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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神は男性・女性のどっち?

2017年10月16日 | 
映画「アメイジングジャーニー・神の小屋より」では、イエス・キリスト役はユダヤ人の俳優であったが、なんと神さま役はオクタヴィア・スペンサーという黒人のオスカー賞をとった女優だった(写真はオクタヴィア)。これは主人公マックが少年時代に父親から受けた深刻な心の傷、トラウマがあるゆえの設定だったようだ。どうも父親につまずいている人には、神様は母親ライクな方が取っつきやすいようだ。

このことは逆に場合にも言える。私の育った家庭では、ドルカスも同じらしいが、父親が慕われていた。こういう場合、神様のことを「父なる神」と呼んでも何の違和感も抵抗もなく、すなおに即「お父様」と告白することができる。肉の父親との良好な関係が、天の父への踏み台のような働きをしてくれて益になっているのである。

さらに考えを進めれば、カトリックの場合は「聖母マリヤ」という存在があることで、父親に傷ついた人たちを救っている面があるのかも・・・・と思う。ただしもちろんマリヤは人間であって罪があり、その昇天も聖書にはない。まして神と人との間の仲介者ではあり得ないのだが。この身勝手な推量から行けば、失礼ながらカトリック信者の多い国では、だらしないお父さんが多かったのかも知れない。

実際のところ、神さまは男性でも女性でもない。私たちが今の血肉の体を失って次に与えられる御霊のからだは、男女どちらでもない。朽ちる体なら生殖が必要だろうが、朽ちないからだにとっては、もはやそのようなものは不要である。その点から言えば、性は生けるものの不完全さを現すものである。また、子をもうけられる男女一対を合わせて一人と言えるので、これを離してはならないという神の定めは当然である。

だから先にあげた「神の小屋」のように、黒人女性だろうが老人男性であろうが、神は実際の所、その人にとってもっとも都合の良い性で構わない。「ユダヤ人にはユダヤ人のように〜(中略)〜弱い人々には弱い者になりました」(1コリ9:19-23)と使徒パウロがで言っていることと同じだと思われる。大事なのは天地万物の創造主にして、愛そのものの存在である神様を知ることなのだ。

※聖書でイエス・キリストは「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです(マタイ22章30節)」と語られている。


ケパ

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