(プレジデントオンライン)
PRESIDENT 2012年10月29日号 掲載
私たちが使っている言葉のなかには、仏教に由来する言葉がたくさんあります。その理由を、私は「地下水」にたとえて説明しています。つまり「日本人の心と生活の奥底には、仏教思想という地下水が脈々と流れている」ということです。
仏教が日本に伝えられたのは6世紀頃で、当初は一部の権力者や高貴な人たちのものでした。しかし、室町以降、江戸時代にかけて庶民に浸透し、大衆化が進みます。その結果、人々の暮らしに仏教思想が深く入り込んでいきました。それが地下水となり、地上にしみ出すようにして人々の生活に潤いを与えてきたのです。それゆえ政治、経済、文化、あらゆる分野に仏教思想と結びついた言葉が広く使われているのでしょう。キヤノンやカルピスなどの社名・商品名も、実は仏教語なのです。
現代は科学至上主義、経済中心主義がはびこって、心の潤いがなくなりつつあります。いま改めて身近な仏教語に注目することで、日本人が忘れていた地下水をくみ上げて、日常の潤いとしていただきたいですね。
◇世間【せけん】
世間並み、世間話、世間体、世間が広い……など、世間がつく言葉は多い。世間は、一般には世の中や社会、交際の範囲といった意味で使われる。
しかし、仏教語としての世間は生きもの(衆生世間(しゅじょうせけん))と、それを住まわせる山河大地(器(き)世間)、および生きものと山河大地を構成する要素(五蘊(ごうん)世間)の総称である。生命あるもの、一切の人や動物が生活する境界を世間と呼んでいて、それが一般の人々の生活する社会という意味に使われるようになったのである。
世間とは現実の現象世界、つまりは俗世間のことで、そこを超越した仏様の境界を出世間という。これが縮まって「出世」(世に出て立派な地位や身分になること)という言葉が生まれた。
まずは世の中、社会というものをよく理解し、さりとて世間の常識にとらわれることなく、そこから飛び抜けたアイデアを出した者が、出世を手にするということなのかもしれない。
◇皮肉【ひにく】
仏教では宗祖らの信念・思想・行為などすべてのことを「皮肉骨髄(ひにくこつずい)」という。達磨大師は弟子に対して「おまえはわしの皮を得ている、髄を得ている」などと悟りの浅い深いを定め、最も深く悟った弟子に法を伝えた。そこから、表面だけを指す非難を皮肉と呼ぶようになったのだろう。ときには骨髄に達する鋭い主張で周囲を沸かせたいものだ。
◇油断【ゆだん】
『涅槃教(ねはんきょう)』の中の故事が出典。昔ある王が一人の家来に油を満たした壺を持って歩かせ、「もし一滴でもこぼしたら汝の命を断つ」と厳命し、不注意は最大の敵と戒めた。ここから、注意を怠ることを油断というようになった。
わずかの不注意が大失敗を招くことは往々にしてある。ここぞという勝負時は、命を断たれかねないというほどの緊張感をもって仕事に臨みたい。
◇我慢【がまん】
東日本大震災で、日本語の「我慢」は世界中に広まった。我慢とは困難に耐えるという日本人の美徳であるとして“GAMAN”は海外メディアでも紹介された。このように我慢は一般に、辛抱すること、堪え忍ぶことを指し、いい意味に用いられる。
ところが、仏教語としての我慢はあまりいい意味では使われない。仏教では、自分の中心に我があるという考えから、我をたのんで自らを高くし、他をあなどることだと説明している。
仏教では、そのようなおごりたかぶる心を7つ挙げて「七慢」と称する。我慢はその第四番目で、「我あり、我が所有ありと執着して心をして高挙(思い上がった状態)にさせる」ことをいう。その上に第六の邪慢や第七の増上慢があり、いずれも我意を張るさまであったり、強情であったりと、好ましくない性向、ふるまいである。一般的な熟語でも、高慢、傲慢、慢心などはよくない意味で用いられている。
では、なぜ我慢はいい意味に転じたのか。おそらくは、我慢という我をよりどころにする心から、我が強い→負けん気が強い→頑張る→辛抱するというように変化して現在の我慢になったのだろう。美徳として世界で称えられるまでに、我慢は堪え抜いたのである。
(以下略)