伊勢平氏の子孫と伝える関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(十四世紀)西条南方の水田の中に沢城を築いた。戦国時代の1550年代には、現代のこの地に神戸城を築いて移る。
小丘を利用した平山城である。神戸氏七代の友盛は北勢に威を振ったが、信長軍の侵入により永録十一年(1568)その三男、三七郎信孝を養子として和睦する。 信孝は天正八年(1580)ここに五重の天守閣を築く。それは金塗りの瓦も用いた豪奢なものであった。しかし本能寺の変後信孝は岐阜城に移り、翌年秀吉と争って対岸知多半島で自刃し文禄四年(1595)には天守も桑名城に移され、以来石垣だけ残される。
江戸時代城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保十七年(1732)本多忠統が入国する。忠統は築城を許され神戸城は寛延元年(1748)完成する。
本多氏の治世は140年、七代忠貫に至り明治廃藩を迎えて同八年城は解体される。
その後、堀は埋められ、城地は神戸高校の敷地となった。ただ本多の地名に城主の名を留め、天守台の石垣に悲運の武将の跡をしのぶことができる。
史跡としてのこの一郭が美しく、永久に保存されることを願うものである。
『神戸城跡案内板』より