現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

薫くみこ「はじめての歯医者さん」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-18 11:31:20 | 作品論
 「ちかちゃんのはじめてだらけ」(1994年)に含まれている幼年文学の作品で、編者の宮川健郎が転載しています。
 虫歯が一つもないことを自慢するクラスメイトの女の子(あまり主人公とは仲が良くないようです)と、それに張り合う主人公の言い争いからお話が始まります。
 そこに、虫歯がある主人公の仲良しの女の子や、サイダー瓶のふたを歯であけられると豪語するゴリラ似の男の子が、話に絡んできます。
 ひょんなことから、歯による瓶のふた開けを男の子に実演させたために、ふたの代わりに男の子の銀歯がとれてしまします。
 そうして、主人公は、男の子と仲良しの女の子と一緒に、はじめての歯医者さんへ行くことになるのです。
 歯医者さん慣れしている二人に比べて、主人公は、歯医者さんでははじめてのことばかりなので、びっくりしたりびびったりの連続です。
 主人公が、仲良しの女の子だけでなく、ゴリラのように思っていた男の子の良さにも気づくラストは、とても読み味がいいです。
 本の題名からすると、主人公のちかちゃんは、歯医者さんだけでなく、いろいろなはじめての体験をするようです。
 筒井頼子「はじめてのおつかい」(1977年)(その記事を参照してください)の成功以来、この種の作品は幼年文学や絵本の定番になっています。
 しかし、女の子向けエンターテインメント(「十二歳シリーズ」(1982年から)など)の名手である作者は、幼年文学でも格段の腕前の違いを見せています。
 編者は、自分の主張である「幼年童話=「俳句」説」(日本児童文学1995年7月号所収)を、長崎夏海「ぴらぴら」(1994年)、正道かおる「チカちゃん」(1994年)(主人公の名前はたまたま一緒ですが、薫作品とは無関係です)などを引用しながら、幼年童話は「象徴」、「暗示」、「省略」を多用して書かれているとしています。
 そして、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の特長である「散文性の獲得」から積み残されて、未だに「近代童話」の象徴性を維持しているとしています。
 つまり、幼年向きの作品は、「散文的」、「小説的」な「現代児童文学」ではなく、「詩的」、「象徴的」な「幼年童話」(実際に幼年文学ではなく幼年童話と言われることの方がはるかに多いです)であるとしています。
 そして、薫作品は、そうした「詩的」、「象徴的」な「幼年童話」ではなく、「具体的に語る」ことをえらんで成功しているとし、今後はそうした「幼年文学(幼年童話でなく)」を目指さなければならないのではないかとしています。
 編者の解説はここでも非常に的確なのですが、途中で触れている「現代児童文学」が当初目指していた「幼年文学」(いぬいとみこ「長い長いペンギンの話」(1957年)、古田足日・田畑精一「おしいれのぼうけん」(1974年)など)がなぜ継承されなかったか、また、それらと今回の薫作品とはどのように違うのかが説明されていないのが不満です。
 私見を以下に述べます。
 幼年文学をめぐる主導権争いは、「現代児童文学」がスタートした当初からありました。
 そこには、大きく分けて三つの流れがあったように思われます。
 まず第一に、編者が指摘しているような小川未明らの「近代童話」の伝統がそのまま温存されたような作品群です(立原えりか、安房直子などの作品がその代表でしょう)。
 これらの作品の書き手が、古田足日が「幼年文学の現在をめぐって」(1985年)で語っているところの「童話的資質」に恵まれていれば、「子ども、人間の深層に通ずる何かを持っている」作品になり、広く長く読み続けられることになります(言うまでもありませんが、残念ながら「童話的資質」のない書き手の作品が大半です)。
 次に、「子どもと文学」の「おもしろく、はっきりわかりやすく」といういわゆる「世界基準」の影響を受けた作品群で、多くの安易なステレオタイプの作品が量産されました(出版社の立場から見れば、本にしやすいという側面もあります)。
 これに対しては、繰り返し批判(小沢正「ファンタジーの死滅」(1966年)(その記事を参照してください)、安藤美紀夫「日本語と「幼年童話」」(1983年)(その記事を参照してください)など)がされましたが、今でも毎年量産されていて「悪貨は良貨を駆逐する」を幼年文学界で体現しています。
 最後が、「現代児童文学」が当初目指した散文的な「幼年文学」です。
 しかし、この幼年文学は、商業主義による児童書の軽薄短小化(簡単に読めるので売りやすく、簡単に書けるので量産シリーズ化がしやすいです)の中で、なかなか本になりにくい状態です。
 この分野の書き手は、かつての高学年や中学生向けの「現代児童文学」の書き手が多いです。
 なぜなら、他の記事にも書きましたが、「幼年文学」は「現代児童文学」にとっての最後のフロンティア(本になりにくいと書きましたが、高学年や中学生向けに比べればはるかにましです)になっているからです。
 それらに対する薫作品の「新しさ」は、「散文」の質の違いにあると思われます。
 もともとの「現代児童文学」の散文は、「アクション」と「ダイアローグ」が中心でした(関連する記事を参照してください)。
 「少年文学宣言(正確には「少年文学の旗の下に!」(1953年)(その記事を参照してください))」で、「小説精神」の少年文学(児童文学)を目指すとしたのとは裏腹に、「小説」ではなく「物語」的な性格が強いものでした。
 それが、1980年ごろに小説的手法が用いられた作品が増えて(背景などは関連する記事を参照してください)、それらにおいては描写を中心にして描かれるようになりました。
 こうした今までの「幼年文学」の散文に対して、薫作品の「新しさ」は、「エンターテインメント」の散文を「幼年文学」に導入したことではないでしょうか。
 エンターテインメント作品の散文は、よりスピーディなストーリー展開を得るために、できるだけ描写は排して、登場人物(特に脇役)には平面的なキャラクター(この作品ではゴリラのような男の子、意地悪な女の子など)を使い、「アクション」と「ダイアローグ」は適切な説明文を使って省略できるところは省略しています。
 那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズなどで広く使われるようになった、こうしたエンターテインメント用の散文は、読者が読むスピードをあげられるだけでなく、書き手が作品を量産するのにも向いています。
 「現代児童文学」において、最初の成功した女の子向けエンターテインメントシリーズのひとつである「十二歳」シリーズの作者が、こうした散文に熟練していたことは言うまでもありません。
 他の記事にも書きましたが、説明文を多用した散文(那須作品や薫作品は適度な使い方をしているので、これには当てはまりません)による書き方は、現在の大人用のエンターテインメント作品でも一般的になっています。

 
ちかちゃんのはじめてだらけ (シリーズ本のチカラ)
クリエーター情報なし
日本標準

  

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 岩瀬成子「ダイエットクラブ... | トップ | デイビィッド・ウィズナー「... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

作品論」カテゴリの最新記事