記念すべき宿です。
ここのところ、人を探していました。東日本大震災で被災してどこかに引っ越してしまった山形屋旅館の女将です。どこにいるのか?それよりまず生きているのかいないのかさえ判らないままに時が過ぎてしまっていました。以前あれだけお世話になりながらないもできないもどかしさがいつも心の中にありました。僕が(故)I先生と初めて竿を共にした以前http://blog.goo.ne.jp/ashitamotenkida/e/aadd459d9cea39edf9c664f9a56bed97で紹介した僕にとっては記念すべき宿です。
夫婦でやっている決して大きくはない宿でしたが、ご夫婦の心が温かく、それが僕らの心を掴んで離しませんでした。そんな女将の現在の状況はまったく不明でした。
先日、釣り仲間が集まる事があって、我々も被災した当旅館に何かが出来るのではないかという話になりました。偶然にも仲間がこの旅館があった場所の近くに行ったので、ついでと言っては何ですが当旅館があった場所を見てきました。・・・建物は総て流されて門柱だけが残っていたそうです。この話を聞いたときは最悪の結末をある程度覚悟せざるを得ない状況だと思いました。日が経つにつれて災害状況の大きさに驚くと共に、TVでは非難所の放映が多くなり。そのある放映された避難所のインタビューを受けていた人の後ろに山形屋さんの女将に良く似た人を見つけました。一瞬でしたが間違いなく女将だと思えてなりませんでした。・・・・・生きている・・・・・ただそれだけで嬉しく感じました。恐ろしい思いをしたことでしょう。でも、生きているってことだけでも儲けもの(言葉は適切ではないかもしれませんが)です。いつか、どこかで何かの機会にお会いできたら嬉しいなっ・・・なんて思っていました。大好きだったI先生と初めて竿を出した時に泊まった宿。つまり、I先生と初めて一つ屋根の下で過ごした宿です。僕の思い入れが少ないはずがありません。I先生のことを思い出すたびに悲しさが込み上げて来て涙が出てしまう僕でしたが、昨年くらいより良き思い出として心の整理が着いて来ております。悲しくて辛いと思っていたI先生とご一緒させていただいた日々が今、楽しくて僕が一番輝いていた時の思いでに変わってきているのです。そんな素敵な思い出を残してくれたI先生も山形屋さんが宿を閉じて数年で天国へと旅立って行きました。そして2011年(平成23年)3月11日。そう、東日本大震災です。渓流釣りが大好きな僕は東北に数人の釣り友達がいます。とても心配になりました。そしてこの山形屋さんも。
山形屋さんは石巻の幸町にあった小さな宿です。震災直後には水没していたとか。いずれにしても大打撃を被った地域です。I先生が他界されたので山形屋さんとは疎縁になっていましたが、僕の心の中に素敵な宿としてその存在感はかなりのものがありました。でもこんな状況下でご夫婦が生きている可能性の方が低いなか、上記のようなTVを見たのでこんなに嬉しいことはありませんでした。ただ、その映像に映った人が女将である証拠はどこにもありません。探すべきか?探さざるべきか?迷いました。このまま生きている事を信じていた方が幸せかもしれないからです。そして探す勇気もないまま月日が流れて行きました。
しかし、先日同業者で作っている釣りの会の幹事会が開催され、その席で山形屋さんはどうなってるんだ?という話が出ました。みんなにとっても思い出が詰まっている懐かしい宿。きっとみんなが僕と同じ気持ちで、探していいのか探さない方がいいのか迷い続けていたのだと思います。そしてこういう気持ちのまま過ごすのも精神衛生上良くないし、何よりも僕が見たTV放映は他の人も見ていたという情報もあって、生きている確率の方が高いように思えて来ました。そして誰がというのではなく・・・探そう・・・そんな言葉が出始めました。そしてこの会の副会長(会長のI先生は他界されたので実質上の会長)から『探しましょう!そしてもし生きておられるのであればこの会でも何かが出来るかもしれません。そうすればこの宿が大好きだったI先生もお喜びになると思います。』と。
そして幹事会に出席した6名全員で探し始めました。情報は住所と電話番号と『山形屋』という宿の名前だけ。それまで『山形屋さん』で事足りていたので本名も知りません。まずは山形屋を管轄している役場(渡波支所)に電話したところ『宿の名前では判りません。』『旅館協会みたいな所に聞いてみたらいかがでしょう?』と。で、旅館協会みたいなところの電話番号を聞いたら『NTTで聞いてください。』とまったくやる気がない返事。こんな奴に聞いても何も出て来ない感じがしました。そこでグーグルマップで現地の航空写真を見てみました。以前は隙間なく建っていた建物がなくなって、草原にいくつか建物が建っている感じです。勿論山形屋さんがあった場所も草原になっています。そして、山形屋さんの近くに建っている建物の住所から古い電話番号(2000年のもの)を調べ出し、現在商売をしている建物はその名前から電話番号を調べ出し、それらの番号を片っ端から電話していきました。流石に古い電話番号の方はほとんど通じず。いくつかつながったものもありますが、情報はまったく得られませんでした。商売をしている所からはいくつか情報を得ることが出来ました。でもほとんどが相手にされません。昔よく利用させていただいた釣り具屋はあまりにもそっけない対応でガックリ。もう二度と利用しないと思いました。でも、何軒かは相手にしてくれて・・・タクシー会社は市町村で作っていた震災前の地図を引っ張り出してきてくれて、そこからご主人の本名を知る事ができました。本名が判ったので再び渡波支所に尋ねたところ、今度は個人情報保護法があるから教えられないと。でも、必ず転居届けを出しているはずですから知る事は出来るはずです。ただ教えられないだけです。ですから次のような提案をしてみました。『法律があるので教えてもらえないのは判ります。でしたら、有料でも構いませんので、こちらの故人情報(住所、名前、電話番号など)を明かしますので、それを相手に伝えていただけませんか?これなら相手が連絡を取る取らないは自由ですし、個人情報保護法に違反しないはずですから。』と。そうしたら『そういうことはやっていません。』だって。個人情報保護法ですっかり楽を覚えてしまった彼らの姿が見えました。役所がどんな役をするところなのか?をまるで理解していないこういう族に我々が給料を出しているかと思うと腹立たしささえ感じてしまいます。自分たちが被災された方々に何が出来るか?はたまた自分たちにしか出来ないことは何なのか?もし法律に触れるなら触れないで出来る方法はないのか?最低でもこのくらいのことは考えてもらえないと役所が存在する意味がありません。
復興に当たっては住民たちは一生懸命です。でもその中心にならなくてはならないはずの役場がなにもしません。というより自らの楽のために我々の出鼻をくじく行為をして来ます。他の役場ではどうなのか知りませんが、少なくとも渡波支所はそういう役場でした。
少し触れましたが、住民たちは復興に向けて一生懸命やっている人たちが多いです。僕が今回この人を探すために色々なところに電話しまくりました。そして、一番優しかったのは山形屋旅館の近所でやっている『あまの美容室』さんでした。そして震災後に山形屋さんが自分たちが過ごした土地に来ていて、その際ご夫婦と会話を交わしたことをお話してくれました。このことからご夫婦が健在であることが判りました。もう、これだけで嬉しくって気持ちは舞い上がってしまいました。加えてその会話で、今は仙台に住んでいること、そして始めての土地で不安だったにも関わらず、周囲の人がみんな優しいので楽しく過ごせている事を教えてくれました。そして、これから自らの足で情報収集をしてくれると。まだ震災の混乱が残る中、僕のために動いてくれるということです。こんなまでしてくれるあまの美容室様に感動してしまいました。大変申し訳ないと思いながらも埼玉に住んでいる僕は現地での情報収集は無理なので恐縮ではありましたがお願いしてしまいました。それともう一軒『日の出館』という施設でしょうか?連絡したら情報は全然ありませんでしたが『集会などがあるので集まった人に聞いてあげる』と。役所と違って沢山の親切な人がいることに喜びを感じました。
とにかく山形屋旅館のご夫婦が生きておられることが判明した今、今回は手段を選ばず出来るだけの事をして探し出したいと思いました。数件の不動産屋さんにも電話しました。もしかしたら山形屋旅館さんがあの土地を売りに出しているかもしれないからです。もし売りに出していればそこに糸口があるかもしれません。しかしダメでした。東急リバブル東北支店仙台センターに電話した時、最初に出た女性の方に訳を話すと色々と調べてくれたのですが、担当の方(男性)に代わったらいきなり仕事の話以外は取り扱わない感じ(要は『買う気はないんでしょ?』っていう感じ)。その通りですから仕方がないのですが、そういうことをあまり表に出すと悪い印象を持たれますので、この人も悲しい人でした。また、昔の地図で住所から電話番号を調べて個人の家にも電話してみましたが情報が古過ぎたのか一軒も通じませんでした。それから(故)I先生の奥様にも電話してみました。灯台元暗しで案外年賀状とか来ているかもしれないと思ったのです。でもやはり音信普通になっていました。こんなことをしていたら僕が張った情報網に引っ掛かってきたものがありました。で、早速電話してみました。もしかしたら・・・という期待を胸に。受話器から聞こえるプルルルルル・・・プルルルルルという音、そして祈る想い・・・『ハイっ』と出たその声・・・ピンッ!と来ました。そうです、あの山形屋旅館さんの女将の声です。この時点で間違いないと思ったのですが確証はありません。そこで『突然電話して申し訳ございません。恐縮ですがつかぬ事をお伺いしたいのですが。。』と切り出すと『ハイ』と。で、『○○さん(本名)は昔石巻で「山形屋旅館」をやられていませんでしたか?』と。『は~~~い』と突然声のトーンが上がり、この声とともに僕が探していた山形屋旅館さんの女将であることの確証が取れました。『昔いつもI先生とお世話になった○○○(管理人の本名)です。』と名乗ると『はい、はい、はい。あの時の・・・』と。声が震えはじめ、“あの頃”の話を色々としました。僕も鳥肌が立ってまさに感動の嵐。そして被災した時の貴重なお話も聞かせてくれました。そして何よりも嬉しかったのは現在も夫婦共に元気になさっていることでした。
こうして幕を閉じた山形屋旅館さん探しでしたが、その中で沢山の現地の人とお話をしました。親切な人は『探してあげる』って言ってくれて・・・。山形屋旅館さんの消息が判明したので、翌日はそんな人たちに結果の報告とお礼の電話をしました。一番親切にしてくれたのは『あまの美容室』様。自分の足で近所を廻ってくれて、関係がありそうな所にも出向いてくれて・・・とにかく一生懸命にやってくれました。そして、どうしてそんなに優しくしてくれるのか?の理由がお礼の電話での会話で解りました。あまのさんも神戸の人が探してくれていて再会できた過去があったのです。その時のことをお話しているあまのさんは『こんな私なんかでも探してくれた人がいたことを思うと今でも嬉しくて。。。』と電話の向こうは涙声。続けて『山形屋さんもきっと同じだと思います。』って。色々と話をしてくれて・・・最後には『こちらに来る事はありませんか?』と聞かれたので、現在僕は色々な人やワンコの介護で時間が取れないがこれらが一段落したらまた万石浦で糸を垂れたい旨を伝えました。そうしたらとても喜んでくれて『もしそんな時がありましたら宿を取らないでご一報下さい。そして我が家に泊まって下さい。』と。ちなみに、お嬢様がやられているお店が『美味しい』と評判ですので、もしこちらに来られる時には是非食べてみてくださいと。このお店だそうです。
http://imamura-ishinomaki.com/
一週間くらい前に予約しないと食べられないほど混雑しているので要注意だそうです。
と、コマーシャル付でした(笑。
まだまだ被災された地区は復興が行き届いておりません。今回僕が苦労したようにご健在であっても連絡が取れなくなっておられる方も多いと思います。本来であれば引っ越す時には転居届けなどを出すわけですから役所がその橋渡しをしなければなりません。しかし、個人情報保護法が成立したあと役所の連中は“楽”を覚えてしまいました。これが原因で親子、家族、親戚、そして友人であっても、特に高齢者などでは会えずして亡くなられてしまう人もおられる事と思います。石巻の渡波地区では民間は復興に向けて一生懸命にやっているのにその邪魔をしているのが行政であることがとても良く解りました。『個人情報保護のために教えられない。』・・・「だったらこちらの個人情報を教えるから先方に連絡してくれないか?」・・・『そういうことはやっておりません』というやり取りから皆様もお解かりになるかと思われます。住民の税金で給料をもらっている彼らですからこのくらいの恩返しはしていいのではないでしょうか?これなら何の法律にも触れないのですから。
ここのところ、人を探していました。東日本大震災で被災してどこかに引っ越してしまった山形屋旅館の女将です。どこにいるのか?それよりまず生きているのかいないのかさえ判らないままに時が過ぎてしまっていました。以前あれだけお世話になりながらないもできないもどかしさがいつも心の中にありました。僕が(故)I先生と初めて竿を共にした以前http://blog.goo.ne.jp/ashitamotenkida/e/aadd459d9cea39edf9c664f9a56bed97で紹介した僕にとっては記念すべき宿です。
夫婦でやっている決して大きくはない宿でしたが、ご夫婦の心が温かく、それが僕らの心を掴んで離しませんでした。そんな女将の現在の状況はまったく不明でした。
先日、釣り仲間が集まる事があって、我々も被災した当旅館に何かが出来るのではないかという話になりました。偶然にも仲間がこの旅館があった場所の近くに行ったので、ついでと言っては何ですが当旅館があった場所を見てきました。・・・建物は総て流されて門柱だけが残っていたそうです。この話を聞いたときは最悪の結末をある程度覚悟せざるを得ない状況だと思いました。日が経つにつれて災害状況の大きさに驚くと共に、TVでは非難所の放映が多くなり。そのある放映された避難所のインタビューを受けていた人の後ろに山形屋さんの女将に良く似た人を見つけました。一瞬でしたが間違いなく女将だと思えてなりませんでした。・・・・・生きている・・・・・ただそれだけで嬉しく感じました。恐ろしい思いをしたことでしょう。でも、生きているってことだけでも儲けもの(言葉は適切ではないかもしれませんが)です。いつか、どこかで何かの機会にお会いできたら嬉しいなっ・・・なんて思っていました。大好きだったI先生と初めて竿を出した時に泊まった宿。つまり、I先生と初めて一つ屋根の下で過ごした宿です。僕の思い入れが少ないはずがありません。I先生のことを思い出すたびに悲しさが込み上げて来て涙が出てしまう僕でしたが、昨年くらいより良き思い出として心の整理が着いて来ております。悲しくて辛いと思っていたI先生とご一緒させていただいた日々が今、楽しくて僕が一番輝いていた時の思いでに変わってきているのです。そんな素敵な思い出を残してくれたI先生も山形屋さんが宿を閉じて数年で天国へと旅立って行きました。そして2011年(平成23年)3月11日。そう、東日本大震災です。渓流釣りが大好きな僕は東北に数人の釣り友達がいます。とても心配になりました。そしてこの山形屋さんも。
山形屋さんは石巻の幸町にあった小さな宿です。震災直後には水没していたとか。いずれにしても大打撃を被った地域です。I先生が他界されたので山形屋さんとは疎縁になっていましたが、僕の心の中に素敵な宿としてその存在感はかなりのものがありました。でもこんな状況下でご夫婦が生きている可能性の方が低いなか、上記のようなTVを見たのでこんなに嬉しいことはありませんでした。ただ、その映像に映った人が女将である証拠はどこにもありません。探すべきか?探さざるべきか?迷いました。このまま生きている事を信じていた方が幸せかもしれないからです。そして探す勇気もないまま月日が流れて行きました。
しかし、先日同業者で作っている釣りの会の幹事会が開催され、その席で山形屋さんはどうなってるんだ?という話が出ました。みんなにとっても思い出が詰まっている懐かしい宿。きっとみんなが僕と同じ気持ちで、探していいのか探さない方がいいのか迷い続けていたのだと思います。そしてこういう気持ちのまま過ごすのも精神衛生上良くないし、何よりも僕が見たTV放映は他の人も見ていたという情報もあって、生きている確率の方が高いように思えて来ました。そして誰がというのではなく・・・探そう・・・そんな言葉が出始めました。そしてこの会の副会長(会長のI先生は他界されたので実質上の会長)から『探しましょう!そしてもし生きておられるのであればこの会でも何かが出来るかもしれません。そうすればこの宿が大好きだったI先生もお喜びになると思います。』と。
そして幹事会に出席した6名全員で探し始めました。情報は住所と電話番号と『山形屋』という宿の名前だけ。それまで『山形屋さん』で事足りていたので本名も知りません。まずは山形屋を管轄している役場(渡波支所)に電話したところ『宿の名前では判りません。』『旅館協会みたいな所に聞いてみたらいかがでしょう?』と。で、旅館協会みたいなところの電話番号を聞いたら『NTTで聞いてください。』とまったくやる気がない返事。こんな奴に聞いても何も出て来ない感じがしました。そこでグーグルマップで現地の航空写真を見てみました。以前は隙間なく建っていた建物がなくなって、草原にいくつか建物が建っている感じです。勿論山形屋さんがあった場所も草原になっています。そして、山形屋さんの近くに建っている建物の住所から古い電話番号(2000年のもの)を調べ出し、現在商売をしている建物はその名前から電話番号を調べ出し、それらの番号を片っ端から電話していきました。流石に古い電話番号の方はほとんど通じず。いくつかつながったものもありますが、情報はまったく得られませんでした。商売をしている所からはいくつか情報を得ることが出来ました。でもほとんどが相手にされません。昔よく利用させていただいた釣り具屋はあまりにもそっけない対応でガックリ。もう二度と利用しないと思いました。でも、何軒かは相手にしてくれて・・・タクシー会社は市町村で作っていた震災前の地図を引っ張り出してきてくれて、そこからご主人の本名を知る事ができました。本名が判ったので再び渡波支所に尋ねたところ、今度は個人情報保護法があるから教えられないと。でも、必ず転居届けを出しているはずですから知る事は出来るはずです。ただ教えられないだけです。ですから次のような提案をしてみました。『法律があるので教えてもらえないのは判ります。でしたら、有料でも構いませんので、こちらの故人情報(住所、名前、電話番号など)を明かしますので、それを相手に伝えていただけませんか?これなら相手が連絡を取る取らないは自由ですし、個人情報保護法に違反しないはずですから。』と。そうしたら『そういうことはやっていません。』だって。個人情報保護法ですっかり楽を覚えてしまった彼らの姿が見えました。役所がどんな役をするところなのか?をまるで理解していないこういう族に我々が給料を出しているかと思うと腹立たしささえ感じてしまいます。自分たちが被災された方々に何が出来るか?はたまた自分たちにしか出来ないことは何なのか?もし法律に触れるなら触れないで出来る方法はないのか?最低でもこのくらいのことは考えてもらえないと役所が存在する意味がありません。
復興に当たっては住民たちは一生懸命です。でもその中心にならなくてはならないはずの役場がなにもしません。というより自らの楽のために我々の出鼻をくじく行為をして来ます。他の役場ではどうなのか知りませんが、少なくとも渡波支所はそういう役場でした。
少し触れましたが、住民たちは復興に向けて一生懸命やっている人たちが多いです。僕が今回この人を探すために色々なところに電話しまくりました。そして、一番優しかったのは山形屋旅館の近所でやっている『あまの美容室』さんでした。そして震災後に山形屋さんが自分たちが過ごした土地に来ていて、その際ご夫婦と会話を交わしたことをお話してくれました。このことからご夫婦が健在であることが判りました。もう、これだけで嬉しくって気持ちは舞い上がってしまいました。加えてその会話で、今は仙台に住んでいること、そして始めての土地で不安だったにも関わらず、周囲の人がみんな優しいので楽しく過ごせている事を教えてくれました。そして、これから自らの足で情報収集をしてくれると。まだ震災の混乱が残る中、僕のために動いてくれるということです。こんなまでしてくれるあまの美容室様に感動してしまいました。大変申し訳ないと思いながらも埼玉に住んでいる僕は現地での情報収集は無理なので恐縮ではありましたがお願いしてしまいました。それともう一軒『日の出館』という施設でしょうか?連絡したら情報は全然ありませんでしたが『集会などがあるので集まった人に聞いてあげる』と。役所と違って沢山の親切な人がいることに喜びを感じました。
とにかく山形屋旅館のご夫婦が生きておられることが判明した今、今回は手段を選ばず出来るだけの事をして探し出したいと思いました。数件の不動産屋さんにも電話しました。もしかしたら山形屋旅館さんがあの土地を売りに出しているかもしれないからです。もし売りに出していればそこに糸口があるかもしれません。しかしダメでした。東急リバブル東北支店仙台センターに電話した時、最初に出た女性の方に訳を話すと色々と調べてくれたのですが、担当の方(男性)に代わったらいきなり仕事の話以外は取り扱わない感じ(要は『買う気はないんでしょ?』っていう感じ)。その通りですから仕方がないのですが、そういうことをあまり表に出すと悪い印象を持たれますので、この人も悲しい人でした。また、昔の地図で住所から電話番号を調べて個人の家にも電話してみましたが情報が古過ぎたのか一軒も通じませんでした。それから(故)I先生の奥様にも電話してみました。灯台元暗しで案外年賀状とか来ているかもしれないと思ったのです。でもやはり音信普通になっていました。こんなことをしていたら僕が張った情報網に引っ掛かってきたものがありました。で、早速電話してみました。もしかしたら・・・という期待を胸に。受話器から聞こえるプルルルルル・・・プルルルルルという音、そして祈る想い・・・『ハイっ』と出たその声・・・ピンッ!と来ました。そうです、あの山形屋旅館さんの女将の声です。この時点で間違いないと思ったのですが確証はありません。そこで『突然電話して申し訳ございません。恐縮ですがつかぬ事をお伺いしたいのですが。。』と切り出すと『ハイ』と。で、『○○さん(本名)は昔石巻で「山形屋旅館」をやられていませんでしたか?』と。『は~~~い』と突然声のトーンが上がり、この声とともに僕が探していた山形屋旅館さんの女将であることの確証が取れました。『昔いつもI先生とお世話になった○○○(管理人の本名)です。』と名乗ると『はい、はい、はい。あの時の・・・』と。声が震えはじめ、“あの頃”の話を色々としました。僕も鳥肌が立ってまさに感動の嵐。そして被災した時の貴重なお話も聞かせてくれました。そして何よりも嬉しかったのは現在も夫婦共に元気になさっていることでした。
こうして幕を閉じた山形屋旅館さん探しでしたが、その中で沢山の現地の人とお話をしました。親切な人は『探してあげる』って言ってくれて・・・。山形屋旅館さんの消息が判明したので、翌日はそんな人たちに結果の報告とお礼の電話をしました。一番親切にしてくれたのは『あまの美容室』様。自分の足で近所を廻ってくれて、関係がありそうな所にも出向いてくれて・・・とにかく一生懸命にやってくれました。そして、どうしてそんなに優しくしてくれるのか?の理由がお礼の電話での会話で解りました。あまのさんも神戸の人が探してくれていて再会できた過去があったのです。その時のことをお話しているあまのさんは『こんな私なんかでも探してくれた人がいたことを思うと今でも嬉しくて。。。』と電話の向こうは涙声。続けて『山形屋さんもきっと同じだと思います。』って。色々と話をしてくれて・・・最後には『こちらに来る事はありませんか?』と聞かれたので、現在僕は色々な人やワンコの介護で時間が取れないがこれらが一段落したらまた万石浦で糸を垂れたい旨を伝えました。そうしたらとても喜んでくれて『もしそんな時がありましたら宿を取らないでご一報下さい。そして我が家に泊まって下さい。』と。ちなみに、お嬢様がやられているお店が『美味しい』と評判ですので、もしこちらに来られる時には是非食べてみてくださいと。このお店だそうです。
http://imamura-ishinomaki.com/
一週間くらい前に予約しないと食べられないほど混雑しているので要注意だそうです。
と、コマーシャル付でした(笑。
まだまだ被災された地区は復興が行き届いておりません。今回僕が苦労したようにご健在であっても連絡が取れなくなっておられる方も多いと思います。本来であれば引っ越す時には転居届けなどを出すわけですから役所がその橋渡しをしなければなりません。しかし、個人情報保護法が成立したあと役所の連中は“楽”を覚えてしまいました。これが原因で親子、家族、親戚、そして友人であっても、特に高齢者などでは会えずして亡くなられてしまう人もおられる事と思います。石巻の渡波地区では民間は復興に向けて一生懸命にやっているのにその邪魔をしているのが行政であることがとても良く解りました。『個人情報保護のために教えられない。』・・・「だったらこちらの個人情報を教えるから先方に連絡してくれないか?」・・・『そういうことはやっておりません』というやり取りから皆様もお解かりになるかと思われます。住民の税金で給料をもらっている彼らですからこのくらいの恩返しはしていいのではないでしょうか?これなら何の法律にも触れないのですから。