ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

過去と現在は別のもの

2017年05月22日 | 随想
英語の学びと、忘れかけている映画の記憶を取り戻すために、ベン・ハーを四十年ぶりかで観はじめた。映画では、忘れていたが、冒頭のシーンは幼なじみのユダヤの元王家のベンと、新たなローマ軍司令官となって赴任したメッサラとが感動的な再会を果たすシーンからはじまっていた。

この後、両者がどうなったか、不倶戴天の敵と化し、紆余曲折の末、最後の大スペクタルの戦車シーンに至る。それはキリストの生涯と重なり、また過酷な迫害に耐え、三百年後ついにキリスト教がローマの国教となったユダとローマの歴史とも重なる。私はこの冒頭のシーンを観ながら、自分のかつてのつらかった経験、今は感謝している経験を思い出していた。

二十五歳の時、三年勤めた会社を辞め、臨時採用の教師として、はじめて田舎のO小学校に赴任した。教育実習も何も経験していなかった私は、即刻教室に連れて行かれて指導書を渡され、「ではお願いします」と置いて行かれた。28人の子どもたちの前で、分厚い指導書はしゃべってはくれないし、大人の私は本当に何を言って何をして良いのか、呆然として立っていた。
助けてくれたのは子どもたちで、困っている私に、これまでどうやっていたのか教えてくれた。まるで立場が逆であった。
こうして誰が生徒か先生か、メダカの学校の先生となった若い私は、閑さえあれば、子どもたちと一緒になって運動場や裏山を駈け巡った。本気で子どもたちを追いかけて怒ったし、泣き笑いにつき合った。指導能力の無い教師への不満は、地域全体で教師を育てようとばかり、表向きになることはなかった。
1年後に学校を去る時には、こんな半人前のために学校と地域はわざわざ送別式をしてくれて、涙、涙で学校を後にしたことは忘れられない。

しかしこの思い出が素晴らしかったために、私は大失敗を犯した。
家庭事情のために出世を諦め、また母の介護に都合が良かったため、懐かしいO小学校を新しい転勤先に選んだのである。思い出にすがっていたのかも知れない。しかしそれは選択の間違いであった。
当時私は家族を失って心がボロボロであっただけではない、赴任してみてわかったのだが、このO小学校では不倫や誹謗中傷、保護者同士の対立がかつて経験したことのないほど深刻であった。もはや地域のまとまりは失われており、昔とは全く違っていた。

「石をもって追われた」とまではいかないが、結局失意の内に、わずか三年で転勤希望を出した。まだ霊的なことがよくわかっていなかった私は、みこころに聞き従って歩むことができていなかった。教師人生最初の思い出の地は、全くひどい結果を迎えたのだが、逆にこのことがその後の学びと経験に大いに役立った。成功ではなく失敗から、何がこの世で一番大切か、そのことが骨身にわかるものである。
クリスチャンは神にヨ拠り頼み、聞き従い、みこころの道を歩まなければ、この世の人間と何ら変わることはないのだ。

それと同時に過去は過去。決して現在までそれが変わらずに続いていると思ってはならない。現在は生きており、絶えず変動している。過去は自分のノスタルジー(郷愁)の中に存在していただけのものなのだ。ベン・ハーを観ながら、記憶をよみがえせながら、それを強く思わさせられた。過去は過去、しがみついてはいけない。

過去にしがみつく、と言う点では会社で管理職を務めて定年退職した方の中で、普通の人としてへりくだって生きることが難しい人がいる。いつの間にか組織の中で与えられた権威が、自分のものだと勘違いするようになっていたのだ。
私たちは皆、最後には神の前に出なければならない。その時、自分が行ってきたすべてが明らかにされ、罪、その中でも特に高慢さが裁かれる。十字架無しに、その裁きを突破することはほとんど不可能だと聖書は教えている。

時は移り変わるが、絶対に変わらないもの、それは神の私たちへの愛だ。悔い改めて十字架を信じ、神により頼む者は幸いを得る。移り変わりゆくものを土台としてはならない。


ケパ



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