今日の水曜礼拝では、ガラテヤ書の終わりにつき、聖書の矛盾点だと思われかねない点ついて語った。(今日の船橋 風が強く寒かったが、桜はそれを待たずに咲く)
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ガラテヤ書はローマ書と並んで、パウロ神学の土台である。そこには「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」(ガラテヤ2:16)
これに対して、ヤコブ書には、
「人は行いによって義と認められる😁😁🙄😉のであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブ2:24)とある。
一方では信仰だけだと言い、もう一方では、信仰だけではない、行いだと言っている。このような言葉のぶつかりを取り上げて、聖書は矛盾に満ちた、取るに足りない書物だと切り捨てる人がいる。
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初めから神なんていない、粗探しをしてキリスト教をぶっ壊してやると思う人は、当然ながら人間的なレベルの理解力しかない。しかし対する神は宇宙と命の創造者であって、人間の能力の比ではない。
だから信仰者として、聖書で分からない、どうしてもぶつかると言う箇所においては、じぶんの人間としての力では「主よ、人間に過ぎない私にはわかりません。どうかあなたが教えてください」と祈り求めることになる。決して自分の能力で判断し、矛盾しているなどと判定したりはしない。それは傲慢だ。
かと言って、ここはキリスト教の根幹に関わる所なので、人間的な努力をして可能な限り矛盾を解きたいと思う。
まず第一に、ガラテヤで言っているパウロの対象は、教会内で、ユダヤ教の律法主義に侵されそうになっているガラテヤの人々を対象としている。対するにヤコブは、異邦人のクリスチャンが教会に行き、たとえクリスチャンても、信じる前と変わらず不品行を行い続けているような、そんな、不品行な人々相手に言っている。対象が違えば、当然言葉が逆になって行く。
また、最重要なポイントは順番である。十字架を心から信じるならば、聖霊の内住が行われ、
クリスチャンになって、最初に驚くのは、しようと思った肉欲の行為ができなくなって、返って祈るように導かれることである。だから私としての答えは、順序にある。信じたら(神に反することが)できなくなる、そう言うわけで、ヤコブの手紙もまた正しいのである。
ケパ