私は小さい頃から物事を否定的に考え、受け取る傾向があって、皮肉屋で、冷笑的だった。盲腸で入院した時、見舞いに来てくれた近所の友だちを、追い返したほどだった。だから書物だけが友だちの、孤独で、かなり可愛くない子どもだったと思う。いじめられたことを前々回書いたが、標的にされるのも、うなづける状態だった。内心はどんなに、人とのふれあい、愛を求めていても、まずそんな自分を知られないようにし、高慢であり続け、守ることで十代前半まで生きていた。
いつもそんなあり様が苦しくて、子どもなのに死ぬことを考えていた。だから12才でジッドの「狭き門」を読んだ時、恋愛することより、神への愛を優先する愛の形に衝撃を受けた。そして「これだ!」と思った。この神が真の神で、私の神だと知ったのだった。
クリスチャンになった多くの人は、それまでの人生のどこかでミッションスクールに行ったとか、幼稚園がキリスト教式だとか、幸運なことに親族にクリスチャンが居たとか、あるいは近くに教会があった、そんな方が多い。キャンパスや路傍で伝道されて信じたという人は、割合的には意外と少ない。しかし私のように、上掲のいずれにも当てはまらない、導く人皆無で、なおかつクリスチャンになろうとし、実際になった人の話は、これまで一度も耳にしたことがない。神は伝道がどんなに不可能な場合でも、信じる者を起こそうとされれば、それはその通りに成ることの実例がこの私である。
しかし、幸せで、善良な少年が信じたのではない。中学から私学へ通わされながら、へそ曲がりでその心は愛に飢え、乾ききった、死への甘美な誘惑に常に誘われていた少年が、救われたのである。自分に希望を持てない、頭でっかちで鼻持ちならない高慢な少年が、である。実に逆転である。
神さまは人の目には不思議なことをされる。牧師になろうと献身して神学校に入ったとたんに、妻を失った人。また、神学校を卒業してこれからという時に、生死をさまよう病に倒れる。牧師を全面的に支援しようと、立ち上がったばかりの信徒の愛息が、直後に事故死する。神を信じる者に良いことが起こるのならわかるが、これは反対ばかりである。
しかし実は、これらは神に愛されている人々である証拠なのだ。聖書にはこのように私たちに教えている。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタ 6:33)
このことばに「ふんふん、良いこと言っておるわい」では甘い。聞き流すのではなく、これは実際に「神さまのことを第一に求めよ」、と言われているのだ。しかしどうして、人間に過ぎないものが、神さま一番に実際に生きられようか?瞬(またた)く間にその頭の中は、神の事など吹き飛んでしまい、この世の事ばかりに支配されてしまうのだ。
しかしもしその人が、理不尽ともいえる苦しみにあい、生きるのが辛い中で、生きる本当の目的を神に見いだしたとするならどうだろうか。神を呪うのではなく、逆に取り上げられれば取り上げられるほど、細くなった神という一本の糸に、自分の命以上に、神を求め、愛し、神の内に留まることを選んだとすればどうだろうか。これは想像を超えた祝福となる。そう聖書で神が、確証を与えているのだ。
世のものはやがて、すべて過ぎ去る。しかし神の愛と、神の内にある希望と喜びは、肉体の死すらこれを奪う事は出来ない、永遠のものなのだ。そのために最愛の伴侶の死、行く末の希望であった愛息の死があったとすれば、なんと神に愛された人なのだろうと思う。しばしば、神は世でもっとも愛するものを、奪われる(正確には、許される)。伴侶も息子も、天で甲斐あったと手を打って喜ぶ事だろう。
天の神の為さる事は、人智をはるかに越えたものである。 ケパ