私たちの教会では、礼拝のある日は集まってするので、それ以外の日は全員欠かさずLINEで早天に賛美と感謝の祈りをしている。
(教会で祈り会)
(礼拝後の祝祷)
(教会で祈り会)
そして感謝の祈りは良かったことだけでなく、悪かったことをも信仰を持って感謝している。しかし最近、次のような祈りが多く、少し気にしている。
「今日は一日中雨で、出かけにくいことを感謝します」
「スピード違反でパトカーに捕まったことを感謝します」などなど。しかし、感謝の一つ一つには、ドラマがあるはずなのである。
なぜ普通なら感謝できないことを感謝するのか、と言えば神を信じる者には、一見悪いことのように見えて、そこに神の摂理があり、信仰におけるたて上げの計画を見ることができるからである。
だから本当は単に口癖で「感謝します」と付け加えたわけでなく、「神様、今日のせっかくの土曜日、私は買い物する予定でしたが、どうして今日に限って雨なんでしょうか?雨を支配されておられる神様が、別に意地悪しておられる訳じゃないですよね。それとも神様、買うのはやめなさいって言うことですか?」と言うような、心の葛藤を伴う祈りの中で、最終的に御心が示され、それが最善だと気付いてする祈りが、悪いと思えることに対しての【感謝の祈り】なんだろうと私は理解している。
つまり、感謝出来ないことを神に祈り、それがなぜ許されているのかを問い、「雨でおっくうだ」という自分の心にある怠慢さや、何でも自分の思う通りにならないと我慢がならないわがままさを指摘されたりして、悔い改めに導かれたり、立ち向かう力を与えたらたりしたこと、そのようなことをありのままに明らかに語り、感謝し力ある神を褒め称えることがポイントだから。
こうした感謝は、時に喜びのあまり、"天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。"(イザヤ書 55章9節)と、感謝の踊りまで繰り出すことになるわけである。
スピード違反で捕まり、運悪く?としか思えない場合でも、多くのクリスチャンは口先だけでの「か、かか感謝しまーす」だけかも知れない。しかし、捕まったのが不法でもない限り、速度違反を反省し、これが許されたことに、神の許しもあることに気づいて、以後、スピードを控えるよう神が警告されたのだと受け取った。結果的にそれが後の重大な事故から護られたケースがある。あの時、とても喜べない警官の手を通し、その意味を問うての聞き従いを通して、神の護りを心から感謝したのだ。
(礼拝後の祝祷)
神を信じる者には、究極的には全てが益になる。しかし悪かったとしか思えないことを祈りや証しにおいて感謝する時には、単に悪かったことがらの最後にただ「感謝します」と、一見口癖かのように付け加えるだけでは、何をどう感謝しているのかが聞く人に伝わらない。
できることなら、丁寧に感謝の内容を伝えて行き、共にわかち合いたいものである。
ケパ