日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

知りたがり病。

2015-09-20 20:32:03 | 日記
 連休の2日目。
遠いところに住む友人が、今日帰る日なのに、
わざわざ半日つぶしてアロマトリートメントを受けにきてくれました。

 ありがたいやら申し訳ないやら。
できるかぎりを、と思いながらトリートメントさせていただきました。

 こうやって、来てくださる方に
少しでも良いトリートメントを提供できるようになりたい!
しっかり勉強しよう、と思ったことでした。

 トリートメントに限らず、興味があることは
「なんで?」と思ったら調べずにはいられない質(たち)です。

 小学生のとき、「ベルバラ』にはまり、
フランス革命やナポレオンやその辺のことを
百科事典やら図書館の本やらで調べまくっていた時期がありました。
おかげで、小学生にしては世界史のフランス革命の辺りだけ、
妙なオタクっぷりを発揮する妙な女子になっていました。

 高校生の時は『三国志』にはまり、
そこから派生して、図書室にあった中国の古典シリーズのようなものを読みあさり、
気がつけば、教科書やテストに出てくる漢文くらいは、朝飯前になっていました。

 こういう性質というのは、変わらないもので、
バイクに乗りはじめて、危なっかしいと行きはじめたHONDAのライディングスクールも
大型バイク1台分を越えるくらいの金額通い詰めました。
おかげで、今では、雨だろうが、多少の路面凍結でも
冷静にバイクを走らせる技術と度胸をつくることができました。

 時々、「勉強好きだね」「がんばるね」といわれますが、
もう、知らずにはいられない、自分でやらずにはいられない病気のようなものなので、
「へへへ~。」と笑って済ませています。

 でも、自分に興味がわかないこと、惹かれないことには、1ミリだって気持ちが動かないので、
私のことを好奇心旺盛と思っている人は意外そうな顔をします。

 自分の中でも「はーい、へいてーん!」とスイッチが切れるような感じがわかります。

 ま、仕方ないよね興味ないんだから。

 今日も新しく本を買ってきたので、読みはじめます。
少しでも、役に立つ本でありますように!

 

コツコツと見守られながら。

2015-09-19 14:31:54 | 発達応援
 空がきれいなみずいろです。
秋を感じると、空が高く感じますね。
空気も澄んで感じるのは、気温のせいでしょうか。

 いつもなら9月も暑い鹿児島でこんなに早くに秋を感じるなんて嬉しい反面、
冬も早いのかな、とドキドキ。

 バイクの冬は、本当に寒いんですよ。

 コツコツ続けるということは、本当に大切なことですね。

 フォイヤーシュタインをする中で、衝動性をおさえることや集中力をつけるために、
「20秒間スケッチブックが真っ黒になるようにぐるぐる線をいっぱい書く」というワークを
最初にします。

 先々週、フォイヤーシュタインがはじめての年中さんの男の子とこのワークをしました。
そのときは、はじめてだし、なんといってもまだ4歳。

 「スケッチブックからはみ出さないでね」という指示はなかなか難しく、
力が入るとB4のスケッチブックからはみ出して、机の上に何本も鉛筆のあとをつけていました。

 昨日、2回目のフォイヤーシュタイン。
同じワークをすると、だいぶ減ってはいますがやはり、何回か机の上に線を引いてしまいました。

 でも、明らかに前回と違うのは、机の上に線を引くと、
一瞬、手が止まり視線がそちらに行き、「あ~あ、しまった!」という表情になるのです。

 そして、「もう一回。」というので再び挑戦。
失敗は減りましたが、やはり、机の上に鉛筆がいってしまいました。

 すると、
「練習ではうまくできたのに!」ととても悔しそうにいって、
練習したスケッチブックを見せてくれました。

 1日数枚ずつ練習したのでしょうか。
スケッチブックにはぐるぐる線を引いたページがたくさんありました。

 「こっちのスケッチブックでする!」と自前のスケッチブックで再度挑戦。
鉛筆も自分のものを持ってきてハマっています。

 「じゃあ、20数える間ね!ヨォーイ、スタート!!」とはじめました。
慎重な顔をしながら、スケッチブックを縦横無尽に鉛筆が走ります。
スケッチブックのキワを行くときには、慎重さが増し、少しスピードがゆっくりになります。

 残念ながら、1回机にはみ出し、2回目にはみ出したところで集中力が切れてしまい、
「あ~あ、もう!」
と鉛筆を置いてしまいました。

 「まだ、16だよ。17、18…」と数えて20までいって終わりました。

 「練習では、うまくいくんだって!」と本当に悔しそうで、
泣きそうな顔にも見えましたが、
 
 「あ~あ!って気持ちはわかるけど、机からはみ出しても、途中でやめたらダメよ。
次にするときには、はみ出してもやり通そうね。」と言って終わりました。

 自分ができるぞ!と思って取組んだのに、できない悔しさ。
そんなことを色々なことで繰り返し、経験することで、
「もっとやろう!」という気持ちや「やればできるようになる」ということも
子どもの中に育っていくかな、と思います。

 穏やかに見守ってくださっていた保護者の方の忙しい日々の中での取組みにも感謝です。

 私も色々なことがひとりでできるようになったのではなく、
こうやって見守られながらできるようになったんだろうなぁ、と思いながら電車に揺られた日でした。



連続する記憶。

2015-09-18 22:08:26 | 発達応援
 久しぶりに「ずぶぬれ」になりました。
晴天の中、出かけたのですが夕方から雨が降り出しました。

 駅の駐輪場にバイクを止めていたので、バイクはずぶ濡れ。
それに跨がって帰るので、ズボンも濡れるし、
雨降りなので、体も濡れます。

 冷たい秋の雨でした。

 4歳の子どもというのも、先週のこと、先々週のことをしっかり覚えているんですね。

 今日で3回目になる子どもさんのところに行くと、
「風船取る、ロボットしよう~」と先週やった遊びを覚えていました。

 さらに、「前やった、ぶーんぶーんってのやって~」といいます。
これは、初めて会ったときからやっている遊びです。

 子どもが気に入った遊び遊びだったからか、よく覚えています。
「ぶーんぶーん」に至っては、私のほうが足を持ったか、胴を持ったかわからない中、
子どものほうが「違うよ!もっと足もって!」と注文してきます。

 やり方が少し違うと、怖さが増すのでしょう。
「ちがうちがう!」とバタバタしています。

 足を持って、ぶらーんぶらーんとしたり、
肩車したり、色々なことをします。

 先週は、肩車のときうまく私の肩を跨げずに、
「どっちの足?」といい、
跨がせようとすると「こわい!こわい!」と大慌てですが楽しそうです。

 3週間前にやった遊びも覚えているって、
4歳児は記憶がいいですね。

 やるたびに、やりたい遊びが増えていくような、
楽しみな学習を心がけたいものですね。

 よく食べて、よく寝て、運動して体力をつけねば!
そこが問題だ!

赤ちゃんに学ぶ。

2015-09-17 14:21:45 | 本の紹介
 いつも4時過ぎには起きているので、
早朝の仕事が休みの日でも、そのくらいの時間になると眠りが浅くなり目覚めてきます。

 それは猫も同じようで、
特に、規則正しいちぃは私が普段起きる時間になると、
「起きて!」と私の額を前足でトントンとします。

 

 それでも起きないと、爪を出してトントン。
私の額に爪が釣り針のように引っかかって、イテテテテと起きることになります。

 女子猫は、私が起きるまで寝ているんですが…。
猫も色々です。

 色々と知りたいことがあり、子どもの発達についての本を読んでいます。

『発達の扉」という本に興味深い記述がありました。

 

 子どもは、生後4ヶ月ほどで「見比べの力」というのを育むそうです。
これは、目の前に2つのものがあると、一生懸命2つのものを捉えようとするものです。
でも、単に2つのものを見る力のみならず、
「目の前のものが欲しい!」「自分のものにしたい!」という心の発達を伴った見比べだそうです。

 そして、この見比べの力は、
「自分の目で確かめて選ぶための準備運動」にもなるそうで、
「自分で選ぶ」という自分の人生の主人公になっていくためにも大切なことだそうです。

 見比べの力は、更に生後7ヶ月頃からの
「こっちが欲しい」だけど、「あっちも欲しい」という
「もうひとつへの欲張りさ」を育むそうです。

 この「ひとつのものの選択ともうひとつへの欲張り」が同時に見られるのは、
人間に固有の特徴だそうです。

 ひとつのもので満足せず、もうひとつを掴もうとする。
それでも満足せず、もうひとつ、もうひとつ、もうひとつ…と次々と新しいものに魅力を感じて、
手を伸ばしていくことで「探索」の世界が発展し、
子どもにとっての外界が広がっていく。

 要約すると、そういう書かれている箇所がありました。
そして、そのあとに次のようなことが書かれていました。

 私は障害をもっている子どもたちに、
この「見比べ」と「もうひとつへの欲張りさ」がとても見られにくいことに気がつきました。
これからの発達のためのエネルギーがやはり、十分高まっていないのです。
もう一度この「見比べ」と「もうひとつへの欲張りさ」の段階にいたるまでの発達の道筋を確かめて、
必要な土台作りをしてあげたいものです。


 この記述は、私が支援員をはじめてから、ずっと抱えていた
「この子の好奇心はどこにあるのか?」という
関わる子どもたちの「自分から知りたい!」という気持ちが強く出ない感じへの
悶々とした思いへの指針となる記述に思えました。
 
 見比べが生後4ヶ月くらいから出てくるのであれば、
それ以前の発達段階では、自分の手があることを知り、
見つめているものから音が出る、聴覚と視覚の複合を学びはじめ、
触覚と視覚のつながりも獲得されはじめる頃だそうです。

 そうであるならば、手を使ってたくさん遊び、
色々な音を聞いたり、聞き分けたり、外の音にじっと耳を傾けたり、
飽きるほどに物を見つめて、色々なものに触る…。
そういった、自分のカラダをフルに使って、たくさん遊び、
何が違うのかを感じたり、どこが一緒かを感じたり、
そういうことが、「見比べ」や「もうひとつへの欲張り」を育む土台になるのかなぁと考えることでした。

 カラダとアタマはつながっています。

 そして、カラダをしっかりつくることが認知や思考を育むことは、
様々なワークショップで学び、色々な本を読んでいく中で、
揺るがないものになっていくなぁとも思うことでした。

 

障害にとらわれすぎずに。

2015-09-16 14:22:40 | 発達応援
 長野にいっている間に、養生の仲間との味噌作り講座がありました。
私は参加できなかったのですが、6種類の豆で味噌を作るので、
どうしても欲しくて、材料代と手間賃のお菓子で私の分も作ってもらいました。

 まだ、浅く、若い味噌たちですが、
キュウリにつけて食べると、もろみの味がしてうまい!

 キュウリを夏よりも食べてしまう秋です。

 ハートネットテレビと言う番組をみました。
内容は、ここに詳しく書いてあります。

 http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2015-09/09.htmlエンジンの鍵みつけた

 私は医療機関の先生が、
「発達障害、ということにとらわれるあまり、本人の成長を促すことをしてこなかったのではないか。」と、
という問いかけに、深くうなずきました。

 小中学校で支援員をしているときに、
支援クラスの子どもや支援が必要で関わっていた子どもがトラブルを起こしたときに、
先生方が良かれと思って、支援クラスの子や支援が必要な子どもに対して、
やさしく、言葉で諭す場面が何度かありました。

 また、けんか両成敗で普通ならどちらもこっぴどく怒られるような場面でも、
支援が必要な子どもよりも、そうでない子どものほうが余計に怒られるような場面もありました。

 やさしく、言葉で諭されるようなトラブルの中には、
人として絶対にやってはいけないようなこともあり、
保護者の方を呼んで、お話しすることもあったようですが、
残念なことに、やらかした子ども本人に事の重大さが伝わっていないこともありました。

 また、どっちもどっちなはずなのに、
一方的に怒られた、支援が必要でない子どもは、
「こいつと関わると、損するし、めんどくさい。」と学習して、
適当にはぐらかして、同級生としての付合い方はしないと、腹の中で決心しちゃったんだなぁ~と
思うような付合い方を支援が必要な子どもとするようになったりするのを見かけることがありました。

 発達障害があろうとなかろうと、
支援が必要であろうが、なかろうが、
怒られるときには怒られて、褒められるときには褒められる。
それは当たり前のことです。

 そういうところを特別扱いしていると、
「自分だけは、怒られないはずだ」と思ったり、
「やさしく言ってくれなかったから」とパニックになったりして、
いつでもその子の意に添う形のものでなくては受け入れられなくなってしまう気がします。

 しかしそれでは、その子が人として生きる場の幅がとても狭くなって、
特定のエリアでしか生きることができなくなるのではなかろうか、という息苦しさを私は感じます。

 小さな子どものときは笑って許されていたのに、
中学生になったり、大人になった途端、厄介者扱いされて卑屈になっているのを見ると、
こちらも悲しい気持ちになります。

 子どもは成長し、社会の中で生きていくということを
いつも頭の隅に置いて、どうするべきかを一緒に考える存在でいたいな、と思います。