今回は夢のない現実的な話です。
魚釣りは魚に傷付ける行為ですから、決していいことではありません。ですが、釣りという趣味を持ってしまった以上、それを分かっていて釣るのと解っていないで釣っているのとでは雲泥の差があるように思えます。
何故か魚は痛みを感じていないという風潮があります。魚が鈎に掛かって暴れるのは、自分の行動を阻止されるからであって痛みを感じているわけではないのだとか。。。でも本当にそうなのでしょうか?釣った時に魚の顔が苦痛にゆがまないし、泣き叫ぶわけでもありません。学者的に言うと、魚が痛みを感じていないとする根拠は痛みを感じるもの(自由神経終末とか痛点とか言われる)が見当たらないか、かなり少ないらしいことにその端を発しているようです。と言いながらもそういう論文を僕は知りませんし、実際にそうなのかも知りません。しかしながら、そういう可視的な見方しか出来ないのは学者のサガ。生物をマクロ的に見られないようです。
魚のみならず痛みというものについての知識があればこの答えは明白であり論議する価値すらないことが解ると思います。学者は当然知っていなければならないことですが、一般の人たちはこの『痛み』というものへの理解がない人も多々おられますので、まずこれを理解していただきたいと思います。
では『痛み』とは何者か?ということですが、普段の生活においてナイフや包丁、はたまたぶつけたり擦ったりして怪我をすることってありますよね。例えば刃物で手を切ってしまったとします。そこからは血が出て来て痛いですよね。でも、傷の程度にもよりますが、翌日くらいには傷口は開いているのに痛くない経験はありませんでしょうか?多分ほとんどの人がそういう経験をお持ちだと思います。でも、よく考えるとあれって不思議だと思いませんか?傷口がまだ開いているのに痛くないのですから。注意深い人は何でなんだろう?と不思議に感じたことがあると思いますが、一般的には『痛くないから、まっ、いいか』ってことでこの不思議な事象を深く考察する事は希で、そのまま忘れてしまっていつの間にか治ってしまっているというのが普通だと思います。ところがここに痛みの本質が隠れているのです。
傷はそのままでは細菌が入ってしまったりするのでその傷は出来るだけ早く治さなければなりません。しかしながらその開いた傷口に接着剤を塗ったりしなくてもちゃんと体が治してくれますよね。では誰がその傷を治しているのでしょう?これは脳です。脳は体の総てを管理・維持しています。傷や病気を負った場合に脳がそれを認識して勝手に治療してくれているのです。ですから脳はどこを治さなければならないか?を判断しなくてはいけません。ところが脳の方から四六時中体の隅々まで行って監視できるわけではないので、体の一部が傷や病気で壊れたらその事を脳に教える必要があります。その連絡が痛みなのです。
例えば上記のように刃物で手を切ってしまった例でお話しすると、刃物で切られた手の細胞は死んでしまいますので何も出来ませんが、その周囲の生きている細胞が切れた事を認識して脳に『ここが壊れたから治してくれーーーっ!』って信号を送るのです。これが痛みです。で、脳がそれを認識して『よし、分かった!』となって切れた部分の修理・修復に取り掛かるのです。そして傷が快方に向かうと今まで『治してくれーーーっ』て騒いでいた細胞たちは、脳が傷を認識して治し始めてくれたのですからもう騒ぐ必要がなくなり騒ぎを止めます。要は痛みがなくなるのです。ですから、翌日くらいになって傷口がまだ開いたままでも痛くないという事が起こるのはこのような事なのです。
では、この痛みという感覚がもしなかったらどうなるでしょう?そうです。皆様が考えたとおり傷はまったく治ってくれません。これは恐ろしい事です。どんなに小さな傷だって、もしまったく治らなければそこから細菌感染を起こし、それでも治さないのですからどんどんその感染は進み、そしていつしか全身に細菌が回って、いわゆる敗血症(はいけつしょう)を起こして死んでしまいます。
これで痛みと言うものが解ってもらえたでしょうか?上記のことが解れば痛みは誰にとっても嬉しくない感覚ですがとても大切な物である事がお解かりいただけたのではないかと思います。
それと、痛みは決して心地良い信号ではありませんが、もしその信号がその生き物にとって快適な感覚だったらどうでしょうか?その信号が気持ちいいのですから自らの体を自分で傷付けて喜んでしまう危険性があります。となると、これも修理・修復が間に合わなくなって死んでしまう結果となります。要はその信号はその生き物にとってとても不快である必要があるのです。
このようにして生き物は自分の体の傷や病気を自ら治すことが出来るのです。ですから、想像するにほとんど総ての生物がこの感覚を持っていると思われます。生物はこの感覚がないと生きていけないわけですから。勿論細菌やバクテリアなどのような低次元な生き物にはないかもしれませんが、彼らはその分繁殖力が半端ではないのでこんな感覚がなくても種は維持できてしまうのです。よって、ここでお話しているのはそういう低次元な生き物以上のお話と思っていただきたいと思います。
例えば何も考えてなさそうな植物だって傷付けば数日後には治っていることが多いことからも、多かれ少なかれ人間の痛みに相当する感覚があるのではないかと思います。
さていよいよ本題の魚は痛みを感じるか?についてですが、上記のことを理解すれば答えは明白でしょう。それが人の痛みと同じ感覚かどうか?は知る由もありませんが、それ相応の不快な感覚を持つ事は確かです。というより、そうでなければ生きて行けないのです。人と同じ感覚はどうかは魚になってみなければ解りません。それどころか、痛みという物が僕とそれ以外の人が同じ感覚かどうかさえも解りません。例えば僕が赤いと思う色は小さい頃からその色が赤だと教えられたから赤と認識しているだけで、もしかしたら隣の人は僕が緑と教えてもらった色に見えているかもしれません。それでも、その人はその色が赤だと教えてもらって育って来たのでその色を赤だと言っているのかもしれません。要は感覚と言うのはその総てにおいてその生き物になってみなければ解らないので、それを論議する事は無意味です。ですから、ここで言える事は痛みという僕と同じ感覚を魚が持っているかどうかはわかりませんが、少なくとも彼らにはとても不快な感覚があると言うことです。
で、ここからは蛇足になりますが、『じゃぁ、何故釣りなんて事をするのか?他の生き物に痛みかそれに相当する苦痛を与えて嬉しいのか?』と言われそうです。確かにその通りです。釣りなどのように生き物に怪我をさせることは決して良いことではありません。でも、人が生きて行く上で必ず他の生き物は犠牲になります。皆様も牛・豚・鳥などの肉を食べるでしょうし、植物も食べるでしょう。そうしなければ人は生きて行けないのです。ですから我々は生きるために牛・豚・鳥や植物を殺し自分の命を維持させるのです。これは生きていくために仕方なく殺す行為ですから許される範囲だと思います。ところが釣りは別にしなくたって自分が死ぬわけではありません。なのに辞められないのは自分の心に与える餌が釣りだからです。釣り師にとって釣りをしている時はこの世の物とは思えぬほどの悦楽を得ています。人は生きる上で心身がともに元気である必要があります。先にも言いましたが心身の『身』の方は牛・豚・鳥や植物を殺して食べさせていただくことにより元気になり、心身の『心』の方は魚に傷付けさせてもらうかもしれませんが、そうすることによって元気が正常に維持されるのです。
加えてそうして来た結果、悪いことばかりではないことに気付かされてきます。それは魚という生き物をより深く知ることが出来ること、そしてその事を通して自然の摂理が見えてくることです。そしてそこから発展して自然を大切にするようになり、加えて自分のやって来た行動に自戒の念が沸いてくることです。例えば、僕も含めて、現在沢山の人がC&R(キャッチ・アンド・リリース)を唱えていますが、あれはもう充分釣って来た人の言葉であって、最初からC&Rをやっているのはタナゴ釣りの人くらいではないでしょうか?僕自身も昔は沢山の魚を捕って食べました。もっともその頃は魚は沢山いたので今のような状況は想像すらしていませんでした。多分僕と同年代の人たちはみんなそうなのではないかと思います。そしてそれを続けて来た結果、魚は減るし魚の品は落ちるしと、とんでもないことになってしまいました。そこでC&Rをはじめたのです。よく考えれば勝手な話ですが、当時はみなが将来を理解できていなかったのですから仕方がないのです。僕らがやって来た反省を含めて、後世にいい環境を残してまた沢山の喜びを感じ、味わっていただきたいと思う心からです。
話は逸れましたが、人が生きていくためには沢山の他の生き物たちの犠牲の上に成り立っています。ですがこれも宿命とでも言いましょうか、神様が生物界のバランスをとるためにそう創ったのです。ただ、我々人間は理性を持っています。出来るだけ他の生き物を犠牲にしないで生きる事が出来ればそれに越したことはないということは重々承知しています。また生物界の頂点に立つ生物として生物界のバランスを取る事も必要な事は解っています。ですからそういう意味からすれば決して悪いことをしているわけではないのですが、結果的に魚たちを傷付け、苦しめることに変わりはありません。それでも辞められない釣りという趣味は恐ろしいほどの魔魅を兼ね備えてしまったとんでもない娯楽なのかもしれません。
魚釣りは魚に傷付ける行為ですから、決していいことではありません。ですが、釣りという趣味を持ってしまった以上、それを分かっていて釣るのと解っていないで釣っているのとでは雲泥の差があるように思えます。
何故か魚は痛みを感じていないという風潮があります。魚が鈎に掛かって暴れるのは、自分の行動を阻止されるからであって痛みを感じているわけではないのだとか。。。でも本当にそうなのでしょうか?釣った時に魚の顔が苦痛にゆがまないし、泣き叫ぶわけでもありません。学者的に言うと、魚が痛みを感じていないとする根拠は痛みを感じるもの(自由神経終末とか痛点とか言われる)が見当たらないか、かなり少ないらしいことにその端を発しているようです。と言いながらもそういう論文を僕は知りませんし、実際にそうなのかも知りません。しかしながら、そういう可視的な見方しか出来ないのは学者のサガ。生物をマクロ的に見られないようです。
魚のみならず痛みというものについての知識があればこの答えは明白であり論議する価値すらないことが解ると思います。学者は当然知っていなければならないことですが、一般の人たちはこの『痛み』というものへの理解がない人も多々おられますので、まずこれを理解していただきたいと思います。
では『痛み』とは何者か?ということですが、普段の生活においてナイフや包丁、はたまたぶつけたり擦ったりして怪我をすることってありますよね。例えば刃物で手を切ってしまったとします。そこからは血が出て来て痛いですよね。でも、傷の程度にもよりますが、翌日くらいには傷口は開いているのに痛くない経験はありませんでしょうか?多分ほとんどの人がそういう経験をお持ちだと思います。でも、よく考えるとあれって不思議だと思いませんか?傷口がまだ開いているのに痛くないのですから。注意深い人は何でなんだろう?と不思議に感じたことがあると思いますが、一般的には『痛くないから、まっ、いいか』ってことでこの不思議な事象を深く考察する事は希で、そのまま忘れてしまっていつの間にか治ってしまっているというのが普通だと思います。ところがここに痛みの本質が隠れているのです。
傷はそのままでは細菌が入ってしまったりするのでその傷は出来るだけ早く治さなければなりません。しかしながらその開いた傷口に接着剤を塗ったりしなくてもちゃんと体が治してくれますよね。では誰がその傷を治しているのでしょう?これは脳です。脳は体の総てを管理・維持しています。傷や病気を負った場合に脳がそれを認識して勝手に治療してくれているのです。ですから脳はどこを治さなければならないか?を判断しなくてはいけません。ところが脳の方から四六時中体の隅々まで行って監視できるわけではないので、体の一部が傷や病気で壊れたらその事を脳に教える必要があります。その連絡が痛みなのです。
例えば上記のように刃物で手を切ってしまった例でお話しすると、刃物で切られた手の細胞は死んでしまいますので何も出来ませんが、その周囲の生きている細胞が切れた事を認識して脳に『ここが壊れたから治してくれーーーっ!』って信号を送るのです。これが痛みです。で、脳がそれを認識して『よし、分かった!』となって切れた部分の修理・修復に取り掛かるのです。そして傷が快方に向かうと今まで『治してくれーーーっ』て騒いでいた細胞たちは、脳が傷を認識して治し始めてくれたのですからもう騒ぐ必要がなくなり騒ぎを止めます。要は痛みがなくなるのです。ですから、翌日くらいになって傷口がまだ開いたままでも痛くないという事が起こるのはこのような事なのです。
では、この痛みという感覚がもしなかったらどうなるでしょう?そうです。皆様が考えたとおり傷はまったく治ってくれません。これは恐ろしい事です。どんなに小さな傷だって、もしまったく治らなければそこから細菌感染を起こし、それでも治さないのですからどんどんその感染は進み、そしていつしか全身に細菌が回って、いわゆる敗血症(はいけつしょう)を起こして死んでしまいます。
これで痛みと言うものが解ってもらえたでしょうか?上記のことが解れば痛みは誰にとっても嬉しくない感覚ですがとても大切な物である事がお解かりいただけたのではないかと思います。
それと、痛みは決して心地良い信号ではありませんが、もしその信号がその生き物にとって快適な感覚だったらどうでしょうか?その信号が気持ちいいのですから自らの体を自分で傷付けて喜んでしまう危険性があります。となると、これも修理・修復が間に合わなくなって死んでしまう結果となります。要はその信号はその生き物にとってとても不快である必要があるのです。
このようにして生き物は自分の体の傷や病気を自ら治すことが出来るのです。ですから、想像するにほとんど総ての生物がこの感覚を持っていると思われます。生物はこの感覚がないと生きていけないわけですから。勿論細菌やバクテリアなどのような低次元な生き物にはないかもしれませんが、彼らはその分繁殖力が半端ではないのでこんな感覚がなくても種は維持できてしまうのです。よって、ここでお話しているのはそういう低次元な生き物以上のお話と思っていただきたいと思います。
例えば何も考えてなさそうな植物だって傷付けば数日後には治っていることが多いことからも、多かれ少なかれ人間の痛みに相当する感覚があるのではないかと思います。
さていよいよ本題の魚は痛みを感じるか?についてですが、上記のことを理解すれば答えは明白でしょう。それが人の痛みと同じ感覚かどうか?は知る由もありませんが、それ相応の不快な感覚を持つ事は確かです。というより、そうでなければ生きて行けないのです。人と同じ感覚はどうかは魚になってみなければ解りません。それどころか、痛みという物が僕とそれ以外の人が同じ感覚かどうかさえも解りません。例えば僕が赤いと思う色は小さい頃からその色が赤だと教えられたから赤と認識しているだけで、もしかしたら隣の人は僕が緑と教えてもらった色に見えているかもしれません。それでも、その人はその色が赤だと教えてもらって育って来たのでその色を赤だと言っているのかもしれません。要は感覚と言うのはその総てにおいてその生き物になってみなければ解らないので、それを論議する事は無意味です。ですから、ここで言える事は痛みという僕と同じ感覚を魚が持っているかどうかはわかりませんが、少なくとも彼らにはとても不快な感覚があると言うことです。
で、ここからは蛇足になりますが、『じゃぁ、何故釣りなんて事をするのか?他の生き物に痛みかそれに相当する苦痛を与えて嬉しいのか?』と言われそうです。確かにその通りです。釣りなどのように生き物に怪我をさせることは決して良いことではありません。でも、人が生きて行く上で必ず他の生き物は犠牲になります。皆様も牛・豚・鳥などの肉を食べるでしょうし、植物も食べるでしょう。そうしなければ人は生きて行けないのです。ですから我々は生きるために牛・豚・鳥や植物を殺し自分の命を維持させるのです。これは生きていくために仕方なく殺す行為ですから許される範囲だと思います。ところが釣りは別にしなくたって自分が死ぬわけではありません。なのに辞められないのは自分の心に与える餌が釣りだからです。釣り師にとって釣りをしている時はこの世の物とは思えぬほどの悦楽を得ています。人は生きる上で心身がともに元気である必要があります。先にも言いましたが心身の『身』の方は牛・豚・鳥や植物を殺して食べさせていただくことにより元気になり、心身の『心』の方は魚に傷付けさせてもらうかもしれませんが、そうすることによって元気が正常に維持されるのです。
加えてそうして来た結果、悪いことばかりではないことに気付かされてきます。それは魚という生き物をより深く知ることが出来ること、そしてその事を通して自然の摂理が見えてくることです。そしてそこから発展して自然を大切にするようになり、加えて自分のやって来た行動に自戒の念が沸いてくることです。例えば、僕も含めて、現在沢山の人がC&R(キャッチ・アンド・リリース)を唱えていますが、あれはもう充分釣って来た人の言葉であって、最初からC&Rをやっているのはタナゴ釣りの人くらいではないでしょうか?僕自身も昔は沢山の魚を捕って食べました。もっともその頃は魚は沢山いたので今のような状況は想像すらしていませんでした。多分僕と同年代の人たちはみんなそうなのではないかと思います。そしてそれを続けて来た結果、魚は減るし魚の品は落ちるしと、とんでもないことになってしまいました。そこでC&Rをはじめたのです。よく考えれば勝手な話ですが、当時はみなが将来を理解できていなかったのですから仕方がないのです。僕らがやって来た反省を含めて、後世にいい環境を残してまた沢山の喜びを感じ、味わっていただきたいと思う心からです。
話は逸れましたが、人が生きていくためには沢山の他の生き物たちの犠牲の上に成り立っています。ですがこれも宿命とでも言いましょうか、神様が生物界のバランスをとるためにそう創ったのです。ただ、我々人間は理性を持っています。出来るだけ他の生き物を犠牲にしないで生きる事が出来ればそれに越したことはないということは重々承知しています。また生物界の頂点に立つ生物として生物界のバランスを取る事も必要な事は解っています。ですからそういう意味からすれば決して悪いことをしているわけではないのですが、結果的に魚たちを傷付け、苦しめることに変わりはありません。それでも辞められない釣りという趣味は恐ろしいほどの魔魅を兼ね備えてしまったとんでもない娯楽なのかもしれません。