「あーあ」
中学二年生の泰輔が、目を覚ました。
枕元の時計を見ると、九時過ぎだった。とっくに学校が始まっている。
でも、泰輔はゆっくりと起き上がると、パジャマ姿のままで部屋を出た。
泰輔は、かあさんと一緒に市営住宅に二人で住んでいる。でも、かあさんはとっくに仕事に出かけていた。出かける時に泰輔に声をかけるのも、だいぶ前にしなくなっていた。
泰輔は、二年になってからクラスでいじめにあって、不登校になっていた。学校の先生や教育委員会の職員が、何度も泰輔を訪ねてきたが、なんの解決にもならなかった。だいたい、泰輔のいじめの主張すら彼らは認めていないのだ。
かあさんが仕事へ行っている間、泰輔は、テレビを見たり本を読んだりして、毎日を過ごしている。本当はオンラインゲームをやりたいのでゲーム用にグレードアップされたパソコンが欲しいのだが、泰輔の家は母子家庭で経済的に苦しいので、「買って欲しい」とかあさんに言えないでいる。スマホも持っていないので、クラスの友だちとは完全に隔離されていた。
泰輔の両親は、泰輔が幼稚園のころに離婚している。
理由は、父親の不倫だった。そのため、父親は、裁判所の命令でかあさんに慰謝料を払っていた。
さらに、泰輔の親権はかあさんが持ち、父親は二カ月に一回面会する代わりに、月に五万円の養育費を送ってくることになっていた。
しかし、その約束はいつの間にかうやむやになり、養育費はまったく振り込まれなくなった。泰輔は、もう五年も父親に会っていない。
風の便りでは、父親は不倫相手と再婚して、子どももいるという。
かあさんは、二人の生活を支えるために、二つの仕事を掛け持ちしている。昼間は、清掃の仕事をしていた。そういった仕事を請け負う派遣業者から、特定の会社に派遣されて、広い社内を夕方まで掃除してまわっている。
夕方からは、コンビニのレジ打ちをやっている。そして、本当は廃棄しなければいけないコンビニの期限切れの食べ物を内緒で貰って、九時過ぎに家へ帰ってくる。泰輔の家の遅い夕食は、いつもコンビニの残り物が中心だった。
「わーん、あーん、……」
突然、隣の部屋から女の子の激しい泣き声が聞こえた。どうも、ベランダに面した掃出し窓が開いているようだ。こちらも窓を開けていたので、泣き声は壁越しでなく外から聞こえてくる。
泰輔は、居間にまわって掃出し窓からベランダに出てみた。
「おい、どうした?」
ベランダのはじへ行って、隣との仕切り越しに声をかけてみる。
泣き声がやんで、女の子もベランダに出てきたようだ。
女の子は、まだしゃくりあげている。
「どうしたんだ?」
もう一度聞いた。
「うん、おなかがすいた」
「食べ物がないのか?」
「うん」
「わかった。ちょっと待ってろ」
泰輔はそう言って、家の中に引っ込んだ。
泰輔の家の隣に、小さな女の子がいることは前から知っていた。すれ違った時にチラッと見た時には、四、五才に見えた。
でも、幼稚園にも保育園にも、通っていないようだ。昼間は、泰輔と同様に一人で過ごしていることが多い。
泰輔の部屋から、時々、今日のように女の子の泣き声が聞こえていた。
一度だけ、玄関から出てくるのを見たことがある、若い母親はいつも不在がちだ。どこかへ遊びに行っているのか、何日もの間夜も帰ってこないこともあるようだった。
泰輔は、食卓の上のカップ麺のふたを開けると、ポットからお湯をそそいだ。今日の自分の昼飯だ。
泰輔は、こちらは朝飯用の鮭とツナマヨのおにぎりを、一個ずつジーンズのポケットに突っ込むと、カップ麺を両手でしっかり持って、玄関に向かった。
隣の玄関にまわると、チャイムのボタンを押した。
ピン、ポン。ピン、ポン。
部屋の中で、チャイムがせわしなくなっている。
ガチャ、ガチャン。
鍵を外す音がした。
ドアが開いて、女の子が顔を現わした。涙の跡が薄汚れている。
中をのぞくと、ゴミだらけの荒れ果てた部屋が見えた。あきらかに、女の子は母親に放置されていたようだ。
泰輔は、食器やインスタント食品の殻がうずたかく積もっている食卓に、わずかなスペースを確保した。そこに、自分の昼食であるカップ麺とおにぎりをおいた。
「食えよ」
まずおにぎりの包みを開けて海苔を巻いて、女の子に差し出した。
「……」
女の子は手を出さない。
「平気だよ。食えよ」
泰輔がもう一度言うと、ようやく女の子はおにぎりを両方とも受け取った。そして、がつがつとすごい勢いで食べ始めた。ふたつのおにぎりを両手に持って、交互にかぶりついている。
(すげえ)
泰輔は、女の子のすごい勢いの食べっぷりに、思わず見とれてしまった。
「名前は、なんていうんだ?」
「アヤちゃん」
「アヤっていうのか?」
「ううん、アヤちゃん」
女の子はそう言うと、初めてはにかんだような笑顔を見せた。
どうもアヤちゃんは、母親に育児放棄されているようだ。あまりご飯を食べさせてもらっていないみたいだった。がりがりにやせていて、おなかだけがぽっこりふくらんでいる
その後も、泰輔はアヤちゃんに食べ物をあげるようになった。昼だけでなく、朝はかあさんがいなくなってすぐに、夜はかあさんが帰ってくる前に、食べ物を持っていった。
家にある食料だけでは足りなくて、近所のコンビニへ買いに行ったりもした。泰輔が家の外へ出るなんて久しぶりのことだった。さいわい、最近は小遣いをほとんど使っていなかったので、お金はけっこう持っていた。
アヤちゃんに食べ物をあげていることは、かあさんには秘密だった。
ある日、隣の家に、児童相談所の職員が訪ねてきた。
その時は、たまたま母親が家にいる時だった。
近所の人が、放置されているアヤちゃんを見かねて、通知したのかもしれない。
でも、職員は、母親にえらい剣幕で追い返されてしまった。
それ以降、母親は家に帰ってこなかくなった。
本格的な育児放棄になったのだ。
それから数日後、児童相談所の職員が、今度は大勢やってきた。
どうも、母親が家に帰っていないことが、また通報されたようなのだ。
今度は、アパートの管理人も一緒だった。
職員たちは、監視人に部屋の鍵を開けさせると、中へ入っていた。
もしかすると、すでに母親と児童相談所で話し合いがもたれていたのかもしれない。
母親が親権を放棄して、アヤちゃんは施設に入ることになったのだろう
やがて、児童相談所の人に連れられて、車にのせられて連れて行かれる。
泰輔は、部屋の窓から一人でアヤちゃんを見送った。
(ぼくは、アヤちゃんに何かをしてあげられたのだろうか?)
泰輔は心の中で思った。
中学二年生の泰輔が、目を覚ました。
枕元の時計を見ると、九時過ぎだった。とっくに学校が始まっている。
でも、泰輔はゆっくりと起き上がると、パジャマ姿のままで部屋を出た。
泰輔は、かあさんと一緒に市営住宅に二人で住んでいる。でも、かあさんはとっくに仕事に出かけていた。出かける時に泰輔に声をかけるのも、だいぶ前にしなくなっていた。
泰輔は、二年になってからクラスでいじめにあって、不登校になっていた。学校の先生や教育委員会の職員が、何度も泰輔を訪ねてきたが、なんの解決にもならなかった。だいたい、泰輔のいじめの主張すら彼らは認めていないのだ。
かあさんが仕事へ行っている間、泰輔は、テレビを見たり本を読んだりして、毎日を過ごしている。本当はオンラインゲームをやりたいのでゲーム用にグレードアップされたパソコンが欲しいのだが、泰輔の家は母子家庭で経済的に苦しいので、「買って欲しい」とかあさんに言えないでいる。スマホも持っていないので、クラスの友だちとは完全に隔離されていた。
泰輔の両親は、泰輔が幼稚園のころに離婚している。
理由は、父親の不倫だった。そのため、父親は、裁判所の命令でかあさんに慰謝料を払っていた。
さらに、泰輔の親権はかあさんが持ち、父親は二カ月に一回面会する代わりに、月に五万円の養育費を送ってくることになっていた。
しかし、その約束はいつの間にかうやむやになり、養育費はまったく振り込まれなくなった。泰輔は、もう五年も父親に会っていない。
風の便りでは、父親は不倫相手と再婚して、子どももいるという。
かあさんは、二人の生活を支えるために、二つの仕事を掛け持ちしている。昼間は、清掃の仕事をしていた。そういった仕事を請け負う派遣業者から、特定の会社に派遣されて、広い社内を夕方まで掃除してまわっている。
夕方からは、コンビニのレジ打ちをやっている。そして、本当は廃棄しなければいけないコンビニの期限切れの食べ物を内緒で貰って、九時過ぎに家へ帰ってくる。泰輔の家の遅い夕食は、いつもコンビニの残り物が中心だった。
「わーん、あーん、……」
突然、隣の部屋から女の子の激しい泣き声が聞こえた。どうも、ベランダに面した掃出し窓が開いているようだ。こちらも窓を開けていたので、泣き声は壁越しでなく外から聞こえてくる。
泰輔は、居間にまわって掃出し窓からベランダに出てみた。
「おい、どうした?」
ベランダのはじへ行って、隣との仕切り越しに声をかけてみる。
泣き声がやんで、女の子もベランダに出てきたようだ。
女の子は、まだしゃくりあげている。
「どうしたんだ?」
もう一度聞いた。
「うん、おなかがすいた」
「食べ物がないのか?」
「うん」
「わかった。ちょっと待ってろ」
泰輔はそう言って、家の中に引っ込んだ。
泰輔の家の隣に、小さな女の子がいることは前から知っていた。すれ違った時にチラッと見た時には、四、五才に見えた。
でも、幼稚園にも保育園にも、通っていないようだ。昼間は、泰輔と同様に一人で過ごしていることが多い。
泰輔の部屋から、時々、今日のように女の子の泣き声が聞こえていた。
一度だけ、玄関から出てくるのを見たことがある、若い母親はいつも不在がちだ。どこかへ遊びに行っているのか、何日もの間夜も帰ってこないこともあるようだった。
泰輔は、食卓の上のカップ麺のふたを開けると、ポットからお湯をそそいだ。今日の自分の昼飯だ。
泰輔は、こちらは朝飯用の鮭とツナマヨのおにぎりを、一個ずつジーンズのポケットに突っ込むと、カップ麺を両手でしっかり持って、玄関に向かった。
隣の玄関にまわると、チャイムのボタンを押した。
ピン、ポン。ピン、ポン。
部屋の中で、チャイムがせわしなくなっている。
ガチャ、ガチャン。
鍵を外す音がした。
ドアが開いて、女の子が顔を現わした。涙の跡が薄汚れている。
中をのぞくと、ゴミだらけの荒れ果てた部屋が見えた。あきらかに、女の子は母親に放置されていたようだ。
泰輔は、食器やインスタント食品の殻がうずたかく積もっている食卓に、わずかなスペースを確保した。そこに、自分の昼食であるカップ麺とおにぎりをおいた。
「食えよ」
まずおにぎりの包みを開けて海苔を巻いて、女の子に差し出した。
「……」
女の子は手を出さない。
「平気だよ。食えよ」
泰輔がもう一度言うと、ようやく女の子はおにぎりを両方とも受け取った。そして、がつがつとすごい勢いで食べ始めた。ふたつのおにぎりを両手に持って、交互にかぶりついている。
(すげえ)
泰輔は、女の子のすごい勢いの食べっぷりに、思わず見とれてしまった。
「名前は、なんていうんだ?」
「アヤちゃん」
「アヤっていうのか?」
「ううん、アヤちゃん」
女の子はそう言うと、初めてはにかんだような笑顔を見せた。
どうもアヤちゃんは、母親に育児放棄されているようだ。あまりご飯を食べさせてもらっていないみたいだった。がりがりにやせていて、おなかだけがぽっこりふくらんでいる
その後も、泰輔はアヤちゃんに食べ物をあげるようになった。昼だけでなく、朝はかあさんがいなくなってすぐに、夜はかあさんが帰ってくる前に、食べ物を持っていった。
家にある食料だけでは足りなくて、近所のコンビニへ買いに行ったりもした。泰輔が家の外へ出るなんて久しぶりのことだった。さいわい、最近は小遣いをほとんど使っていなかったので、お金はけっこう持っていた。
アヤちゃんに食べ物をあげていることは、かあさんには秘密だった。
ある日、隣の家に、児童相談所の職員が訪ねてきた。
その時は、たまたま母親が家にいる時だった。
近所の人が、放置されているアヤちゃんを見かねて、通知したのかもしれない。
でも、職員は、母親にえらい剣幕で追い返されてしまった。
それ以降、母親は家に帰ってこなかくなった。
本格的な育児放棄になったのだ。
それから数日後、児童相談所の職員が、今度は大勢やってきた。
どうも、母親が家に帰っていないことが、また通報されたようなのだ。
今度は、アパートの管理人も一緒だった。
職員たちは、監視人に部屋の鍵を開けさせると、中へ入っていた。
もしかすると、すでに母親と児童相談所で話し合いがもたれていたのかもしれない。
母親が親権を放棄して、アヤちゃんは施設に入ることになったのだろう
やがて、児童相談所の人に連れられて、車にのせられて連れて行かれる。
泰輔は、部屋の窓から一人でアヤちゃんを見送った。
(ぼくは、アヤちゃんに何かをしてあげられたのだろうか?)
泰輔は心の中で思った。