「神に語られる」ということ
映画「レ・ミゼラブル」ではジャン・バルジャンが神に問いかけ、「ブラザーサン・シスタームーン」ではフランチェスコに神が語りかけている。
この神に語りかけ、神に語られるということは、おおよそ日本人には馴染みにくいことだと思う。そして実際にあるとは、信じられないだろう。
しかしマザーテレサは療養帰りの列車の中で「貧しい人たちに仕えるよう」神の言葉を聞いている。その後のことはノーベル賞に至るまで記憶に新しい。そしてこの私も、実は実際に聞いた証人の1人である。予期せぬ出来事であり、本当にわが身に起こったこととはあまりにも衝撃的だった。神の言葉と確かにわかった時、その時の体の震えと激しくわき起こった感情は、今でも鮮烈に覚えている。
このように直接神の声を聞いた、私を含めて上掲のすべての人は、その瞬間から人生を根本から変えられている。ただこういうことに関して、一つお願いしたいことは、どうか体験至上主義や神秘主義にならないでほしい。
また神が語られるということは、神を信じる者にとって、特別な事柄ではない。私にしても、特別上出来のクリスチャンであったはずがない。ただ長く苦しみの底でのたうちまわり、絶望していた者だった。神が語られるのは、神が見られた時、必要な時に必要なことをされているということなのだ。
神は最高のタイミングと最善の言葉を1個人に告げられるのであり、結果として聞く者はまさに活きる神を知り、完全に神に従う者となるのだ。その後、どのような偉大なことを従った者が為したとしても、それは神に従った結果に過ぎず、すべての栄光は神にあって人にではないと堅く信じる。
Capha 中村 from iPhone