非常に大雑把(おおざっぱ)に言えば、神を信じない人にも、信じる者にも、一度だけ大きな判定があって、これを聖書では(死者の)さばきといい、第二の死とも言う。もちろん判定は神が絶対的な権限でされる。このさばきというものは恣意的なものではなく、その人か生前に行った膨大な記録による。そうなると人の死後は決まっていて、全員が有罪となり、例外なく地獄行きである。芥川の「蜘蛛の糸」とは異なって多少の善行があろうとも、基本自己中心性と原罪が人間にはあるので、みな第二の死(地獄=火の池)行きは確実となる。
ではどうしたら逃れられ、天国へ行けるのだろうか。イエス・キリストの十字架を信じる道しか人類には残されていない。天地万物を造られた神ご自身が、こんな自分の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを告白し、信じることである。十字架は全ての罪を帳消しにするスーパーカードのようなもので、天国とは正しい人が入るというより、罪人が罪赦されて恵みで入れる所である。
ところで神を信じた人にもさばきがある。そう言うと「エエッ」と驚かれるクリスチャンも多いことだろう。これはさばきというより「報い」というべきものである(1コリ3:10-15)。クリスチャンには第二の死はありえないので、確かに天国には約束通り行ける。ただし天国には、諸国の民が住む所と、天から降りて来る神の都エルサレムとがある(黙示録21章)のがポイントである。気になるのは、そのどちらに住めるのか?ということであって、都のエルサレム内に住めるのは、千年王国の時代、キリストとともに王となり、おそらくは多くの民を導く役目をするはずの殉教者か、または携挙されるような殉教に相応した信仰者(聖徒)だと私は見ている。
私はこれら千年王国の王たちが、 神の都エルサレムの聖所の柱となり、その住人となるのは確実と思っている。私はこの都にすむことを、皆と同じように熱望している。なぜならまず第一に主の近くに一時でも長く居たいと思うからだし、その都の中央には「光る命の川」と両岸には命の木(どんな木だろうか!)と毎月実のなる十二種の木があって、ここには諸国の民も来れるらしく「木の葉がいやした」とある(黙22章)。これが天国の実体なのだ。ここには悪や一切の呪いがないうえ、永遠の世界なのだ。想像するだけでも胸が熱くなるではないか。 ケパ
ではどうしたら逃れられ、天国へ行けるのだろうか。イエス・キリストの十字架を信じる道しか人類には残されていない。天地万物を造られた神ご自身が、こんな自分の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを告白し、信じることである。十字架は全ての罪を帳消しにするスーパーカードのようなもので、天国とは正しい人が入るというより、罪人が罪赦されて恵みで入れる所である。
ところで神を信じた人にもさばきがある。そう言うと「エエッ」と驚かれるクリスチャンも多いことだろう。これはさばきというより「報い」というべきものである(1コリ3:10-15)。クリスチャンには第二の死はありえないので、確かに天国には約束通り行ける。ただし天国には、諸国の民が住む所と、天から降りて来る神の都エルサレムとがある(黙示録21章)のがポイントである。気になるのは、そのどちらに住めるのか?ということであって、都のエルサレム内に住めるのは、千年王国の時代、キリストとともに王となり、おそらくは多くの民を導く役目をするはずの殉教者か、または携挙されるような殉教に相応した信仰者(聖徒)だと私は見ている。
私はこれら千年王国の王たちが、 神の都エルサレムの聖所の柱となり、その住人となるのは確実と思っている。私はこの都にすむことを、皆と同じように熱望している。なぜならまず第一に主の近くに一時でも長く居たいと思うからだし、その都の中央には「光る命の川」と両岸には命の木(どんな木だろうか!)と毎月実のなる十二種の木があって、ここには諸国の民も来れるらしく「木の葉がいやした」とある(黙22章)。これが天国の実体なのだ。ここには悪や一切の呪いがないうえ、永遠の世界なのだ。想像するだけでも胸が熱くなるではないか。 ケパ