外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

旧制高校への憧れ

2011-04-21 21:52:30 | 都立青山高校
オランダ人の新しい上司が、さっそくオフィスにやってきました。

共用スペースの照明が落とされているのを見て、「このエリアは、何か貴重な物の保管スペースか?」

執務環境の印象を尋ねたら、「とてもクリーンで眺めも良いが、室温がちょっと高くてムシ暑い」

私が「消灯も、エアコン停止も、全て省電力のため」と話すと、やっと彼は納得。
「そうか、今の日本はタフ・タイムなんだな」と。

私は「東京は、毎日一度は地震が来るんですが、大丈夫ですか」と、彼を脅して遊んでしまいました。
(;^_^A

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毎朝7時前にオフィスに到着する朝型人間の私ですが、大震災以来、NHKの朝7時からのニュースをワンセグで流しながら仕事を始めるのが習慣になってしまいました。
原発関連の状況、そして鉄道運行状況を把握しておかないと、1日の仕事の流れを組み立てできないからです。
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そのNHKニュースが終わる8時にワンセグを切らなかったら、テレビドラマが始まりました。
ふと画面を見ると、旧制松本高校の校門が…。

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私の父親世代、すなわち大正から昭和初期に生まれた人たちが、いわゆる旧制高校もしくは陸海軍の学校から旧制大学で学んだ最後の世代でした。

私が社会人になったばかりの日本は、官公庁でも、企業でも、旧制の学校で学んだ方々が、おしなべて指導的な地位を占めていました。

私の父は、五人兄弟の長男であったために、給料をもらいながら勉強もできるという理由で、旧制高校ではなく、海軍経理学校に進学。

「愛知県全体から、合格者は二名だけだった」などと、父からは海軍経理学校についての自慢話を、子供の頃に色々と聞かされました。
しかし「状況が許せば、旧制高校に進学したかった」とも聞いたことがあります。

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私が通った頃の都立青山高校の教師陣のベテラン組は、旧制高校-帝大というキャリアの持ち主ばかりでした。

中でも、石川順太郎という国語の先生が、旧制高校での思い出話を始めると止まらないという方でした。
「ジュンタ先生」もしくは「ジュンタ」と、私たち青高生たちは親しみを込めて呼んでいました。

ジュンタは、昭和7年に東京府立三中(現・都立両国高校)を卒業。

昭和10年に、旧制・第四高等学校(現・金沢大学)卒業した後に、昭和13年 東京帝大文学部支那哲学科卒業しました。

兵役を経て、昭和18年 府立15中(現・都立青山高校)に赴任。
昭和52年 青山高校を勧奨退職したものの、昭和54年まで非常勤講師で青高にいらっしゃいまして、一貫して剣道部と山岳部の顧問をされていました。

青高生活、実に38年間。
この時代に青山高校で学んで「ジュンタを知らない」という卒業生がいたら、モグリです。

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私たちは、旧制高校に関するジュンタ先生の思い出話、自慢話を聞くのが大好きでした。

授業時間中に、ちょっと間が空くと、十中八九、旧制高校時代の思い出話が始まりました。

寮生活、授業風景…
何ともいえないロマンを感じたものです。

ある生徒が、思い出話をひきだそうとして、手を挙げて「先生、旧制ヨンコウはどんな雰囲気だったのか聞かせてください」と。

しかしジュンタは、「無礼者! 我が母校はヨンコウではなくてシコウである。
いいというまで、立っておれ!」と罵倒されて、授業が終わるまで立たされてしまいました。
(;^_^A

考えようによっては無茶な話ですが、それでも、ジュンタ先生の誇りがなせることと、生徒の誰もが微笑ましく許容していました。

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そんな堅物のジュンタでしたが、お酒が大好きな好人物でもありました。


また、授業開始の挨拶が終わった途端、
「君たちは、上原ゆかりというタレントを知っているか?」
「どうやら、この4月に、上原ゆかりが青高にやってくるらしい」

合格者発表の前にもかかわらず、先走って話してしまう愛すべき先生でした。

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都立高校に限らず、最近の公立高校では、1つの学校に何十年も勤務することはできないそうです。

しかし、生徒が三年ごとに入れ替わっていく宿命の公立高校で、独特の校風・気風というものが醸成され継承されていくためには、名物先生の存在がとても大切だと私は思うのです。
Comments (5)
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