昨今は日本の教育レベルが低下しているとよく問題になっている。
これがホントなんかどうなんかはわからん。
もう20年以上前から言われているような気もするし、ようするに
「近頃の若いもんは(以下略)」
と同じようなもんで、いつの時代だって言われることなのかもしれない。
しかし!
教育レベルに関する数ある異変の中で、今まで経験したことのない異変が1つだけある。
それは、親がダメなことだ。
かつてバブルの頃、日本は受験戦争という言葉がよくもてはやされた。
まあそれだけ日本は子供の教育に熱心だったということだ。
今では受験戦争などという言葉はあまり聞かなくなっている気がする。
かつて日本はそれだけ親も子も教育に熱心だった。
親は子供が自分と同等レベル以上の学歴になって欲しいと願っていた。
親がそれを口にしなくても子供もその期待を感じ取っていた。
ところが。
今は違う。
親はそんなことは要求しない。
元気で素直な良い子に育ってくれればそれで良いとする。
それは期待レベルが低すぎやしないかい??
妻子持ちで住宅ローンまで抱えているという三重苦を背負ったとある同僚の話をしよう。
その男の子供はまだ幼稚園児くらいだったが、子供が大きくなったら家の近所の私立大学に行ってほしいと言っていた。
わたしはそれが大変フシギに思えた。
家の近所とはいえ、(少々失礼ながら)なぜFランクの大学に行ってほしいなどと思うのかと。
かつて自分が受験生だった時にどうしても入れなかった当時の第一志望の大学に入ってほしいとなぜ思わないのかと。
そういう勉強方面でなかったとしても、芸術なりスポーツなりで食っていけるほどの何かの才能を見出してほしいなどというような希望はないのかと。
その男は答えた。
一人暮らしは心配なんだと。
家から通える大学なら安心なんだと。
・・・はあ、そうですか。
恐らく日本の親の少なからぬ割合がこのような期待レベルが低すぎるダメな親になっているからこそ、日本の教育レベルが低下しているのではなかろうか。
少なくとも両親ともに国立大学卒でかつ子供も国立大学に入るのが当然だという顔をしていれば、子供はそれを感じ取って多少はやる気も出るだろう。
親がFランクの大学でいいなどと本心から思っていたら子供の目標ですらそうなってしまうだろう。
かつてネトウヨを非難するとある左翼のwebサイトでは、中卒でも高学歴であるとして学歴信仰を全否定していた。
それは明らかに間違いである。
国民全体というスケールでいえば、外国と交渉して食料に交換できる付加価値のついたものを創造できる能力と、ここでいう学力とは、非常に強い相関がある。
統計的根拠はないがこれくらい自明である。
日本がポルポト派の時代のカンボジアのごとき赤貧に甘んじても良いというのであれば、中卒でも高学歴であると定義してもよろしい。
次の世代の人たちは外国と勝負して勝てるだけの教育水準にあってほしいと願う。
それに、それを願いもしないということは現時点の日本の水準の維持ですら放棄するという意味でもある。
人の親がこんなんでは困るのではなかろうかね?
これがホントなんかどうなんかはわからん。
もう20年以上前から言われているような気もするし、ようするに
「近頃の若いもんは(以下略)」
と同じようなもんで、いつの時代だって言われることなのかもしれない。
しかし!
教育レベルに関する数ある異変の中で、今まで経験したことのない異変が1つだけある。
それは、親がダメなことだ。
かつてバブルの頃、日本は受験戦争という言葉がよくもてはやされた。
まあそれだけ日本は子供の教育に熱心だったということだ。
今では受験戦争などという言葉はあまり聞かなくなっている気がする。
かつて日本はそれだけ親も子も教育に熱心だった。
親は子供が自分と同等レベル以上の学歴になって欲しいと願っていた。
親がそれを口にしなくても子供もその期待を感じ取っていた。
ところが。
今は違う。
親はそんなことは要求しない。
元気で素直な良い子に育ってくれればそれで良いとする。
それは期待レベルが低すぎやしないかい??
妻子持ちで住宅ローンまで抱えているという三重苦を背負ったとある同僚の話をしよう。
その男の子供はまだ幼稚園児くらいだったが、子供が大きくなったら家の近所の私立大学に行ってほしいと言っていた。
わたしはそれが大変フシギに思えた。
家の近所とはいえ、(少々失礼ながら)なぜFランクの大学に行ってほしいなどと思うのかと。
かつて自分が受験生だった時にどうしても入れなかった当時の第一志望の大学に入ってほしいとなぜ思わないのかと。
そういう勉強方面でなかったとしても、芸術なりスポーツなりで食っていけるほどの何かの才能を見出してほしいなどというような希望はないのかと。
その男は答えた。
一人暮らしは心配なんだと。
家から通える大学なら安心なんだと。
・・・はあ、そうですか。
恐らく日本の親の少なからぬ割合がこのような期待レベルが低すぎるダメな親になっているからこそ、日本の教育レベルが低下しているのではなかろうか。
少なくとも両親ともに国立大学卒でかつ子供も国立大学に入るのが当然だという顔をしていれば、子供はそれを感じ取って多少はやる気も出るだろう。
親がFランクの大学でいいなどと本心から思っていたら子供の目標ですらそうなってしまうだろう。
かつてネトウヨを非難するとある左翼のwebサイトでは、中卒でも高学歴であるとして学歴信仰を全否定していた。
それは明らかに間違いである。
国民全体というスケールでいえば、外国と交渉して食料に交換できる付加価値のついたものを創造できる能力と、ここでいう学力とは、非常に強い相関がある。
統計的根拠はないがこれくらい自明である。
日本がポルポト派の時代のカンボジアのごとき赤貧に甘んじても良いというのであれば、中卒でも高学歴であると定義してもよろしい。
次の世代の人たちは外国と勝負して勝てるだけの教育水準にあってほしいと願う。
それに、それを願いもしないということは現時点の日本の水準の維持ですら放棄するという意味でもある。
人の親がこんなんでは困るのではなかろうかね?