京都は権力者が築いた城の宝庫、その最新の調査結果は?
以下本文より引用
「城の構え方、大きさなどで、当時の社会状況が手にとるようにわかるところが面白い」。冊子を中心となって編集した市文化財保護課の馬瀬智光・埋蔵文化財係長は説明する。
【歴史インサイド】千年の都・京都は城の宝庫だった 信長、秀吉、家康…最新の調査成果とは
05月02日 07:04 産経新聞
千年の都・京都は、実は「城の宝庫」なのだ。平安京への遷都当初こそは皇族や貴族たちの都だったが、鎌倉時代になると武士の進出が目覚ましく、以後出現する武士の拠点・城の数は京都市内で遺跡地図に登録されているだけでも110以上に及ぶ。今から670年前に京に室町幕府が開かれ、応仁の乱後は戦乱が絶えなかったのも原因だが、たくさんの武将が天皇や将軍の権威を求めて上洛した結果でもある。近年、織田信長の嫡男・信忠が「本能寺の変」のときに討ち死にした二条殿御池城跡から炭の層と建物跡などが出土するなど新発見もあった。そんな京の最新のお城調査成果を紹介する。
信長の嫡男が討ち死にした二条殿御池城
京都市中京区烏丸通御池近くのマンション建設現場。民間調査団体「古代文化調査会」が平成27年4月までに実施した発掘調査で、厚さ約5センチの炭を含んだ焼け土の層や石敷き遺構、柱穴列などが出土していたことが新たに分かった。
石敷きは「L」字状に曲がり、それに接続するように直径約30センチの柱穴が約1・5メートルの等間隔に並んでおり、建物跡と確認された。このほか、敷地をめぐっていたとみられる南北の堀跡なども出土した。
同調査会は、出土した陶磁器などから、天正10(1582)年6月、信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の際、信長の嫡男・信忠が討ち死にした二条殿御池城(二条御新造)跡で、炭は本能寺の変のときの痕跡の可能性が高いとみる。
同城跡では、かつて庭園とみられる遺構が出土しているが、建物遺構が出土したのは今回が初めて。同調査会の上村憲章・主任調査員は「一帯は被災して、施設は跡形もなく焼けてしまったのだろう。本能寺の変のすさまじさを物語る」と話す。
二条殿御池城跡の調査については、4月に京都市文化財保護課が出版したばかりの市文化財ブックス「天下人の城」で新資料として、当時、並列して建っていたとされる「妙覚寺城」跡とともに紹介されている。
「花の御所」に山城、「旧二条城」も
冊子では、主に南北朝時代から戦国期、安土・桃山時代、さらには江戸時代初期にかけ、京都市内に足利将軍家や信長、豊臣秀吉ら時代の権力者が築いた城を網羅する。
同課は、この中で城の定義を「平安京の造営時に定められた道路側溝の規格(幅3メートル、深さ1メートル)を超える堀を持つ施設」としている。
最初期の城としては、室町幕府の中でも強大な権力を握った3代将軍、足利義満が、現在の同市上京区烏丸今出川付近に「花の御所」を造営。6代将軍・足利義教も花の御所を拠点にしたが、嘉吉元(1441)年に義教が暗殺されると、揺らいだ政権は回復しないまま応仁の乱へと突入する。
(以下略)