あんちゃんの気まぐれ日記2

仕事で行った場所の紹介や今の気持ちを素直に書き込みます。○○○○と思っているのは、私だけでしょうか??

日本の城シリーズ 110 山形城

2010年06月03日 | 城巡り
         山形城二ノ丸 東大手門

延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼(最上家初代)が築城したと伝えられ、現在の城郭は11代城主最上義光(最盛期57万石)が築いたものが原型とされています。本丸、二の丸、三の丸の3重の堀と土塁を持つ輪郭式の全国有数規模の平城で、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れたことから「霞ヶ城」とも呼ばれていた。



最上義光騎馬像



二の丸西不明門跡



二の丸南追手門跡



本丸一文字門石垣等復原現場
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日本の城シリーズ 109 鶴ヶ岡城

2010年06月03日 | 城巡り

 関ヶ原の戦功により庄内地方を加増された山形城主最上義光は、隠居城として大宝寺城を修築して鶴ヶ岡城と改称した。元和8年(1622)、最上義俊が改易され、信濃松代より酒井忠勝が入って城を改修した。その後、酒井氏が11代続き、明治を迎えた。









今まで攻略してきた城の堀は、殆どが釣り禁止だったのに「釣堀」とは驚いた。
ブラックバスも泳いでいたが、キャッチアンドリリースが原則のようです?
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日本の城シリーズ 108 亀ヶ崎城

2010年06月03日 | 城巡り
酒田東高と亀ヶ崎八幡神社の間に残っている土塁

亀ヶ崎城は、文明10年(1478)頃に、大宝寺城の武藤氏が度々離反する砂越氏に対抗するために築いた東禅寺城が始まりという。城主には一族が配されて東禅寺氏を称した。
天正11年(1583)、最上義光が武藤氏の本城尾浦を攻めた際、東禅寺氏は最上氏と結んだため、武藤義氏は自刃へと追い込まれた。その後、最上氏が支配したが、のち武藤氏を支援した上杉勢が進み、最上氏はこの地を追われた。しかし、慶長6年(1601)、最上氏が再度攻略した。 







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