児童文学者協会賞を受賞した「いないいないばあや」(その記事を参照してください)の続編にあたる作品ですが、今回は連作短編ではなく長編として書かれています。
前作では、かわいがってくれたばあやの手を離れて、北海道から樺太へ渡るところで終わっていましたが、今作は、二年生の時に、南樺太南部の川上炭鉱から北部ロシア領近くの内川に向かう長旅で始まります。
小学校二年生だった主人公が、小学校六年の少女になって、女学校を受験するために再び南部へ向かうまでを、題名通りに川の流れのようなゆったりした筆致で描いています。
この題名は、主人公が住んでいた内川を流れていた幌内川の支流を意味するとともに、ある時はゆったりと、また別の時は性急に流れていく人生そのものを意味するのだと思われます。
詩人の鋭い観察眼と優れた描写力が、長編の随所に発揮されています。
樺太の豊かな自然や子どもらしい遊びに交じって、生きていくこと、死、女として生きること、男、性、差別、貧富差、別れ、病気など、子どもだけでなく大人にとっても大事な問題に対する、主人公の問いかけが繰り返されます。
もちろんこの作品はフィクションであって、作者の分身とも言える主人公の思いは、執筆当時の大人である作者の考えによって補われています。
しかし、それだからこそ、現在の児童文学とは違った意味で、子どもだけでなく大人にとっても意味のある作品になっています。
現在の児童文学は、子どもだけではなく大人にならない(あるいはなりたくない)読者たちのためには書かれていますが、大人あるいは人間として生きていくために重要な物は提示してくれません。
それに対して、この作品(後述しますが当時の他の多くの作品も同様です)は、子どもや大人といった垣根を越えて、人間としてどう生きるべきかを考えさせてくれる作品がたくさんありました。
この作品は、狭義の「現代児童文学」(定義は他の記事を参照してください)が始まった1950年代(詳しくは他の記事を参照してください)から20年ほどたった1976年に出版されました。
他の記事に書きましたが、私は1990年代に「現代児童文学」は終焉したと考えているので、1976年はちょうど中間ごろに当たります。
そして、そのころに「現代児童文学」は文学的なピークを迎えたと思われます。
翌1977年に、私は児童文学とは無縁な外資系の計測器メーカーに就職しました。
エレクトロニクスのエンジニアとして忙しく働くことになり、学生時代のように好きな本を読む時間が圧倒的に少なくなることが予想されていました。
そんな環境でもなんとか児童文学の勉強を続けていくための自戒として、前年である1976年出版の重要と思われる本を何冊か買いました。
「流れのほとり」以外の手元に残っている作品は、後藤竜二「白赤だすき小○の旗風」(1977年の児童文学者協会賞受賞)、河合雅雄「少年動物誌」(その記事を参照してください)、いぬいとみこ「山んばと空とぶ白い馬」、なだいなだ「TN君の伝記」などです(このうちの三冊は、当時スタートしたばかりの福音館書店の日曜日文庫シリーズ(誤解を招かないように説明しておきますがいわゆる文庫本ではありません)の初回及び二回目に刊行されたものです)。
個々の作品の児童文学史における価値については、いろいろな見解があることでしょう。
ただ、これらの本に共通しているのは、どれも外函があって、そのおかげで四十年以上たった今でも、本自体はほとんど痛んでいない(外函は虫に食われたりしてかなり傷んでいる本もあります)ことです。
このことは、当時の児童書(少なくとも文学的な作品は)が、現在のような消費財ではなく、繰り返し読まれ、さらには親から子どもへと読み継がれることも想定した恒久財と考えられていたことの証拠のように思われます。