J.D.SalingerのFranny and Zooeyという本を読んだ。
村上春樹の翻訳だということで、期待していた。
フラニーのほうは、思ったほどうまい訳ではなかった。
少々がっかり。
大体、サリンジャーの英語は難しい。
途中に挿し込まれる文章が多い。
訳しにくいのだろう。
ズーイの訳の方はずっとましだった。
つまり文学的という意味でだが。
さて、フラニー(女性)とレーン(男性)という恋人同士の話。
***
「君の大学の英文科にはなにしろ、この国でもっとも優れた二人の教師がいる。マンリアスとエスポジートだ。連中がここにいてくれたらなと思うよ。まったくさ。少なくとも彼らは詩人なんだ。何といっても」
「彼らは詩人なんかじゃない」とフラニーは言った。
「それがめげちゃうことのひとつなのよ。私が言いたいのは、本物の詩人じゃないってこと。彼らは詩を書いているし、あちこちに掲載されたり、アンソロジーに収められたりしている。でも彼らは詩人とは違う」
彼女はふと我に返ったように、そこで話をやめ、煙草を消した。
彼女の顔からだんだん血の気が引いているようだった。
(中略)
「もちろん喜んでこんな話はやめるさ。それこそまさに望むところだよ。でもよかったら、その前にひとつ教えてくれないか。本物の詩人ってどんなものなのか。僕はそいつが知りたいんだ。とても」
フラニーの額の上の方に微かに汗が光った。
ただ単に部屋の温度が高かったからかもしれない。
あるいは胃の具合が悪くなっていたからかもしれない。
あるいはマティーニがいささか強すぎたのかもしれない。
いずれにせよ、レーンはどうやらそこまで気がまわらなかったようだ。
「本物の詩人が何かなんて、私は知らない。この話はもうやめましょう、レーン。お願いよ。気分がすごく悪くて、おかしな感じなの。私はとても―」
「わかった、わかった。もういいよ。リラックスするんだ」
とレーンは言った。
「僕としてはただ―」
「私にわかってるのは、ただこれだけ」
とフラニーは言った。
「もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。そういうこと。でもあなたがさっき名前をあげた人たちは、そういう美しいものを何ひとつ、かけらも残してはいかない。彼らよりいくらかましな人たちなら、あなたの頭の中に入り込んで、そこに何かを残していくかもしれない。でも彼らがそうするからといって、何かの残し方を心得ているからといって、だからそれが詩であるとはかぎらない。それはただの、見事によくできた文法的垂れ流しかもしれない。表現がひどくてごめんなさい。でもマンリアスとエスポジートも、気の毒だけどみんなその類いよ」
***
わかりにくいのだが、本物の詩人とは、詩を書く人間とは限らない。
そう言いたいのか。
サリンジャーらしい表現だ。
できることならば、私も本物の科学者として生を終えたいと願っている。