怒濤(どとう)の二日間が終わったどんな出来でも終わったことに感謝・・・・今日は感謝しつつ振り返ります。
まず何が怒濤かというと、土曜日わたしの教会のゴスペルコンサート、船橋カリスマ聖会がありました。さらに次日(今日の日曜日)の礼拝、そして東京カリスマ聖会の司会(写真)と続いたからです。その上、ドルカスが肺炎と診断されたのが、金曜日のこと。声が出ず、(当然ですが)動けないドルカス。いったいどうなることかと・・・・・。
わたしははた目には、人前でしゃべるのに馴れているように見えます。確かにいろいろ余裕ありげに振る舞うので、そうでしょう。しかしそれは、実はとんでもない間違いです。数日前から緊張し、準備し、特にメッセージでは産みの苦しみ、こもりきりとなります。何度も原稿を書き直しますが、それでも人間の力で考えているようで、不安になります。それで、徹底して神さまに聞いて示され語られことのみを語れるようにと、密室に
こもって祈ります。
そんな準備の最中は食事がのどを通りません。さらに本番直前やその最中の休憩となると、顔面蒼白(そうはく)になっています。ですが、どんなにそうでも、一旦ステージに上がると別人になるよう心がけています。笑みを浮かべながら<会場を見回し、にこやかに語る>そんな風に。
※神さまから「これを語りなさい・・・・と示されたら、もう一気に解放!なんですが。しばしばギリギリまで来ないことが多い。と言うか、ギリギリになって『神さま、助けてください!』と叫ぶ状態でようやく来るのです。さすが神さまは、よくよく人というものがお分かりなようです。」
終わってみれば、ですが、わたしはその落差が好きです。どんなに負担に思い、緊張して怒濤の疲れを覚えようとも、一旦終わると、それはすごい次回への励ましというか、高ぶりやすく愚かなわたしを忍耐して待ち、決して見捨てられない、神の深い愛の余韻にしたれるのが好きです。間違っても「こりごりだ」とは思わないのです。
いわば懲(こ)りない人間なのでしょう。でもこれは、神さまが造られたわたしの性質らしく、それならばそれで、しっかりと用いられるように祈っています。
今日は牧師の生活ぶり、その一端でした。 (ケパ)