昨日あんなに『べてるの家』についてエキサイトしてしまったのは、現代社会のベクトルと逆行するものに出会えた喜びだったのかもしれない、と気づいて、朝の図書室の仕事、朝刊7紙+夕刊1紙のクリッピングの作業をしていたら、日経新聞夕刊の4月19日付けにあった内田樹先生のコラムに釘付けになった。
ものすごい濃い文章だったので何回も読んではみたが、はたして私がどれだけ理解できているのか、いささか心もとない。でも、自分の中の勘のようなものが、『これは「べてる」に続いている!』と心の中で叫んでいる。何の根拠もないけれど、結びつく感覚があるのだ。
文章のテーマは聖書「マタイによる福音書」の一節「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という聖句から、隣人愛と自己愛について語られている。内田先生の文章は凝縮されているので、簡略化できない。長いけれど引用させていただく。
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『だれもが自分の中に弱さや醜さや邪悪さ、総じて「愛することのできないファクター」を抱えている。でもそれらを含めて自分を引き受けることができなければ、「自分自身を愛する」という力業は果たせない。
「どうしてそのような要素が自分の中にあるのか、来歴も知れず、統御もできないけれど、とりあえずそれと折り合ってゆく」という覚悟をもってそれらの要素と「共生」すること。それが「自分自身を愛する」ということの意味ではないか。それは自分の弱さや邪悪さに「屈服する」とか「妥協する」ということとは違う。
(略)
「愛する」とは理解や共感に基づくものではない。むしろ「よくわからないもの」を涼しく受け容れる能力のことだと思う。おのれのうちなる他者と共生することのできる能力、おそらくはそれが隣人を愛する能力、神を愛する能力にまっすぐにつながっている』
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以上が内田樹先生の文章からの引用になる。
昨日自分の中で消化不良していた想いが、内田先生の文章を読んで、胸に落ちた気がした。
「べてる」のひとたちは自分の内なる「よくわからないもの」をいろんな手だてを使いながら(やはり七転八唐オて「涼しく」というわけには、いかないだろうけれど)受入れようとしているように思える。
理想を掲げたり、正義に凝り固まったり、意見に相違のある人を非難したり排除したり、自己を正当化したりしがちな私たちなのだが、「べてるの家」の人たちは私が考えもつかない、ほとんど胸のすく奇襲攻撃のようなアプローチをかける。それも、おもいもかけないアングルから。
しかしそれがなぜかとても正攻法、というか真実への最短距離みたいに感じられてしまうのだ。
ものすごい濃い文章だったので何回も読んではみたが、はたして私がどれだけ理解できているのか、いささか心もとない。でも、自分の中の勘のようなものが、『これは「べてる」に続いている!』と心の中で叫んでいる。何の根拠もないけれど、結びつく感覚があるのだ。
文章のテーマは聖書「マタイによる福音書」の一節「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という聖句から、隣人愛と自己愛について語られている。内田先生の文章は凝縮されているので、簡略化できない。長いけれど引用させていただく。
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『だれもが自分の中に弱さや醜さや邪悪さ、総じて「愛することのできないファクター」を抱えている。でもそれらを含めて自分を引き受けることができなければ、「自分自身を愛する」という力業は果たせない。
「どうしてそのような要素が自分の中にあるのか、来歴も知れず、統御もできないけれど、とりあえずそれと折り合ってゆく」という覚悟をもってそれらの要素と「共生」すること。それが「自分自身を愛する」ということの意味ではないか。それは自分の弱さや邪悪さに「屈服する」とか「妥協する」ということとは違う。
(略)
「愛する」とは理解や共感に基づくものではない。むしろ「よくわからないもの」を涼しく受け容れる能力のことだと思う。おのれのうちなる他者と共生することのできる能力、おそらくはそれが隣人を愛する能力、神を愛する能力にまっすぐにつながっている』
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以上が内田樹先生の文章からの引用になる。
昨日自分の中で消化不良していた想いが、内田先生の文章を読んで、胸に落ちた気がした。
「べてる」のひとたちは自分の内なる「よくわからないもの」をいろんな手だてを使いながら(やはり七転八唐オて「涼しく」というわけには、いかないだろうけれど)受入れようとしているように思える。
理想を掲げたり、正義に凝り固まったり、意見に相違のある人を非難したり排除したり、自己を正当化したりしがちな私たちなのだが、「べてるの家」の人たちは私が考えもつかない、ほとんど胸のすく奇襲攻撃のようなアプローチをかける。それも、おもいもかけないアングルから。
しかしそれがなぜかとても正攻法、というか真実への最短距離みたいに感じられてしまうのだ。