あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

生きるということの意味

2011-02-15 23:22:35 | インポート

双子の高校生姉妹が,進路に悩み,自殺したというニュースがありました。まだ若く未来のある若者が,なぜ死を選んだのか?どんなことにどれだけ苦しみ悩んだのかはわかりませんが,若く尊い命が二つも失われたという事実は確かなことで,とても悲しいことです。

誰もが,命をもって生まれたのには理由があります。それは,この世に必要とされた存在だからです。だからこそ,命が尽きる時までこの世に生きて在り続けることが大切になってくるのです。

自ら命を断つことは,許されないことです。なぜなら,この世に必要とされた役割を十分に果たしていないからです。命は,その役割が果たされる時まで与えられているのです。

その役割とはなんでしょうか。命ある人の数だけ役割があり,その内容もその人しかできないものなのです。役割は,決して一つではなく,一生をかけてその人が果たすすべてのことです。

人間だけではなく,この世に存在するすべてのものに,必要とされる理由と役割があります。その人やそのものだけしか果たすことのできない役割があり,その存在の理由があるのです。

必要とされた命を,その持ち主の意志で勝手に断つことは許されないことなのです。断たれた命の代わりとなる命は,存在しないからです。

命は多くの命とかかわることで,つながることで,支え合うことで,お互いに輝きを増します。かけがえのない命同士だからこそ,それぞれの色と光を発しながら輝き合うのです。

一つの命が消えると,色と光も消えてしまいます。その周りの命も,消えた分だけ色と光を失ってしまいます。命ある限り輝き続ける存在であること,そのことも大切な役割の一つなのです。

自殺した姉妹には,お母さんと弟がいたとのことです。残された家族は,深い悲しみの中にあることと思います。生きていればこそ,悩みを乗り越え,新たな希望を見出すことができたはず。これからという限りない未来を持った若者だからこそ,その死がとても痛ましく残念です。必要とされて生まれてきたのに,その役割を十分に果たさないで,あの世へ旅立っていったのですから。誰もその代わりとなって役割を果たすことはできないのですから。

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生きるということについて 思うこと

2011-02-14 10:21:23 | インポート

筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症した千葉県勝浦市の照川貞喜さんの闘病記録が,新聞に連載されていました。『患者を生きる』のシリーズで取り上げられていました。

1992年の4月のことです。2度目の呼吸困難に襲われた時,貞喜さんは人口呼吸器を着けるか着けないかの判断で迷い,着けないと決めました。しかし症状が進み死への恐怖が強まり,その決心が揺らぎます。着けないと決めたのに,着けてほしいと言うのは恥だ。そう主治医に話す夫の思いを聞いて,妻の恵美子さんは,本人は生きたがっているんだと確信します。同時に自分が夫の手足となって介護することを覚悟します。再度呼吸困難に陥った2日後に,貞喜さんには首に通した管を通じて空気を送る人工呼吸器がとりつけられます。

それ以来,奥さんの献身的な介護に支えられ,声が出なくても,文字盤や口文字盤,センサーで操作できるソフトを組み込んだパソコンなどを使って,貞喜さんは奥さんと意思疎通を図ることができました。しかし,症状は進み,貞喜さんに残った体の機能を容赦なく奪っていきます。スイッチを操作する指や口が動かなくなり,やがて額のしわに張り付けたセンサーも操作ができなくなります。1903年には,センサーを貼り付けた左ほおの筋肉も活動をとめ,「最後に残った右ほおも動かなくなれば,社会と隔離される。それは耐えられない」と思うようになります。

そして1906年から少しずつ,今後の医療についてついての希望を要望書として書き始めます。パソコンの五十音表から目的の文字を一つずつほおのセンサーを動かして拾い,1年間根気よく入力して計9ページの要望書を作り上げます。

意思を伝える方法をなくし,外界との意思疎通を完全に断たれた状態をTLSと言います。貞喜さんはこの要望書の中で,TLSになったら,苦しくないようにして,呼吸器をはずして死なせてほしいと希望し,最後に「TLSになって人生を終わらせてもらえることは,『名誉ある撤退』と確信しています」と述べています。

恵美子さんは,夫に何度もその決心を尋ね,変わらないことを確かめます。そして,発症して20年近く,夫が苦しみを乗り越え続けてきたことを思い,1907年11月に,その要望書に3人の子どもといっしょに署名し,病院に提出します。病院では,倫理問題検討委員会で1年近く議論を重ね「意思を尊重することは,倫理的に問題はない」という結論を出します。しかし,呼吸器をはずすという行為は,刑事責任を問われる可能性もあり,院長は「実際に止めるのは難しい」との立場を語っています。

一度着けた呼吸器は,はずすのが難しい。貞喜さん自身は,着けるかどうかで悩み,着けることでその後の楽しい生き方を見つけることができましたが,中には後で外すことができないことを知って着けることを拒否し亡くなった人もいます。

意思疎通ができなくなったら,呼吸器を外してほしいという貞喜さんの思いは,変わりません。伝える手段が本当に尽きる時まで,精いっぱい生き,その考えを発信していきたい。その根底には「体が不自由でも心はいまも自由だ」という思いがあります。

尊厳死という言葉がありますが,文字通り貞喜さんの決意は,精いっぱい生きた上で死を選択するという尊厳死の考え方なのではないかと思います。生の終わりを自らの意思で決めることができるのは,意思疎通ができる段階までです。体が不自由でも心が自由だという思いには,生きる上でどんなに意思疎通ができるということが大切であり,尊いものであるかを実感している,貞喜さんの心からの熱いメッセージが込められているように感じます。

孤族の国のシリーズでは,ゆがんだ社会の中で,助けを求めることもできずに亡くなっていく,さまざまな孤独死が取り上げられていました。そこからは,人と人とがつながることのできない社会の矛盾やゆがみと同時に,生きる力を喪失した人間としての弱さを強く感じました。

たとえ孤という弱い存在であっても,生きる上での懸命さや強さを失ってはいけないように思います。なぜなら,死と隣り合わせの病床にあっても,唯一動かすことのできるほおを使って,意思疎通を図り,精いっぱい生きている貞喜さんのような方もいるのですから。誠実に生を全うし死に臨む在り方を,その姿や生き方を通して教えてくださっているように思います。

私自身同じような立場になった時には,『名誉ある撤退』を選択したいと思います。

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花便りを耳にして 思うこと

2011-02-12 18:28:38 | インポート

ピンク色の緋寒桜が,1月下旬ごろから沖縄や奄美の島で咲き始まったようです。花の便りを聞くと,妙にソワソワしてしまいます。その時期に咲くその土地の花を,その時を逃さず自分の目で見てみたいと思うからでしょうか。それも,管理された公園のような所ではなく,そこに自然に咲いている姿を見ることができたらなあと思います。

ずいぶんと古い時代に戻りますが,学生時代に一人旅をしながら全国を歩いたことがあります。寝袋とリュックを背負い,ユースホステルや駅に泊まりながらの旅でした。JRの均一周遊券(目的の地方までの往復切符を含め,その地方内の国鉄全線が乗り放題となる周遊券,学割もきき大変安く使いやすかった)を買い求め,四国,九州(沖縄にいる友だちのところまで足を延ばしました),山陰,関西,信州,北陸,北海道を大学4年間の間に回りました。それぞれの旅先での人との出会いも印象的でしたが,自然と調和した史跡や建物,山や海や植物といった自然等との出会いが今でも心に残っています。

特に花との出会いでは,北陸越前海岸のスイセン,丹後半島で見た真っ白なイカリソウ,足摺岬の椿並木,沖縄のディゴやブーゲンベリア,知床半島のハマナス,奈良・山の辺の道沿いに咲いていた山桜,飛騨高山のコブシ等,その時にそこで見た花のある景色を思い出します。そのうち,ゆっくりとかっての場所をその花の咲く時期に訪ねてみたいと思っています。

今年は,身近な場所に咲く花との出会いを求め,できるだけ野山に出かけてみたいと思っています。ブログのフォトリストの中で,花の紹介をしていきたいと思っています。

さしあたっては,春探しに力を入れていきます。

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再び 詩人:桜井哲夫さんについて 

2011-02-10 18:32:59 | インポート

 桜井さんの詩集や解説を読んでいくと,いろいろ新たに分かったことがあり,人間としてのスケール大きさや温かな人間性をさらに強く感じました。この点なども含め,改めて桜井さんの魅力を紹介していきたいと思います。

○海外への旅行

 桜井さんがタイに行ったのは,タイへの募金がきっかけでした。タイにあるハンセン病施設が良い水に恵まれていないという情報を耳にし,井戸を掘る資金を送付しました。たとえ異国の地であっても,同じ病気で苦しんでいる人のためにできることは実践する。そのまっすぐな優しさと行動力の前に,頭が下がります。この厚意に対する返礼として,タイの施設から招待を受け,訪問することになったのです。タイの施設訪問では,子どもたちとの心温まるふれあいがあり,その様子を詩に書いています。

…… (一部を抜粋)

子供達は元気よく歌い踊ってくれた

子供達は柔らかい手で俺の手をさすり禿げた頭を撫でた

子供達が朝から作ったという花の首飾りを首からかけてくれた

名も知らぬ花の匂いに俺の目が潤んだ

女医のカンチャナ先生と一緒にジャックフルーツの苗を二本植えた

……

 子どもたちの踊りや歌声,手のぬくもり,朝から時間をかけ心をこめて作ってくれた首飾りに,目が潤んだのですね。ジャックフルーツは5年後に花を咲かせ実をつけるということを知り,桜井さんは5年後にまた来ることを子どもたちに約束します。

 韓国にも出かけていろんな交流をします。韓国行きのきっかけは,詩の先生であった村松武司さんとの出会いにあったようです。村松さんが韓国の人の前で,過去の歴史を踏まえ自らを侵略者と語るのを耳にし,桜井さん自身も韓国へ行く思いを次のような詩にしています。

……(一部を抜粋)

私は行こう韓国へ そして韓国人の前で言おう

「私は侵略者」と

そして深く膝を折り謝罪してこよう

私には謝罪の他に何もできないのだから

 自らを侵略者と表現することは,過去の歴史の加害責任を自ら背負うことであり,非を認め謝罪することは,両国の溝を超えて同じ人間として分かりあうための前提である……と桜井さんは考えたのではないでしょうか。詩の師匠であった村松さんが亡くなり,偲ぶ会が開かれた時には多くの韓国人が集まり,「お前はなぜ死んだ」と言って号泣したそうです。桜井さん自身も師の死を悼み,「侵略者」としての立場を継承したのではないかと思います。

 五体満足な私は,いろいろ不安な面があり,外国へはまだ一度も出かけたことがありません。それなのに,五体不満足であるはずの桜井さんは,さっそうと外国へ出かけ,子どもやその国の人々と心からの交流を実践してくるのですから,驚きます。国境を超えて人と人とがふれあい,分かり合うことの大切さや楽しさを,まっすぐで純粋な感性を通してしっかり味わっておられるのではないかと思います。

○ 詩の中に見る 限りない優しさと明るさ

      『 目 』  

  おふくろさん あなたがくれた左の目は

  酸性杅状菌が奪っていったよ

  だけど残った右の目から

  温かい涙がでます

※ハンセン病の進行に伴い,29歳で残った右の目も失明します。目が見えない悲しさではなく,温かい涙がでることを言葉にしています。けっして,お母さんを責めるのではなく,温かい涙を流すことのできる自分を産んでくれたお母さんへの感謝の思いが,おふくろさんと呼びかける言葉の内に込められているような気がします。

     『入れ歯が逃げた』 

  看護婦さぁーん

  入れ歯が逃げたよ

  枯れ葉と一緒に入れ歯が逃げた

  幾ら追いかけても

  早い早い 入れ歯が走る

  坂を下り 電車に乗って

  何処かへ逃げて行った

  里美のリンゴの木に登って

  リンゴを食べているのか

  赤く熟れたザクロの実を食べているのか

  それとも渋川の食堂で

  カルビを抓みながら大ジョッキを傾けながら飲んでいるのか

  入れ歯を使って二十年

  入れ歯は何時も俺と一緒に

  俺の好きな物だけ食べてきた

  たまには入れ歯よ

  お前の好きな物だけ食べるがいい

  入れ歯よ 夕食の時間までには帰って来いよ

※楽しい詩で,底抜けの明るさと優しさを感じる詩です。入れ歯はもう一人の自分なのかもしれません。枯れ葉のように風にとばされ,電車に乗ったり,リンゴの木に登ったり,渋川の食堂でカルビを抓み大ジョッキを飲んでいる自分を想像しているのでしょうか。(自由にこんなことができたらいいなあという願いでもあるかもしれません。)最後の3行がいいですね。まるで長年連れ添ってきた奥さんのように入れ歯をとらえ,優しい心遣いに微笑んでしまいます。

     『ヤヨイの手紙』  

  ヤヨイは昭和12年の春 兄の長女として生まれた

  敗戦後の食料不足の足しにと母から凍餅が送られてきた

  荷物の中に文盲の母の手紙があった

  書いたのは小学校5年でヤヨイであった

  便箋に書いたヤヨイの手紙は大きな文字で踊っていた

    しみもづおくった               ※しみもづ~凍餅

    ひとばん水にうるがして          ※うるがす~浸す    

    すりばちにいれて ましげでしって    ※ましげ~すりこぎ ※しって~擂る

    さとうをいれてやいて

    まさことふたりでけってけれ        ※まさこ~26歳で亡くなった妻 

                             ※けって~食べて

  ヤヨイが亡くなったと故郷の甥から手紙があった

  弘前市に美容院を開き 二人の子供を育て

  懸命に生きたヤヨイよ

  もっともっと長く生きて欲しかったのに

  今あなたがくれた手紙を目を閉じて

  何度も何度も静かに読んでいます

※大きな文字で書かれた,ヤヨイさんが書いた手紙。書いたヤヨイさんを悼む思いが清澄に伝わってきます。また同時に,方言で綴られた言葉から,お母さんの肉声が聞こえ,自分と妻を気遣う優しさが感じられてくるのではないでしょうか。そのお母さんの優しさまで,ヤヨイさんは手紙の文字に込めたのかもしれません。

 

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 詩人:桜井哲夫さんに学ぶこと

2011-02-08 11:27:23 | インポート

桜井哲夫という詩人の存在は,新聞の記事『ニッポン人・脈・記 隔離の記憶7』を通して知りました。まず,掲載された桜井さんの写真を見て衝撃を受けました。記事の中でも,「桜井に会ったら,ほとんどの人は驚く。(ハンセン病で)左目を失い,右目は色が濁り,鼻は落ちくぼみ,指をすべて失った,その姿に。」とその外見を紹介しています。私も,その外見に驚いてしまったのです。しかし,よく見ると写真の桜井さんは,笑っているのです。写真には,3名が写っており,桜井さんの乗る車椅子を押している赤尾拓子さん,桜井さんの右わきにいる在日コリアンの金正美(キム・チョンミ)さんも,はじけるような笑顔です。この写真から,三人が深い信頼関係で結ばれていることを想像できます。講演や旅行(バチカン,韓国等海外にも出かけています)には,3人で出かけているとのことです。

それにしても,つらい人生を歩んでこられたのに,この屈託のない底抜けに明るい笑顔はどこから生まれてくるのだろう……と,強く思いました。

『破戒』という詩では,それまでの辛い思いと新たな決意を述べています。

     破戒

          桜井 哲夫

  青森県北津軽郡鶴田町妙常崎 

  長峰利造 大正十三年七月九日生まれ

  父太兵衛 母はる 

  癩園への旅立ちの朝 

  顔を歪めて父は言った

  たとえ口を裂かれるともこのことだけは決して言うな 

  父の戒めを守って四十五年 

  俺は死んだ人のように口を開かなかった

  だが六月二十五日ライを正しく理解する日が来るたびに思うのだ

  俺が固く口を閉ざしていて誰に癩を正しく理解せよと言うのか

  俺は戒めの口を開こう

  俺は罪によって生まれたのでもなければ悪によって病人でいるのでもないのだから

  父よあの朝あなたは許してくれと言った

  そして今私はあなたに許してくださいと言う

  すべての人に理解をもとめてあなたの戒めを破るのだから

詩人桜井哲夫は,詩にありますように,1924年7月10日に青森県に生まれ,本名は長峰利造です。1941年17歳の時に,病気療養のため,父の戒めを胸に刻んで,群馬県にある国立療養所栗生楽泉園に入園します。母には「しがまっこ(つらら)が解けるころには帰ってこられるから」と言われたものの,そのまま群馬で幾度となく春を迎え,29歳の時には失明し,津軽はますます遠くなります。その間,園内で妻子を得ますが,妻にも子どもにも先立たれてしまいます。失意のどんぞこにいた59歳で詩作を始めます。

この破戒の詩にあるように,国の誤った医療政策のために,ハンセン病にかかった者は,家族と一緒に暮らすことは許されず,療養施設にその存在すら否定されるように隔離されました。当時はハンセン病は強い伝染力のある病気と考えられていたため,父が顔を歪めて,本名や出身地,両親の名前を公言しないように戒めたのも,ハンセン病にかかったものが家族にいたと知れることで,そこで家族として生きていくことができなくなることを心配したためと考えられます。しかし本人にしてみれば,自分の本名さえ名のれないということは,自分自身の存在を否定されたも同然の辛い思いだったのではないかと思います。しかもその思いを四十五年間も背負い続けたのですから……。詩にある「罪によって生まれた」のでもなく「悪によって病人でいる」わけでもないという言葉に,自分の存在そのものを語ることが出来ず,生まれてきたこと自体を否定的に受け止めてきた,深い深い悲しみを感じます。でも,そんな環境の中で生きてきながら,現在85歳の詩人桜井哲夫さんは,底抜けに元気なのです。

金正美(キム・チョンミ)さんが,桜井さんにあったのは15年前のこと。療養所で開かれた詩話会にたまたま参加したチョンミさんは,そこで桜井さんと隣同士になります。自分自身の存在について悩んできたチョンミさんに,桜井さんは語りかけます。「あんた,在日の子だろう。おれたちは差別されているが施設のなかにいたら安心だけど,あんたはこれから大変だよ。つらくなったら遊びにおいで。」この一言を通して,チョンミさんは『どんな境遇におかれても他人を気遣うことができる人がいるのか』と心を揺さぶられたそうです。それ以来,チョンミさんは桜井さんの身近にいて,桜井さんを隔離された世界から外に連れ出し,外国にも出かけます。

初めて二人で旅に出た先は,桜井さんのふるさと青森でした。津軽の実家には,甥の長峰誠さんが跡を継いでいました。墓参りを一緒にした長峰さんは『おじさんだけじゃなく,みんな生まれた場所に帰りたいでしょう。本当の名前に戻したいでしょう。自分だったらそう思う。今からでも取り戻せるものがあるかもしれない。是非長峰利造の本名で帰ってきてください。おじさんを応援していますから』と話しました。甥の言葉を聞きながら,ふるさとがふるさとになったと,桜井さんは実感したのではないでしょうか。

その後,旅には,施設で看護師をしていた赤尾さんも加わるようになりました。今年の春は,またふるさとの津軽に行く予定とのことです。

       おじぎ草

                桜井 哲夫

   夏空を震わせて

   白樺の幹に鳴く蝉に

   おじぎ草がおじぎする

            包帯を巻いた指で

            おじぎ草に触れると

            おじぎ草がおじぎする

                    指を奪った「らい」に

                    指のない手を合わせ

                    おじぎ草のようにおじぎした

※詩は,桜井哲夫詩集・土曜美術社出版販売 より書き出しました。

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