Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

圧巻のグルスキー

2014年04月19日 | Photography
日本橋から歩いて博労町にあるプロカラーラボにいく。溜まっていたモノクロフィルムを現像に出す。
さらに中之島まで歩いて中央公会堂でオムライスを食う。
そのあと国立国際美術館で「アンドレアス・グルスキー展」を観る。
うまいぐあいに本日は学芸員によるギャラリートークが開催される。先着90人には無料でワイヤレス受信機も貸してもらえる。



アンドレアス・グルスキーといえば、ライン川を写した作品がクリスティーズの競売で430万ドルという史上最高額で落札されたことで有名なドイツの写真家である。
写真1枚が3億円だなんて、いったいどんな写真なんだと思うだろう。
それが現物を見るとおどろくほど素っ気ないというか、「ええっこれがそうなの?」というくらい、ふつうの川の写真なのだ。

学芸員の話によると、ここに展示してある「ライン川」の作品はじっさいに落札された作品の小型版だそうで、本物は高さ185.4 x 幅363.5センチという巨大な写真らしい。(写真なので小型でもニセモノというわけではないが)
そして本物は世界に6枚しかなくて、そのうち4枚は世界の有名美術館が所蔵している。のこりの2枚は個人が持っていたのだが、そのうちの1枚が競売に出たという話だ。
つまりこの作品が市場に出ることはきわめて稀なことなので、3億円を超える落札価格となったというわけである。



ま、下世話な話はこのくらいにして、作品のことをすこし。
グルスキーの作品はとても大きい。そして水平あるいは垂直の線が際立った構図が多い。
作品に近づいていくと高精細に描写されたいろいろなものが見えてくる。それは人間であったり、99セントショップの商品であったり、あるいはチャオプラヤー川にうかぶゴミや南極大陸の雪面であったりする。
共通するのはどの作品も隅々までピントが合っていてボケている部分がないということだ。

たとえばベトナムの籠編み工場のようすを斜め上から俯瞰で撮っている写真は、手まえの人から奥の人まですべてにピントが合っている。
すこし写真に興味のある人ならこの写真を見て「なんかヘン」と感じるだろう。
でも大型カメラのアオリ撮影を知っている人なら「これはレンズボードをティルトしてるのさ」と説明するかもしれない。
だけどデジタル技術を知る人は「この写真はすべて合成だ」と見抜くだろう。
すべて正解だけど、ある意味すべて不正解だ。



彼はいわゆるベッヒャー・シューレ、つまりルッセルドルフ・スクールで写真を学んでいる。
類型学的なアプローチと巨大プリントによる見せ方はベッヒャー派の作品に共通するものだ。
彼の作品がおもしろいのは、デジタル合成した虚構の風景であるにもかかわらず、その部分部分は実在するものであるから、ふしぎなリアリティを感じることである。
画面のすべてにピントが合っているので、どこにも曖昧なところがない。じっと見ていると吸い込まれそうになる。
たとえば無数の人間が写っているパリのアパートの写真などは、その厳格な水平垂直の構図によって現代アート的な美しさを感じると同時に、鑑賞者の覗き見的な欲望を誘発する。
そこに写真というメディアのもつ本質的なおもしろさを感じずにはいられない。

わたしが感銘を受けた作品は「オーシャン」というシリーズで、この写真はグルスキー氏が撮ったものではなく、人工衛星から撮影した画像を彼がデジタル技術によって加工し作品化したものだ。
したがって大陸どうしの距離感はじっさいとはちがうのであるが、海の深さをデータ化しそれを青色のグラデーションに置き換えているそうなので、その意味では真実性もある。
もうこうなってくると写真家の仕事とはなにか、写真とはなにか、ということを考えざるを得ない。
とにかくそのスケールの大きさが圧巻で、有無をいわさぬ説得力があるのだ。やっぱり写真ってデカい方がおもしろいなあ。

ここにグルスキー作品がまとめられています。

春の六甲山をゆく

2014年04月17日 | Life


4月に入って入学式や学級写真の撮影でバタバタしていたが、ようやく一段落したので、きょうは恒例の春登山。六甲山へいく。
阪急の芦屋川駅から歩いて滝の茶屋をめざす。ここは六甲山の登山ルートのなかで最も難所といわれるロックガーデンの入口。
20分ほどで到着すると、みんな準備運動をしたり、一服をしたりしている。わたしもかるくアキレス腱をのばして、いざロックガーデンへ。



無事にロックガーデンを越えると、あとは太陽と緑の道という比較的なだらかな登山道がつづく。
途中、何度か休憩しながら、ちょうど2時間くらいで山頂に到着。
きょうはよく晴れて気持ちのいい天気だが、遠くの方はかすんでよく見えない。
それに目がしょぼしょぼする。花粉やPM2.5が飛びまくってる感じ。



つくってきたおにぎりを山頂でたべ、すこし休んで下山。有馬をめざす。
ツバキやハクモクレンなどがまだ咲いていて、写真を撮りながら歩いていくと、1時間ほどで稲荷神社に到着。
温泉街にはまだ桜が残っていて、なんだか得したような気分で有馬をあとにする。



阪急バスで梅田に着いたついでに、ヨドバシカメラで気になっているカメラをさわる。
気になってるのは、富士フィルムのX-A1だ。手ごろな価格で高画質な写真が撮れるようなので、このさいニコン1 V1の代わりに使ってみようかと考えた。
ああ、でもやっぱり手にするとダメなんだな、富士フィルムのカメラは。

誤解のないように書いておくが、わたしはフィルム時代から富士フィルムのカメラを何台も使ってきてるので、その技術力・描写力の高さには信頼をおいている。
でもなぜか、カメラそのものの魅力に欠けるというか、質感つまり手ざわりが安っぽいので、寸前のところで購買意欲がそがれてしまう。
仕事用と割りきって使うには問題ないけど、遊び用としては手がのびないのである。

PONPONPON

2014年04月16日 | Life
近ごろ、仕事にせよ遊びにせよ、あまり迷うことなくパッと行動できて、それがおおむね思いどおりにいく。
なぜだかわからないが、いろんな事がうまくかみ合って、ポンポンポンとすすんでいく。
なんだかいい調子なのである。

きょうは午前中、G中学校の学級写真をつくり、それから愛犬アルタを狂犬病の予防接種に連れていく。そのあと家の固定資産税を1年分全納し、近くのスーパーで食材の買い出し。
午後からG中学校へ納品、さらにH小学校へ学級写真を撮りにいって、帰宅後、夕方までデータ整理。そしてアルタの散歩と夕食づくり。
こんな感じで1日があっという間に過ぎていく。

 この曲を聞けば元気が出るよ→「PONPONPON


それから久しぶりに「コメント」を復活させました。

進歩的なお墓

2014年04月13日 | Life
きょうは正月に亡くなった義母の百か日の法要と納骨の日だ。
百か日というのは、故人が亡くなって百日目くらいにするものであるが、もう悲しんでばかりいないで、そろそろ気持ちを整理して今までどおりの生活にもどりなさい、という日でもある。



お坊さんが来るまでに妻の妹たちと裏山へタケノコを掘りにいく。
義妹は山菜採りに長けていて、昨夜は夕食に採ってきたタラの芽やユキノシタの天ぷら、コゴミのおひたし、ノビルの酢みそ和えなどをつくってくれた。
彼女は手際よく雑草を刈り取ると、わたしがさっき見すごした場所から、あっという間に3本もタケノコを見つけだした。
わたしはそれを掘り出す仕事を仰せつかる。傷つけないようにまわりの土をていねいに掘っていく。
小ぶりだが美味しそうな春の恵みを収穫する。



10時にお坊さんがやってきて、母屋の仏間で法要ははじまった。
半時間ほどお経を唱えて、すこしお話を聞き、そのあといよいよお墓へ納骨する。
じつはこのお墓、義母自身がいまから7年まえにつくったもので、正面文字には家の名まえではなく「先祖累代諸精霊」と書かれている。
その意味は「この家に関わりのある人ならだれでも入れますよ」ということだと、義母が生前にいっていた。これってすごくない?

近年、日本人の家族観とか結婚観は変わってきているが、それでも婚姻届には9割以上の妻が夫の姓を書くし(法律上は夫が妻の姓を名乗ってもいい)、未だに現行法では夫婦別姓は認められていない。
そういう価値観の延長に家族制度や墓制度があると思うので、「だれでも入れる」お墓というのはかなり進歩的で革命的ともいえる。
ちなみに妻とわたしは事実婚で、もちろん夫婦別姓なので、法的には妻の家系とわたしはなんの関係もない。
でも四半世紀のあいだ、この家に関わりをもってきた人間なので、わたしも往く逝くはこの墓のなかで眠りたいと思っている。
義母もそれを望んで、お墓に「◯◯家之墓」とはしなかったのかもしれない。
(じゃあ、マツノ家の墓はどうなってる? というツッコミは今回はなし)



納骨をおえ、お寺へ出向いてもう一度お経を唱え、百か日忌は無事に終了。
夜、大阪にもどって、今朝掘ったタケノコを調理する。生前、義母のつくったタケノコの煮物には遠くおよばず。それもまたよし。

心を浄化する方法

2014年04月12日 | Life
午前中、大阪城公園まで走っていって、外堀+内堀コースを1周して、また走って帰ってきた。
走っていると、日ごろあれこれ考えていることが頭のなかをぐるぐると駆けめぐる。
1時間を超えたあたりから、思い悩んでいたことがスーッと消えてしまって、これからやるべきことだけがはっきりとわかってくる。

以前見たテレビ番組で、思想家で武道家の内田樹さんという人が言ってたのだけど、合気道の稽古をしていると心がどんどん浄化されて、自分がすべき仕事や立ち位置がぱっとわかるようになるらしい。
合気道をやっている友人に聞いたら、たしかに浄化されて悩みなどは忘れてしまうそうなので、心と身体のバランスというものはとても不思議だと思う。
座禅やヨガにも通じそうなこの浄化作用は、わたしの場合、1時間以上走ることなのかもしれない。

シャワーをあびてストレッチしたあと、撮影に出る。きょうは大和川の右岸をバイクで流す。
夢中で撮っていると2本目のフィルムが10枚目のカウンターを過ぎている。ああ、さいごの2枚くらいは空撮りだったかも。
大した釣果のないまま、きょうの撮影は終了。



ところで記録用にいつも使っているニコン1 V1に「張り革キット Nikon F2タイプ」なるものを貼ってみた。
本体がツルッとしたデザインなので、この革を貼るとたしかにグリップ感が向上する。
そして見た目がすこしクラシックな感じになって、ますます愛着がわいてきた。かわいいでしょ。

夕方から妻の実家へいく。あすは亡くなった義母の百か日忌だ。