いくつかのことを整理しておかなければならない。
私は、現在、国際誌2誌の編集委員をしている。
いずれもボランティアだ。
論文が投稿されてくると、とても気が重くなる。
処理をするのが結構大変だからだ。
今の学術雑誌は、早く回転し、新鮮な論文を世に出そうとしている。
だから、査読を早くしてくれと急かされる。
一般に査読者は2名であるが、私は3名選ぶようにしている。
というのは、一人が拒否(Reject)した場合の対応に苦慮するからだ。
時には、他誌から頼まれて自分が査読する場合もある。
ある雑誌は、査読の日数を10日としている。
毎日、「もうできましたか」という内容の督促が来る。
しかし、原稿を熟読し(最低3回は読む)、30件以上の引用文献を一つ一つ確認し、重要な引用はその原論文を手に入れて解釈し、最終的な結論を出すのに、私の場合は1か月が必要だ。
すべてがボランティアでも、この始末だ。
ところでNatureについて。
この雑誌は商業誌で、専門の査読者を雇用している。
つまり査読のプロたちだ。
我々アマチュアが自分の研究時間を削って査読しているのとは異なる。
対応も早い。
責任感も強い。
一般に論文に齟齬や不明な点がある場合は、出版社と著者の責任だ。
第三者からクレームが来た場合、テクニカルな問題は両者で解決する。
研究の中身についてのクレームには誌上討論をする場合もある。
いずれにしても、最終的には出版社と著者の間で解決すべきもので、社会的制裁を科すような類のものではない。
学位論文の場合には、少し事情が異なる。
主査と呼ばれる指導教官がすべての責任を負う。
あと2~4名の副査が付く。
この人数は大学や学部によって異なる。
すでに出版された論文をまとめて学位申請する場合もある。
この場合、両者の中身に重複があるのは当然だ。
問題は、両者の解釈が異なっている場合だが、基本的には論文として公表されているものが優占される。
学位論文と言うのは、一人前の研究者としての資質を問うものであるから、盗用とかをしてはいけない。
この問題については、主査と副査が確認する必要がある。
私が学生であった頃の、古き良き時代にはこうした手順がうまく機能していた。
1980年代頃からだろうか、当時の文部省の指導で、学位をアメリカ並みに早く出すように変わってきた。
学位がなければ就職に不利になるからだ。
こうして学位の乱発が行われるようになり、意味不明な学位が数多く世に出るようになってきた。
これも時代の要請なのだろう。
したがって、論文については出版社や査読者、学位については大学と指導教官と言ったように、その責任を担う構造が異なるし、当然、執筆者のモラルや資質もそれに応じて問われることとなる。
かように、完全ではないにせよ、システムとしては一応完成された審査や是正のプロセスがあるのだから、マスコミやネットなどによる行き過ぎた社会的制裁はやめたほうがよい。
特に、ワイドショーはひどい。
もし非難されるべきだとするのなら、不用意にマスコミへの情報提供を行う所属機関の問題だろう。
評論家やマスコミは、あまりにも無責任だからだ。
社会的貢献を強調するあまり、不用意に情報提供をすることによって取り返しのつかないことが起こることは多々ある。
一刻を争うものでなければ、十分な準備を行ったうえで、公表すべきなのだろう。
私は、原則的に、若い人、特に20代の人の失敗は社会として許容すべきだと思っている。
その人の人生は長いのだから、できるならやり直せた方が良いと思っている。
人ひとりを社会的に抹殺することは簡単なことだ。
しかし、人を一人前の社会人として育てることはとても難しい。
特に、情報が氾濫し、価値観が多様化し、後ろから急き立てられるように仕事をさせられ、なおかつ正規の職に就けない若い研究者の卵たちに、可能な限りのエールを送るのが年配者の役割だと思っている。
この点において、私は妥協するつもりは全くない。
何が正しいかは時代が判断することだ。
私たちにできることは、今と言う瞬間におけるもっとも大切だと思うことを、それぞれの立場において過誤なくやり抜くという情熱なのではなかろうか。
一般論として、私はそう思っている。