集団的自衛権について考えてみる。
国連憲章第51条に規定された集団的自衛権とは以下のとおりである。
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この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。
また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
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これまでの内閣は、集団的自衛権は保有するが、権利の執行は憲法9条に違反するものだとしてきた。
現内閣は、この解釈を変更しようとしている。
さて、集団的自衛権が認められた場合、どのような不都合が発生するのだろうか。
(1)安全保障理事会が承認しない武力行動に対しても集団的自衛権は適用されるのか。
(2)その場合、武力行使に対する抑止や正当性はだれが保証するのか。
客観性が担保できる形で自身の行動を正当化することの難しさは、現状の国際情勢を見ればわかる。
当事者は自身の主張しかしないからである。
当然、そこには事実の歪曲や虚偽の申告がなされる。
たとえば、アメリカの正義は、日本の正義とも中国の正義とも異なる。
日本国内に普遍的もしくは統一的な正義があるとは思われない。
ということは、事例の発生ごとに異なった正義を振り回すことになるのだろうか。
これまでは憲法という定規でこの国の正義を規定してきた。
集団的自衛権は、このことを根本から変えてしまう可能性がある。
つまり、憲法という正義と、集団的自衛権という個別的な正義が混在することになる。
安倍首相が靖国に参拝したときにこのように言った。
「靖国神社に参拝し、戦争で生命をなくした人々への尊崇の念を示し、反戦を祈念した」
これ自体に誤りはないのだろう。
問題は、彼がこのように祈念したことを、どうやって対外的に証明できるかだ。
外に対しては靖国神社に参拝したという事実しか伝わらない。
心の中はわからないし、表面に現れるナショナリズム的な行動しか伝わらない。
同じようなことが集団的自衛権の場合でも起こりうる。
暴力行為を受けた友人を救うために、相手を誤って殺傷した場合、誰が弁護してくれるのだろうか。
今後アメリカの相対的な戦争抑止力は低下するものと思われる。
一方で、中国は対外的に戦略拡張していくのだろう。
しかし、同時に経済的・文化的に劇的な変化も起こりうる可能性がある。
集団的自衛権に伴う短絡的な武力衝突を回避し、リスクを回避する長期的な戦略を構築することが大切な気がする。
平和を志向する公明党も、ここが踏ん張りどころなのだろう。