現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

村上春樹「こんなに面白い話だったんだ!」新潮社文庫版「フラニーとズーイ」所収

2024-03-09 10:56:04 | 参考文献

 2014年に、著者の新訳として出版されたサリンジャーの「フラニーとズーイ」(その記事を参照してください)の付録(サリンジャーが自分の作品の本に「まえがき」や「あとがき」を付けることを許さなかったからです)として書かれた文章です。
 「フラニーとズーイ」の成立事情の部分は、紙数の関係で割愛されていますが、新潮社のホームページからダウンロードできます。
 タイトルにありますように、10代で初めて読んだ時には分からなかった作品の魅力(特に「ズーイ」の部分)が、今回ようやく理解でき、この作品が(サリンジャーの作品としては「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)とともに)20世紀のアメリカ文学の古典であると主張しています。
 今回なぜそうなったかの原因としては、その間(45年)の人生経験と翻訳のために原文を読んだことをあげています。
 著者の意見は、おおむね肯定できます。
 「ズーイ」の宗教的あるいは哲学的な内容や、世俗的な社会への否定的な考え方は、これから社会にできる若い世代の人たちには理解しにくいものだと思われます。
 また、サリンジャー独特の文体や語り口は、なかなか翻訳では伝えることができない(著者も十分にできなかったと謙遜していますが)もので、それは単なる言語の違いだけでなく、1950年代のアメリカ(特に若い世代)の風俗や話し言葉とは切り離せないからです。 
 また、この作品が、「ニューヨーカー」誌にふさわしいスタイリッシュな短編から、より精神的な文学への過渡期にあったという「フラニーとズーイ」の成立事情の部分の説明も、読者には分かりやすい物です。
 著者は、この作品をサリンジャー文学の頂点(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は別として)と位置付け、その後の作品(「シーモア ― 序論」(その記事を参照してください)と「ハプワース16,一九二四」(その記事を参照してください)しかありませんが)については、「その文体はどんどん煮詰まり、テーマは純化され、彼の物語はかつての自由闊達な動きを急速に失っていく。そして彼の書くものは、読者から避けがたく乖離していくことになる。」と否定的です。
 しかし、それは、サリンジャーとは逆にどんどんスタイリッシュな作品に近づいて純文学からは遠ざかっている著者の視点であり、「読者から避けがたく乖離していく」のは作家だけのせいではなく、どんどんエンターテインメント作品へ向かっている読者の方により大きな原因があると思っています。
 そのため、読者を意識した純文学作家(著者だけに限りませんが)は、どんどんエンターテインメント作品へ近づいていて、かつては中間小説と揶揄された分野でしか作品を発表できないのが現状ではないでしょうか。

 

 

 

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