたところで、
それぞれ持ち場に戻って、積込み作業に取りかかります。

 時々、自分の持ち場のところを並べ終わったら他も済んでいるということもありますし、
自分の持ち場がぐちゃぐちゃで、必死で並べているのだけど、
他の人は全部並べ終わっている、と勘違いして
既に積込み作業に入ったいる時もあります。

 でも、ワザと作業が面倒で見ない振りなんてする人はいないので、
そんなことがあっても、特に何事もなく終わっていました。

 ところが、今日はそうではなかったのです。
古株の同僚さんのところが、トラックの前への荷物置きが済んでいなかったのですが、
他の人が気がつかず、助けにいかなかったのです。

 荷物がずらりと壁になっていたせいもあるし、
それぞれ自分の持ち場の整理が済んでホッとしたのもあるでしょう。
私も全く気がつかず、自分の持ち場での積込みの準備に入っていました。

 すると、何やら遠くで何かを叫んでいます。
何言ってるのかな?と聞き返すと、
「まだ、並べ終わってなかったのに云々
でも、もう、並べ終わっていたので、「ごめーん!」で終わりました。

 しかし、私が一緒に組んだ、やはり古株の同僚が不安そうです。
「あとで、何か言われるかも…」

 まぁ、済んだことだし、言われても「忘れてたー、ごめんでいいじゃん!」といい、
それより、さっさと積込み終わらせて、手伝いにいけばいいよ、と積込みをはじめました。

 自分の持ち場の積込みが終わったので、
さっき怒って怒鳴っていた同僚のところに行くと、びっくりするほど積込みが終わっていません。

 どうやら、やりはじめにケチがついたので、
そのままグチグチ言い続け、作業が遅くなったようでした。

 手伝いながら「遅いわ。どんどん流して!」というと、
「だって、最初に荷物がさぁ~」というので、
「はいはい。そうだね、気をつけるわ。忘れてて、頭になかったから仕方ないよ。はいはい、荷物!」と言いながら、
作業を続けました。

 トラックのドライバーも来る時間になり、カタログの作業の人も来る時刻になっても
まだあと、2台分トラックはあります。

 ばつが悪いのか、「荷物が多かったからね~」なんて言って、
荷物を降ろしている古参の同僚。
「荷物、普通でしょ。ぷんすかしてて遅くなっただけでしょ。いいから、さっさと流して!」

 まったく、還暦を迎える前になっても、
感情のコントロールが効かず、ぐずぐず作業をする。
面倒なので、途中、作業を変わってもらい、私が荷下ろしさせて頂きました。

 これもまた、ばつが悪いのか、
「えー、あとで、なんか言わない?」というので
「めんどーだから、なんも言わんわ。」と言って、さっさと、とっとと作業を終わらせました。

 感情をコントロールできない還暦迎えようとする大人。
めんどくさすぎる。

 やっぱり、感情コントロールって大事ですね。
私は「いつまでいってんの?」というので、その後被害もないのですが、
「なんか、言われる!」と怯えていた同じく古参の同僚は、
その後も愚痴を言われたと、げんなりしていました。

 感情コントロールできないと、
いつの間にか、孤独になってるのね、と女性の恐ろしい世界を垣間みた、
爽やかな、朝の時間でした。
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