以前ここに掲載した鈎です。
http://blog.goo.ne.jp/ashitamotenkida/e/80d0d7daa6e4e75fbd134c1c668975cd参照
徳之島空港に飾られた写真です。カメラを持って行ったのに電池を忘れていってしまって(大間抜けで管理人らしい?・・・悲)。携帯で撮った写真です。見づらくてすみません。
やっとこの鈎が活躍した現場である徳之島に帰郷した直後の写真です。偶然に知り合った徳之島の方が間を取りもってくれて帰郷が具現化しました。
まず、この鈎の帰郷にあたり、手はずを整えてくれた天城町役場総務課室長のTo様、そして徳之島町地域営業課課長のMa様。加えて当日僕に観光案内までしてくれた徳之島観光連盟事務局長のMa様、同連盟課長のSo様、そして美味しいお酒を作ってくれた同連盟のSa嬢(順不同をお許し下さい)には大変なお骨折りをいただき、そしてこの鈎と僕を暖かく迎えてくれたことに本当に感謝しております。そして、ありがとうございました。ちなみにこの鈎は今後徳之島の3町を廻り、その後最終的にはこの鈎の活躍舞台となった母間に行くようです。
私的に、この鈎が僕の職場に飾られている間、この鈎を見るたびに島の方々の情熱がビンビン伝わって来ました。そしてこの一つの鈎から沢山のことを想像したりして楽しんでいました。一匹の魚を狙って一千万円もの巨額を投入するなど、今の時代ではとても考えられない事ですし、誰もやらないでしょう。それだけでも十分に素晴らしい事だと思いますし、その夢に賭けた情熱に価値を感じてしまうのです。何も夢を持てない若者が増えて来ている現代ですから、尚更そう思えてしまうのかもしれません。当時の事ですから道具類もそれほど良い物があったわけではありません。この鈎もバールを曲げて作られているようです。こんな鈎を見ていると当時の情熱が感じられて、それだけでワクワクしてとても楽しい鈎でした。
この鈎を見ていると徳之島の方々や奄美から参加された方々がこの鈎に込められた世界でも類を見ないほどの夢と情熱が、34年経った今でもオーラとなって発散しているように感じられるのは僕だけではないと思います。きっとこの鈎の現物を見ていただけたら誰でもそれを感じていただけると思います。
徳之島はとても素敵な所でした。僕も仕事をリタイヤしたら移住させてもらいたいくらい素晴らしい島でした。何がそんなに気に入ったかといいますと、島民の方々と話すほどに島人の心の暖かさが伝わって来る島だったからです。世界一長寿でギネスにも登録された泉重千代さんやかまと婆さんの愛称で知られるも本郷かまとさんもこの島の人です。行って沢山の人と会話を交わすとこういう長寿の方がここで生まれるというのも解るような気がします。もしこのBlogを訪れる人がおられましたら是非一度徳之島に行かれることそお勧めします。そして沢山の島の方々といっぱいお話してみてください。きっと皆様も島人の暖かさを感じられることと思います。そして時間が余りましたら是非一度この鈎を実際に見ていただきたいと思います。
僕の記憶ではこの鈎を手に入れたのは2002年7月21日。奄美本島の田畑信市氏から条件付で譲り受けました。その条件とは『もしこの鈎が不要になったときには捨てたりしないで徳之島に返してあげてください』というものでした。当時この夢にかかわった人だから言える言葉だと思いました。ある意味、この鈎は徳之島の文化遺産と言っても過言ではないと思っています。風化させるわけには行きません。よって、知り合い(玉井守也氏)に頼んで錆びない工夫をしてもらいました。完全密閉したガラス容器に入れ、中の酸素を抜いてあるそうです(脱酸素)。錆は酸化ですから酸素がなければ錆びないのです。手の込んだ作品が多い彼ですから今回もとても素敵に仕上げてくれました。そして職場に飾らせていただいて毎日これを拝んで楽しんでいたって言う訳です。
でも、こんな素晴らしい鈎を独りでニタニタ見ているのはもったいな過ぎです。そこで田畑氏との約束を果たすために徳之島への帰郷を考えました。時期的にも当時のことを知っている人は沢山いますので、そういう人たちから沢山の情報を集めていただき、この徳之島の大アラ事件の詳細を後世に残していただきたいと考えたからです。
2013年の23日~24日の連休を使って持って行きました。本来なら宅急便で送ってしまえば簡単なことです。しかし、この鈎は脱酸素のために密閉したガラスケースに入れてもらったのですが、鈎とガラスとのクリアランスが少ないので衝撃があると鈎本体がガラスを叩いて割れてしまう可能性があることを製作者から指摘されました。ですからいくらワレモノで送っても、もしもの事があったら無責任過ぎます。で、自分で運ぶことにしたのです。突起した部分を発泡シートで包み、ガラスケースの縁に発泡ケースの直角部分を切り取って取り付け、その周りをプチプチのシートで包み、それを建材のスタイロフォームで囲い、それをダンボールにきっちりと入るようにしてガムテープでグルグル巻きにして持って行きました。ある意味、僕もこの鈎に情熱を注いでしまったような・・・(笑。 こんな事をしたものですからかなり巨大化してしまって、羽田空港に向かう電車の中では沢山の人に迷惑を掛けてしまいました。空港でも荷物を預ける時に色々と考えてくれて・・・JALの方々には本当に感謝しております。でもお陰様で無事に徳之島に届けることが出来ました。
こうして無事帰郷となったわけですが、ずっと“いつかはお返ししなきゃならない”と思い続けていた僕ですので、なんとなく肩の荷が下りた気持ちです。でも明日職場に行くと、もうそこにこの鈎はありません。正直なところ、寂しくなってしまった感は否定できません。世界に二本しかない鈎ですから是非大切にしていただきたいと願うばかりです。
今回初めて徳之島を訪れた僕ですが、この二日間で何人もの島民の方々とお話をさせていただき、この巨大アラの事件の事を聞いてみると40歳くらい以上の島民であれば全員が知っていました。こんなことから、この大アラ事件が当時もの凄いセンセーショナルな出来事だったことは事実のようです。そんな体験して来ると、これはこれで良かったのだと思えます。
少なくとも僕が手に入れてからずっと夢を与えてくれたこの鈎。僕にとってはとても幸運を呼んでくれる鈎でした。ですからきっとこれからも島の方々にも良い運を運んでくれることを信じています。大アラは釣れませんでしたがもっとデカイ夢を釣ってくれると思っています。
寂しいですがこの鈎は遠くでひっそりと、でも大きな存在としてあり続けてくれると思います。僕自身、またいつの日かこの鈎に会うために島を訪れたいと考えています。それまではしばらくサヨナラです。この鈎が島民のあの情熱を後世に語り続けてくれることを祈りながら。
http://blog.goo.ne.jp/ashitamotenkida/e/80d0d7daa6e4e75fbd134c1c668975cd参照
徳之島空港に飾られた写真です。カメラを持って行ったのに電池を忘れていってしまって(大間抜けで管理人らしい?・・・悲)。携帯で撮った写真です。見づらくてすみません。
やっとこの鈎が活躍した現場である徳之島に帰郷した直後の写真です。偶然に知り合った徳之島の方が間を取りもってくれて帰郷が具現化しました。
まず、この鈎の帰郷にあたり、手はずを整えてくれた天城町役場総務課室長のTo様、そして徳之島町地域営業課課長のMa様。加えて当日僕に観光案内までしてくれた徳之島観光連盟事務局長のMa様、同連盟課長のSo様、そして美味しいお酒を作ってくれた同連盟のSa嬢(順不同をお許し下さい)には大変なお骨折りをいただき、そしてこの鈎と僕を暖かく迎えてくれたことに本当に感謝しております。そして、ありがとうございました。ちなみにこの鈎は今後徳之島の3町を廻り、その後最終的にはこの鈎の活躍舞台となった母間に行くようです。
私的に、この鈎が僕の職場に飾られている間、この鈎を見るたびに島の方々の情熱がビンビン伝わって来ました。そしてこの一つの鈎から沢山のことを想像したりして楽しんでいました。一匹の魚を狙って一千万円もの巨額を投入するなど、今の時代ではとても考えられない事ですし、誰もやらないでしょう。それだけでも十分に素晴らしい事だと思いますし、その夢に賭けた情熱に価値を感じてしまうのです。何も夢を持てない若者が増えて来ている現代ですから、尚更そう思えてしまうのかもしれません。当時の事ですから道具類もそれほど良い物があったわけではありません。この鈎もバールを曲げて作られているようです。こんな鈎を見ていると当時の情熱が感じられて、それだけでワクワクしてとても楽しい鈎でした。
この鈎を見ていると徳之島の方々や奄美から参加された方々がこの鈎に込められた世界でも類を見ないほどの夢と情熱が、34年経った今でもオーラとなって発散しているように感じられるのは僕だけではないと思います。きっとこの鈎の現物を見ていただけたら誰でもそれを感じていただけると思います。
徳之島はとても素敵な所でした。僕も仕事をリタイヤしたら移住させてもらいたいくらい素晴らしい島でした。何がそんなに気に入ったかといいますと、島民の方々と話すほどに島人の心の暖かさが伝わって来る島だったからです。世界一長寿でギネスにも登録された泉重千代さんやかまと婆さんの愛称で知られるも本郷かまとさんもこの島の人です。行って沢山の人と会話を交わすとこういう長寿の方がここで生まれるというのも解るような気がします。もしこのBlogを訪れる人がおられましたら是非一度徳之島に行かれることそお勧めします。そして沢山の島の方々といっぱいお話してみてください。きっと皆様も島人の暖かさを感じられることと思います。そして時間が余りましたら是非一度この鈎を実際に見ていただきたいと思います。
僕の記憶ではこの鈎を手に入れたのは2002年7月21日。奄美本島の田畑信市氏から条件付で譲り受けました。その条件とは『もしこの鈎が不要になったときには捨てたりしないで徳之島に返してあげてください』というものでした。当時この夢にかかわった人だから言える言葉だと思いました。ある意味、この鈎は徳之島の文化遺産と言っても過言ではないと思っています。風化させるわけには行きません。よって、知り合い(玉井守也氏)に頼んで錆びない工夫をしてもらいました。完全密閉したガラス容器に入れ、中の酸素を抜いてあるそうです(脱酸素)。錆は酸化ですから酸素がなければ錆びないのです。手の込んだ作品が多い彼ですから今回もとても素敵に仕上げてくれました。そして職場に飾らせていただいて毎日これを拝んで楽しんでいたって言う訳です。
でも、こんな素晴らしい鈎を独りでニタニタ見ているのはもったいな過ぎです。そこで田畑氏との約束を果たすために徳之島への帰郷を考えました。時期的にも当時のことを知っている人は沢山いますので、そういう人たちから沢山の情報を集めていただき、この徳之島の大アラ事件の詳細を後世に残していただきたいと考えたからです。
2013年の23日~24日の連休を使って持って行きました。本来なら宅急便で送ってしまえば簡単なことです。しかし、この鈎は脱酸素のために密閉したガラスケースに入れてもらったのですが、鈎とガラスとのクリアランスが少ないので衝撃があると鈎本体がガラスを叩いて割れてしまう可能性があることを製作者から指摘されました。ですからいくらワレモノで送っても、もしもの事があったら無責任過ぎます。で、自分で運ぶことにしたのです。突起した部分を発泡シートで包み、ガラスケースの縁に発泡ケースの直角部分を切り取って取り付け、その周りをプチプチのシートで包み、それを建材のスタイロフォームで囲い、それをダンボールにきっちりと入るようにしてガムテープでグルグル巻きにして持って行きました。ある意味、僕もこの鈎に情熱を注いでしまったような・・・(笑。 こんな事をしたものですからかなり巨大化してしまって、羽田空港に向かう電車の中では沢山の人に迷惑を掛けてしまいました。空港でも荷物を預ける時に色々と考えてくれて・・・JALの方々には本当に感謝しております。でもお陰様で無事に徳之島に届けることが出来ました。
こうして無事帰郷となったわけですが、ずっと“いつかはお返ししなきゃならない”と思い続けていた僕ですので、なんとなく肩の荷が下りた気持ちです。でも明日職場に行くと、もうそこにこの鈎はありません。正直なところ、寂しくなってしまった感は否定できません。世界に二本しかない鈎ですから是非大切にしていただきたいと願うばかりです。
今回初めて徳之島を訪れた僕ですが、この二日間で何人もの島民の方々とお話をさせていただき、この巨大アラの事件の事を聞いてみると40歳くらい以上の島民であれば全員が知っていました。こんなことから、この大アラ事件が当時もの凄いセンセーショナルな出来事だったことは事実のようです。そんな体験して来ると、これはこれで良かったのだと思えます。
少なくとも僕が手に入れてからずっと夢を与えてくれたこの鈎。僕にとってはとても幸運を呼んでくれる鈎でした。ですからきっとこれからも島の方々にも良い運を運んでくれることを信じています。大アラは釣れませんでしたがもっとデカイ夢を釣ってくれると思っています。
寂しいですがこの鈎は遠くでひっそりと、でも大きな存在としてあり続けてくれると思います。僕自身、またいつの日かこの鈎に会うために島を訪れたいと考えています。それまではしばらくサヨナラです。この鈎が島民のあの情熱を後世に語り続けてくれることを祈りながら。