ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

春はいのちの季節

2019年04月22日 | 示されたこと
毎週末のことだが、土曜日はメッセージの産みの苦しみ日となる。テーマをはっきり示されている場合はともかく、波の泡のように、湧いては消え、問うては蜃気楼のように消えることも多い。
 
先の土曜日の朝、自宅の目の前の公園に出て、一人祈り、黙想を重ねていた。ちょうど朝日が公園に差し込んで来て、その光が当たった左肩だけが温かい。
ふと見上げると若枝に若葉が風にそよいで眩しい。思い出すと、確かこの木は昨秋の剪定で丸裸にされた木だ。せっかく伸ばした枝をぶつ切りにされ、寒空に裸で立っていたような木だった。それが切られた枝から、シュー、シューと若枝をこんなに伸ばし、葉をつけたのだ。すごい生命力だ。
目を下ろすとすごいスピードで蟻が地面を走っていた。中には自分の体ほどの小さな死骸を咥えて運んでいるのがいる。ダンゴムシも近寄ってきたので、優しく?ひっくり返すと本当に小豆ほどのまん丸玉になった。何分そうしているんだろうと、測ったらものの2、3分で、辺りを伺いながらそろそろと復元し歩き出す。百足(ムカデ)でも思うのだが、ダンゴムシも、よくもあんなに沢山足があってももつれないものだ。(解説 ダンゴムシ)
自然の素晴らしさ、いのちの季節である春に、神を賛美していると、ふと示しがぎた。
 
神はご自分を信じる者には、「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」(1テサロニケ4:3)がテーマの聖句なのだが、それは字義通りではなく、予表であり次の意味なのだと。
 
この血肉の体を着たままでは、どんなに頑張っても聖にはなれない。罪とは神に背を向け、的を外すことである。その逆が聖なのではないだろうか、と。つまり、タラントに関わりなく(もともとそれは神が与えてくださったものなので責任はなく)、世にあって、私たちの心が愛する父なる神に向かって「神に喜ばれたい」一心で歩むのなら、それは聖へと向かう結果をもたらす聖なのだと。
どんなレベルのものであっても、神は心を受け取ってくださり、喜んでくださることは間違いなし。神を何とかして喜ばせよう、そのことを「(天と言う未来において)必ず聖になる」意味なのだ、と。
言葉を未来形で受け取ることで、開かれました。感謝!
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
 
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